リズム

YGIN

第1話

階段を駆ける自身の足音が反響して自己の耳に入ってくる。

 どうしてこんなに私は急いでいるんだろう。

 そしてどうしてこんなに私の足音は校舎に響き渡るのだろう。


 その理由は勿論知っていた。


 文化祭の後片付けのためだけに、わざわざ休日に学校へ出てきたこと。

 そして部室棟の一階から四階までを何度も往復していること。

 これらに対し非常に苛立ちを募らせていたために、自然階段を踏み込む私の足には力が入っていたのだ。


 今年私は高校三年生であり受験生だった。先日、高校生最後の文化祭が終了した。それに伴って当然のことながら発生する後片付け。しかし、私が所属もとい部長を務める書道部の面々は、誰もかれもが理由をつけてこれを拒否した。どころか顧問の先生さえ研修を理由に欠席し、「牧口、お前だけが頼りなんだ」とだけ添えられ全て押し付けられてしまった。

 私の兄は既に一流企業に就職し、姉は国立大学へ進学している。

 どちらも親孝行の素晴らしい息子と娘として、親戚一同の評価がすこぶる良い。

 そんな二人の兄姉を持てば、自然、両親から受ける私への期待は非常に高くなるのだった。

 そう、私は必ず書道部の部長として責務を全うし、教師陣から高い評価を得なければならないし、また、休日は早く受験勉強に取り組まなければならなかった。

 そのような煮え切らない気持ちを内包しながら、ただ只管に四階の書道部部室から、レンタルしていた一階の旧教室へと机や小物類を運び続ける。

 当然ながら、部室棟に他の生徒の影はない。皆文化祭が終わり、疲れ切っているのだ。このような片付けは、次の登校日となる来週の火曜日の放課後からでも始めれば良い。誰だってそう考えるだろう。

 しかし我々書道部にはこの休日の内に部室を綺麗にしておかなければならない理由があった。

 この年の書道部は全国的にも大きな評価を得た。それに伴って火曜日にはTVの取材が来るらしいのだった。だが、それならばそうと、文化祭からもう少し間隔を開けるなり、別の教室で取材を受けるなりすれば良いと思った。だが、顧問の秋田先生はあまり思慮深いタイプではなく、むしろ自分がTVに映ることに興奮するばかりで、結局全て向こうの言いなりになって、日取りもTV局側の都合、そして撮影場所も「生徒達の練習風景を間近で見れる書道部部室」、と、あっさり決まったようだった。


「はぁ……」

 一階の旧教室は半ば物置場となっている。通常の一部室よりも大分広く、スペース的な問題はない。

 私は抱えていた椅子を適当な位置に安置すると溜息を吐いた。


 まだ、部室にはいくつかの机椅子のセットがある。それらを四階から降ろし、更に部室内の装飾物等を全て処分していかなければならない。


 朝一に当番でやってきた先生と同時ぐらいに入校したというのに、もう正午になろうとしている。

 多少お腹が空き始めていたが、私は昼食を取りに校外へ出るという時間の無駄遣いはしたくなかった。


 再び、一階から階段を駆け上がる。

 タカ、タン、タカ、タカと、ワザとらしいぐらいに足音が反響する。

 まるで私ではなく、階段が怒っているみたいだ。


 いや、勿論私だって腹を立てている訳ではない。部長として責任ある仕事をこなすのは当然なのだから。大なり小なり「皆がやりたがらないこと」は請け負わなければならない立場なのだから。ただ、多量にやり残している本日分の勉強メニューをこなさなければならないという焦りがあるだけなのだ。


 と、私は誰かに本音を見透かされている訳でもないのに、自分に言い聞かせていた。



 そんなことを逡巡しながら、足音を更に強いものにしていると、ふと、何か硬いものにぶつかった。

 反動で私の身体は宙を泳ぎながら後退する。

 幸い、丁度三階の踊り場から四階に上がる階段を数段ばかり踏み始めたところだったので、踊り場に尻もちをつくだけで済んだ。

「おい、大丈夫か?」

 その声主が、即ち私にぶつかって来た人物だった。

 いや、むしろぶつかって来たと言えるのは私の方だっただろう。階段の足音につられ、気分が上ずっていた私は明らかに前方への注意を怠っていた。それにまさか私以外に部室棟に人が居るとは思っていなかったのである。

