時速200キロの恋人

第1話ロードスターとの出逢い

「だ~か~ら~」低めの若い男声が言った。「あれはお前のせいじゃねぇだろ。いつまでも引きずんな。」

運転席で、矢井田(やいだ)あやめは悔し涙に濡れた目で顔を上げた。

「だから腹が立つんじゃないの!だいたい経理やってて会社の売り上げに貢献って何?やってるわよ、皆のお金の管理は!売り上げが悪いのは私のせいみたいに言うのよ?あり得ない!」

今日は会社の契約更改の面談の日だったのだ。契約社員だが、小さな会社なので、社長と個別面談を行う。あやめは社長の桑田から、しこたま嫌みを言われたのだ。男声は答えた。

「分かってるよ。聞いてたからな。で、どうする?このまま帰って辞表書くのか?ま、それでもいいんじゃねぇのか。」

あやめは怒ってハンドルを叩いた。

「それが出来たら苦労はしないわ。生活にもろ響くから、それが出来ないって言ってるでしょ?!」

男声は少し不機嫌に言った。

「いてっ!おいこらオレに当たるな。オレのローンだってもう終わったんだろうが。家賃無いんだし最低でも手取り10万ぐらいあったら何とかやってけるだろうよ。」

あやめは唸った。

「…それだけじゃ困るんじゃないのよ。」

あやめは乱暴にエンジンを掛けた。ギアをドライブに入れると、アクセルを踏んだ。変な音がして、それでも車は前に出た。

「いててて!馬鹿、何やってる!サイドブレーキ下ろせ!」

あやめは、あ、とばつの悪そうな顔をした。

「ごめん、星路(せいじ)。」

あやめは、自分の家に向かって走り出した。車に文句言われて謝ってるなんて、世界に何人いるんだろう。いや、結構居るのかもしれない。

暗くなった街並みの中、ひたすら家に向かって無言で白いロードスターのアクセルを踏む。この車を購入してから、好んで換えたヘッドライトの色は澄んだ青色だった。だが、夜点灯して見て分かったが、光の色は白かった。

ハンドルを切りながら、あやめは考えた。自分はいつから、こうして人が話せない物と話すようになったんだろう。

あやめは、星路と出逢った5年前に想いを馳せた。


あやめは、生まれた時に母を、中学生の時に父を突然に亡くして、祖母と二人で生活していた。

それでも、年老いた祖母に負担を掛けてはいけないと、高校を卒業してすぐ就職し、経理事務員として働き出した。祖母は足が悪く、病院に通うのもいつもバス、付き添って行く道でも、その危なさに一念発起し、免許を取得した。

しかし、祖母の家には車がなかった。その頃既に働いて二年、もしかしてローンも組めるのではと、家の近くのディーラーに中古車を展示していたのを思い出し、若い女だからと追い返されたりしたらどうしようと思いながら、足を踏み入れた。

忘れもしない、土曜の朝だった。

そこの営業マンだろうと思われる男性が、一生懸命洗車するのを横目に、あやめは一台一台並んでいる車を見て回った。明らかに古いものもあれば、新車なのではないかというほど綺麗なものもある。それぞれに値段の大きなプレートがフロントガラスの後ろに掲げてあり、貯金を考えても買えそうな物が案外あることにあやめは勇気が出た。