 いずれにせよ、彼からすればムっとしても不思議ではない。

 にもかかわらず私の身を案じる台詞を投げかけてくれている時点で、私は彼に感謝すべきなのだろう。

「う、うん、大丈夫……ぶつかってごめんなさい……」

 私はスカートが少し捲れたので、気恥ずかしさも相まってすぐに起き上がり、そのような謝罪を述べた。

 だが謝罪を述べつつも、さして心はこもっていないことに自分でもはっきりと気付いた。

 どころか私は自身の焦燥感が増しているのだった。

 臀部には軽度ながらも鈍痛を感じており、この痛みを押して再び作業に戻らねばならないのかと気が滅入っていた。

 もっと言えば、やっぱり私はムッとしていた。

 この人がぶつかってこなければ痛みなど発生せず、もっと早く終わらせられたかもしれないのに、と。


 無論、逆恨みもいい所だった。

 先述したように、不注意なのは明らかに私の方だったのに。


 男子とはあまり関わる方ではないが、少なくとも彼はクラスメイトだったので名前ぐらいは憶えている。

 今眼前に居る人物は篠崎純一という男だった。

 学業や体育にさして目立つところもなく、その上主に他クラスの男子生徒達と仲良くしているようなのであまりクラス内で喋っている様子を見たこともなかった。

 加えてルックスについても、どうとでもないような平凡な顔立ちだったため、取り立てて印象は薄い。どんな性格なのかもよくわからないぐらいだったし、何をしに今この学校に居るのかさえ不明だった。


 ただ、そんな彼に対する希薄な印象、即ちほぼゼロのような印象が、若干のマイナスな印象へと下降するのが私には手に取るようにわかった。


 とにかく、逆恨みだ。

 妙な気を起こして彼に悪口でも言ってしまう前に早く立ち去ってしまおう。


 私はそう考え、軽く頭を下げた後、再び階段を上がろうとした。

 だが彼は階下から私を呼び止めてきた。

「おい、ちょっと待てよ」

 私は振り返って彼を見下ろした。

「何……?」

 彼は澄ましたような表情で言った。

「あんただろ、さっきから行ったり来たりガチャガチャと色々運んでるの。正直五月蠅くてイライラするんだよね」

「は?」

 私は思わず口を開けてポカンとしてしまった。

 先程の私に対する心配振りからして、せいぜい「ぶつかって悪かった」とかそんな言葉が掛けられるだろうと思っていたからだ。まさかそのような攻撃的な台詞が飛んでくるとは思いも拠らなかった。


 私の苛立ちは明らかに確信のあるものに変わった。

 そしてこのような人物に関わるのは時間の無駄だと感じた。

「そう。それはごめんなさい。でも私だって一生懸命やってるの。五月蠅いなら帰れば? 篠崎君だって今日休みでしょ?」

 だが私がそう冷たく述べると、彼はチッチッチッと人差し指を掲げて振ってきた。

「俺はねえ。さっきまで気持ち良く寝てたんだよ。書道部から更に階段側に近い天文部の部室でな。わかるか? どっかの誰かさんがガタガタ言わせながらお片付けしてたせいで、優雅な眠りを妨げられた男の気持ちが」

 私は怒りのボルテージが高まり過ぎて思わず暴言を吐きたい衝動にかられたがどうにか抑えた。

「ごめんなさい。私、男が考えることなんてよくわからないから」

「おやぁ、処女発言ですかぁ?」

 イラッ。

 私は堪らなくなって、左手の拳をグーにして近くの壁を殴った。

 だが、みっしりとした重厚感のあるコンクリートの壁は、音を出すことさえなかった。

 代わりに得たのは、左手からジワンと伝わる痛みだった。

 しまった、また身体が負傷してしまった。

 私は途端冷静さを取り戻して、これ以上関わり合いになる気はないとばかりに述べる。

「はぁ。もう良いよ。とにかく私はちゃんと先生の許可を貰ってやってることだから。これ以上何か言うなら篠崎って人にセクハラされましたって先生に言うよ?」

 私は特に期待している訳でもないのに、こういうときだけは「先生」というフレーズを利用した。

 これで黙るだろう。彼だって受験生なのだ。不祥事を起こしたら人生丸ごと御終いなのだから。

 私はそう思った。

 だが、彼は相変わらず笑いもせず怒りもせず、平坦な顔色で言った。

「まぁ良いか。とりあえず俺は何を運んだら良い?」

「は……?」

 私はまた訳が分からずポカンとした。

 彼は、おいおい冗談は良してくれとというような調子で続けた。

「だーかーらー、手伝うっていうそういう流れだろ、このやり取りは。あんたがちんたらやってたら何時まで経っても俺は寝られねえ訳。アンダスタン?」

 私は苛々と戸惑いが入り混じって、兎にも角にも酷く不機嫌な調子で言った。

「は? 何、手伝うって? 全然そんなやり取りじゃなかったと思うけど……。いや、もう良いよ。そんな恩着せがましいことをされても今更」

「はぁ? あんた自分が物凄く効率の悪いことしてるのわかってるのか? 女子生徒一人でチマチマ一個一個物運びして馬鹿ですかー? そんなことより、こんな輝かしい男手が手伝うと宣ってるんだから、素直に喜べよ」

 私は冷たく言い返した。

「いや、もうそんな篠崎みたいな態度の人例え男手だったとしても要らないから。悪いけど用がないなら帰って? 第一、わざわざ部室じゃなくて家で寝ればうわっ!」

 私が言い終わらない内に、彼は何時の間にか私より上の段に上っていた。

「いーから、行くぞ。時間が惜しい」

 そして、私を置いてズンズンと階段をあがっていく。

「ちょ、ちょっと待って!」

 私はまだ痛むお尻の方を少し擦りながらも彼を追った。


 書道部の部室に入るや否や、篠崎は机をヒョイヒョイと持ち上げて次々に廊下の方へ運んで行った。


「あんた、こんな長机どうやって一人で運ぶ気だったんだよ……」

 最後に残った長机を言われるがままに一緒に運んでいた私の前で彼はボソリと言った。

「別に、こんなの片側を上手く固定させながら回転させるように」

「あーもう、聞きたくない聞きたくない。なんでそんな何とかスイッチみたいなことをやらなきゃいけないんだよ。あんた、言わずもがなのクラスでトップ成績なのになんでそんなこんこんちきなんだ? 人を使えば良い話じゃないかよ」

 私はムスッとしながら答えた。

「は? とにかく今日は私一人しか来られなかったんだから仕方ないでしょ。だから私は一人でできる限りの最善を」

「はい、その前提から間違ってるんです。牧口は」

 と、彼の発言を聞いて私はなぜだかドキッとした。

 今まで「あんた」としか言ってこなかった癖に、唐突に私を名前で呼んだからだった。

 篠崎は自分の事を知らないんじゃないかという不安も何処かにあったのかもしれない。

 なぜこんな不遜な男に憶えられていないからと言って不安に思うことがあるのかはわからなかったが。

 篠崎は続けた。

「こんなの明らかに複数人向けの仕事だってやる前からわかるだろ? 別に書道部の奴らが駄目なら駄目で、友達でも知り合いでも誰なり連れてくれば良いじゃん」

 私は反論した。

「そんなこといっても、文化祭は昨日の今日だったんだから。皆疲れてるし悪いでしょ」

「それは牧口も一緒だろ?」

「……」

 私は一瞬押し黙ってしまったが、口を継いだ。

「でも、これは書道部という団体の個人的な問題なんだし、やっぱり赤の他人にやらせるのは悪いと思う」

 だがそこまで聞いても彼は全く意に介していないようだった。

「それなら別に報酬を用意すれば良いだけだろ。ケーキ奢ってやるとか、漫画貸してやるとかさ。とにかく、多少こっちの出費が先行する形になったとしても、今日を円滑に乗り切ることを考えた方が良いに決まってるだろ」

「そんな餌で釣るみたいな」

「事実お前、焦ってるじゃん。本当は家で勉強でもしたかったんだろ?」

「……」

 荒唐無稽かと思いきやいきなり核心をついたようなことを言う。

 篠崎は不思議な男だと思った。

 私を馬鹿にしているのか、それとも案じているのか、その天秤がどちらに傾いているのかまるで見当もつかないのだった。

 いずれにせよここまで彼に出張られてしまうと、今更「一人でやるから良い」などと言おうものなら、返って私の方が大人気ないような気もした。結局私達は一緒になって机椅子を4階から1階まで運び、その往復を繰り返してようやく内装の片付けに入った。