「どういったものをお探しですか?」

明るい高めの男声があやめに問い掛ける。あやめはハッとして振り返った。そういえば、どんな車にするか全く考えていなかった。

「あの…オートマでないと駄目なんです。」

咄嗟にそう答えると、相手は微笑んだ。

「その辺りの車はだいたいそうですよ。」と、自分の名刺を差し出した。「申し遅れました。高野(たかの)と申します。」

あやめは恐る恐るその名刺を受取った。

「今は何のお車ですか?」

あやめは首を振った。

「免許を取ったばかりで、初めてなんです。」

相手は、小さ目の黄色いナンバープレートの車を指した。

「始めての女性のかただと、軽自動車を選ばれるかたが多いですね。燃費もいいし、家族連れでも軽を選ばれるかたは多いです。今の軽は中も広いんですよ。」

あやめは、言われるままにドアを開けて中を見た。座って後ろを振り返ってみると、確かに広い。

「ほんとだ、広い!」

びっくりしていると、高野は言った。

「どの車でも試乗できます。乗ってみますか?」

あやめは、ハンドルを握ってみて思った。なんかピンと来ないなあ…。

「もう少し見ても、いいですか?」

高野は愛想よく頷いた。

「どうぞ。」

あやめは、展示場を歩き回った。これからずっと乗る車…。いったい、自分の車のイメージってなんだろう。可愛いのがいいのか、それともカッコいいのがいいのか…。

ふと、白のスポーツタイプの車が目に入った。小さいのに、他と比べて背が低く、まるで良く知らないけど、フェラーリとかの車を小さくしたみたいな形。よく考えてみたら、あやめは物心ついた時から、車と言えばこんな形だった。

助手席側の窓から中を覗いてみると、明るい茶色のシートが二つついている。そして、後部座席はなかった。

「それはツーシーターなんです。」高野の声が言った。「二人乗りで…ああ、確かにこれはオートマですね。この形の車はミッションが多いのに、中古でオートマでこの形がいいなら、これはラッキーですよ。」

あやめはそっと運転席側のドアを開けて乗り込んだ。運転席はとても広いし、何より車ってこう!というあやめの気持ちにどんぴしゃだった。108万…ちょっと予算オーバーだしこれは無しかな…。

「…ふーん、お前、見る目あるんじゃねぇか。」

あやめはびっくりして辺りを見回した。高野が不思議そうな顔をしている。今の声は低かった。間違っても、高野の声ではない。あやめがためらっていると、高野が言った。

「試乗されます?」

あやめは、勢いで頷いた。高野は微笑んで、走ってキーを取りに戻って行く。あやめが外に立ってそれを待っていると、またあの声が言った。

「オレはもう、あっちこっちの店を回って三年オーナーなしなんでぇ。それというのもオートマで、なのに三年落ちで値が高かったからな。お前、オレを買わねぇか?じっとしてるのももう飽きた。二人とか言ってるけど、無理したら三人ぐらい入らあな。」

あやめはちょっと困ったが、ちらとその車を見て言った。

「あなた、話してる?私の気のせいとかこの暑さのせいとかじゃなくて?三年落ちって言ったわね?」

その声は、しばらく黙った。

「…ちょっと待て。お前、オレの言ってること聞こえるのかよ。」

「聞こえるも何も、バシバシ聞こえるわよ。なんかコンピュータついてるの?スピーカーどこ?」

そんな外国のテレビドラマを見たことがある。あやめはきょろきょろと車体を見た。その声は言った。

「そんなもん、着いてても話す機能なんてねぇ。なんてこった、たまに居るとは聞いてたけど、ほんとにお前は聞こえるヤツなのか。なら話は早い。オレを買え。」

あやめは顔をしかめた。あちらから高野が走って来るのが見える。

「簡単に言わないでよ。あなた100万越えてるのよ?せめて100万ぴったりでないと私、すごく頑張らなきゃならないんだから。」

声は急いで言った。高野が来るからだ。

「じゃあ100万ぴったりにしてやる。下げてもらえ。オレはどうやっても、なんでだか左後方のタイヤの辺りが小さく鳴るんだ。それを言え。どんなメカニックも、これだけは直せない。」

あやめは眉をひそめた。

「そんな!大丈夫なの、外れたりしない?!」

「全く問題ないのに鳴る音だから直せないんじゃないか。それからダッシュボードの下に大きな擦り傷がある。それで100万だ。わかったな!買えよ!」

高野が息を切らせて到着した。

「何か問題でも?」

あやめは慌てて首を振った。

「何でもありません。」

車と話してたなんて言ったら頭がおかしいと思われて、売ってくれなくなるじゃない。

あやめは高野と共に、路上へと出て行った。

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