 部室内の片付けに入る前から以前に、この篠崎という男の手際の良さのようなものを私は感じていた。

 発想が柔軟で私が思ってもいなかったやり方を提案し、一の動作で二の事が片付いた。

 これについてはただ感心する他なく、私は結局彼の発案に従うがままだった。

 そして、事実として片付けはあっという間に終わった。

「ふぅ。こんなところか」

 彼は一仕事終えたとばかりに、大きく背伸びをした。

「その……、助かった、ありがとう……」

 私はそんな彼に素っ気なく礼を述べた。

 彼は取り立てて喜ぶ風でもなく言った。

「これを牧口一人がやってたらどうなってたと思うかまで、頭の良いあんたなら流石に分かっただろ。いろんな意味でさ。頭固すぎなんだよあんた。うちの親にそっくり」

 あまり脈絡なく親というフレーズが出たので私は少し気になった。

「親に私が似てたから手伝う気になったってこと?」

 すると、彼は珍しく悩んだような表情をした。

「んー。いや、別に。そっくりなんて言って悪かったよ。別にそんなに現在進行形で似てるって訳じゃない。ただ、牧口みたいなのがそのまま大人になっていくとうちの親みたいになるのかなって」

「牧口みたいなのって何かすごい馬鹿にされてるみたいなんだけど……親と仲悪いの?」


 篠崎は少し語気を強めた口調で語り始めた。

「別に悪いという訳じゃないと思うけどな。何というか俺は蚊帳の外なんだよ。しゃーないな、どうせ後々『なんで天文部の部室で寝てたのー?』とか聞いてくるだろうし纏めて教えてやるよ。俺の両親はすこぶる仲が悪いんだよ。いや、悪くなった、かな? 俺兄貴がいるんだけどさ、あの兄貴、それはもう絵にかいたような牧口みたいなやつでさ。まぁ俺は嫌いじゃなかったし、一応良い大学に通ってたんだ。だけどさ、1年前ストーカーで裁判沙汰になったんだよ」

 私はそれを聞くと目を丸くした。進学校である私の高校において、篠崎の兄や両親が勉学に対して熱心な姿勢を持っているというのはさほど珍しい話でもなかった。だが、ストーカーという言葉を聞くと非常に危険な香りがした。

「ほら牧口。俺を見る目が変わるだろ? なんだこいつは、ストーカーの遺伝子が流れてんのかってな。そうそう、あんたと一緒。世間はみんなあんたと一緒。兄貴の元々の人間性とかそんなんじゃないんだよな。もうストーカーっていう事実が独り歩きすんの。俺は色々事情を調査したけど実際ね。兄貴がただ単にあまりに一途過ぎたってだけだったと思うんだよ。だけどさ、兄貴は犯罪者なわけ。レイプも人殺しもストーカーもなーんも変わんない。向こう方の女性が喚いた分だけダイレクトに跳ね返ってさ。そんで兄貴のために両親は法外な慰謝料を支払って何とか和解しました。そこからだよ、あの両親が異常なぐらい不仲になって毎晩毎晩家に帰ってくるたびにジェイソンvsフレディみたいに繰り広げるの。始めは止めようとしたけどさ。もう無理だったんだ。両方とも馬鹿がつくくらい真面目だったからさ。自分の息子が犯罪者になるっていう事実で気が狂っちゃったんだろうな。気が狂っちゃったならそれならそれで、他人を頼ればよかったと思う。精神科にでも掛かって気を休めても良かったと思う。だけどさ、思い詰めて思い詰めてこれ以上よそ様に迷惑は掛けられないみたいなさ。結局矛先を自分自身と、保護者であり責任者であるパートナーにしか向けられなかったみたいなんだよな。そんなこんなあって、俺は眠れないもんだから天文部の部室を使わせてもらってるんだよ」

 篠崎はそう言い終えると、はぁ、と溜息を吐いた。そして余計なことを口走ったなと苦虫を嚙み潰したような表情をしていた。

 だが、私は彼が初めて感情というものを私の前でさらしてくれたような、かえって好意的な気持ちが芽生えるのだった。

「ふぅん。篠崎にも色々あるんだね」

「あるよ、あるさ、人間だからな。まぁ、て言っても牧口的には他人の話だから。聞き流してくれればそれで良いよ。さて。ほんじゃ、帰りますか」

 すぐにいつもの調子に戻って篠崎がもう書道部の部室を跡にしようとするので、私は少し焦って言ってみた。

「ちょ、ちょっと……。篠崎寝て帰るんじゃなかったの?」

「あ? 気が変わった。それに夕方から知り合いとゲーセン行くって約束してるから」

「ゲーセンって……。もしかして篠崎これからどんどんグレて非行少年みたいにならないよね?」

 私はそう口から出たままに適当を言った。実際、ただこのままあっさり帰るのが少し名残惜しいという気持ちがあった。早く受験勉強をしたいと思っているはずなのに可笑しな話である。

 篠崎はポカンと口を開けた。 

「はぁ? 何を言ってるんですかねえ? あれだな、やっぱ牧口って実際に喋るとイメージと違うな」

「その言葉はそっくりそのまま返したいぐらいなんだけど……」

 ははは、と篠崎は笑った。

「まぁ良いさ。とにかく俺らは別にこれといって交わるような人種でもないんだから。今まで通りただのクラスメイト同士、浅くイージーな付き合いでよろしく。んじゃ」

 篠崎が部室の戸に手を掛けるので私は焦って声を上げた。

「ちょ、ちょっと……」

「あ?」

 恐らく彼も昼食は取ってないのだろう。実際、少し苛立っているようだった。これ以上妙な引き止め方はできないと思う。

「し、篠崎ってさ。もしかしてお兄さんの件を気にして、クラスの人とあんまり喋らないの?」

 篠崎は少し俯くと返答した。

「それはあるかもな。でも別に深く意識してるわけじゃない。単純に馬が合わなそうってだけ。別に他のクラスに昔からの友達結構いるから。遊び相手には困ってないし」

「そ、そう……」

 私は普段のテストでは容易に暗記した単語が浮かんでくるのにこの時はなぜかイマイチ適切な言葉が見つからなかった。

「じゃ、勉強頑張れよ」

 そして彼は最後にそう言い残すと、書道部の部室を後にした。


 だが、私は内心で沸々と募る良くわからない、焦るような戸惑うような感情がグルグルして、妙な不快感を感じている自分に気付いた。

 端的に言えば、やっぱり、名残惜しく感じるのだった。

 篠崎が書道部の部室を去って、少しして私は走った。まだ臀部の筋肉部が多少痛んでいたし、カッとなって壁を殴った手が痛かったけれど、走るという選択肢しか私には考えられなかった。

 カタッ、カタッ、カタッと、上履きが階段を蹴る音。

 当然ながら誰も居ない校舎に響き渡ったそれは自分の耳に入ってくる。

 しかし数時間前に一人で作業をしていた私の足音と同一の物とはまるで信じられないのだった。


「し、篠崎!」

 既に下駄箱で靴を履き替えていた篠崎に向かって私は大きな声で言った。

「べ、別に私! 用が済んだら手早く帰ることに異存はないけど。ただその、私は別に篠崎にその……ストーカーの遺伝子が流れてるとか、そういうのは思わないから……」

 違う。こんなことが言いたかった訳じゃない気がする。

 こんな台詞のために駆け下りてきたのではないと強い後悔心が心臓をチクチクと刺激するかのようだった。

 案の定、篠崎は怪訝そうに眉をひそめて私を眺めている。

 きっと、何度も呼び止めて何が言いたいんだこいつはと思っているに違いなかった。


 何かが終わってしまったような気持ちになる。

 いや、文化祭の片づけが無事終了したのだから終わったような気持になるのは自然だ。

 いや、違う。それとは違う何か煮え切れない嫌な方の心情だった。

 ああ、そうだ。私も丁度お腹が空いていたのに。

 何か一緒に食べに行かないとでも誘えばよかったかもしれない。


 私は頭の中がグルグルとあれでもないこれでもない様々な感情でいっぱいになった。

 なぜこのように強い焦燥感と後悔心とが入り混じったような気持ちが自己を支配しているのか訳が分からなかった。


 そして暫く静寂が流れた後。


 篠崎はそんな私の物悲しい表情をそれでもしばらくは見据えて何か考えているようだったが、やがて私に背を向けてゆっくりと歩き出した。


 私はなぜかそんな彼の背中を見続けるのが嫌で、俯いてしまう。


 しかし、数刻の後に彼の声が聞こえてきた。

「あぁ。そうかい。つまりあんたは俺に同情してるんだな? はいはい。そういうタイプの善人主義者であらせられましたか。でもさ。一つ教えておいてやるよ。そういう八方美人タイプはもう古いんだよね。あぁそっか。だから牧口は処女なのかぁー」

 私はそれを聞くとカーッと頬を赤らめた。

「は、違っ! って、え。ちょっと待ちなさいよ!」

 既に逃げる態勢を取っていたのか既に遠くの方に位置していた篠崎の背中を、私は負けじと追った。

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