実業・虚業
昔から持っている感慨だが、人類の有り様たるや、どこの国のどの時代を眺めても目を覆いたくなる。まったくもって無残さばかりが目に付く。
この国においても、やんごとなき方面のかたがたも天照大御神の御代からにして、見苦しい身内の内輪もめばかり。かの方面も含めて権力者たちに内輪もめは付きものというか常態の感さえある。
内輪もめが周りを巻き込み、いつか大ごととなり「なんとかの乱」とか呼ばれて後世に伝わる。その周りの巻き込み様の規模に大小があり、大きくなればなるほど、つまり下々の人間の狩り出される範囲が拡がることになる。その最たる例が戦国時代の百姓だろう。なんで武士の身勝手な命令に従い、いくさに百姓たちが参加しなければならなかったのか。気の毒でならない。
戦争に到る原因と結果として百姓(庶民、大衆)の災難という構図を読み取るという、読み取り方は、まず古今東西の事例にあてはまるであろうこと、私の知る限りの事例より、まちがっていないことと確信する。
世の中には歴史好きが多く、だから、あれこれ論や説を述べる学者がいる。物語をものがたってきかせてくれる作家もいる。
まあ、あれは、あれでいい。というか世人はみな物語が好きなのだから仕方あるまい。だが、たいてい主人公の英雄ぶりの賛美に終始しているばかりである。
大河ドラマなどで描かれる武将、大将たちはいくさの前に立派な甲冑を身に付け手には名だたる名刀をかざして大言壮語を以て家来たちを鼓舞する。
檄の趣旨はおおよそ、「いかにこのたびのいくさが我が方に道理、大義があり、後には引けないものであるか。ぜひとも勝たねばならない。粉骨砕身励めよ」といったところか。檄は重臣どもに向かってとばしてはいても最前線で戦うのはその家来の足軽や農閑期に狩り出される百姓たちである。足軽はまあ武士の内にはいるのだろうが忠誠心のほどはどんなものだったろうか。あるふりをする必要はもちろんあっただろうが。
だが百姓となるとどう忠誠を誓えるものか。所詮どっちの殿様が勝とうが興味はあるまい。それを思うとき、その構図に笑止、陳腐そして悲惨の念を禁じ得ない。いかに上級武士が勇ましい益荒男ぶりを演じてみたところで実戦の主体はあくまで足軽、百姓たちなのだ。
つまり彼ら一兵卒は合戦の都度、最前線が自分の持ち場なのである。もらえる日当を家計の足しにと、あるいは問答無用の徴兵に逆らえずか、どっちにしてもそのいくさの意義に共感を抱いてそのいくさに参加したわけでは毛頭ない。これっぽっちの興味、関心もない。心底いやいやながらの参戦なのだ。どちらが勝とうが負けようが知ったこっちゃない。
とにかく、怪我などしないよう細心の注意を払って無事わが家に帰り着くことのみが目標。あたり前の当然の心持ちである。もし自分が運悪く討死してしまったら、自分の哀れも哀れだが残された家族のことを思うとやり切れないだろう。家族の身の上に目を覆うような悲惨が待っているのは間違いない。
秀吉の父親がそういう傷病兵士の一人だったというが、それを知ったところで、のちに検地など、むしろ百姓の首を絞める政策をおこなっていることと併せて、どう解釈していいものやら余計わからなくなる。
それにしても百姓はいつの時代も一番気の毒な身分である。
時代劇といえば江戸時代で庶民といえば江戸に住む町人のごとくであるが、名もなき大多数の人々ということならば百姓こそいの一番に挙げるべきだろう。江戸時代までは日本国の人口の九割以上は農民なのだ。歴史に名が残っている個人なぞ百姓にはいない。百姓一揆なるものが歴史書に出てくるがそれは何々地方の何々村で起きた事象の記述に過ぎない。百姓の個人名など出てこない。
(ほかでも何度も書いて、またくりかえしになるが。
日本の歴史書に載っている出来事は我々百姓の子孫には無縁の、高貴、高位の人たちの起こした出来事なのである。その高貴、高位の子孫たちは、わがことのごとく歴史書を読めばいいが、われわれ百姓の子孫のなかにも、なにか勘違いして自分の祖先のことのように思っている者がいるとしたらまったく笑止である。
自分は歴史に登場してくる輩に、好きなように扱われていた、虐げられていた者の子孫なのだという視点を持つべきなのである。
つまり大河ドラマに出てあれこれセリフをしゃべる者たちなどは、我々の祖先ではないのだ。)
ちなみに百姓一揆が起こる原因は常に決まっている。米が凶作にも拘らず無慈悲な年貢の取り立てが行われ、百姓たちは自分等の食べる物がなくこのままだと飢え死にしてしまうという切羽詰まった状況に追い込まれ、どうにもこうにもしようがなく庄屋の米蔵を襲うのだ。実に悲愴な哀れを誘う行為なのである。
親は選べない。身分は生まれたときに既に決定されていて武士の家に生まれたら武士、百姓の子は百姓になる以外にない。
ついでに言えば、もしも現代に生きている我々は身分制度がなくて有り難いことだ、なぞと思っている者がいるとしたら、それは思い違いと指摘したい。
現在も「士農工商」のままなのである。
一番上の「士」は政治家、官僚、公務員に当たる。二番目が「農」つまり百姓とされている。定めたのは家康だ。家康らしいマヤカシに他ならない。国の基は米で賄う年貢が支えている。その年貢をおさめているのは百姓であるからして当然、職人や商人より尊い存在であるという解釈を天下に示してみただけの方便にすぎない。百姓が自分らのほうが「工」「商」より身分が上なんだという意識はなかっただろうし、「工」「商」の方においてもしかりだろう。
現代においても何らかわるところはない。このことにおいて多くの例を引く必要はないだろう。いまは言わなくなったが世の「長者番付」というものの上位をしめているのは「農」の部の人間ではないという現実を指摘すれば済むことだろう。
では家康が「工」が上で「商」が一番下と定めた序列の意味はというと商人の商いという行為は右から買い取ったものを左に売り渡すという仲介業で、商人はそれでもって掠りを得ている者である。つまりあけすけに言えば狡賢い生業であるという解釈である。だが実態は、つまり「裕福度」はというと工と商は逆である。間違いなく「商」そして「工」、「農」の順であろう。
現代においても大まかに言えば「商」、「工」の順はおなじだろうが、近年AIの進歩により商か工か類別のむずかしい職種がある。というかどちらの要素も持つ企業が多くある。
というか、士農工商のどれにも該当しない職業が現代にはたくさんある。
生活者つまり人間が生きていくうえにおいてあってもなくてもいい仕事である。
芸術と呼ばれる分野のあれこれ。絵描き物書き楽器奏者及び俸振り、芸能の各種。スポーツ全般、テレビ映画に出るいわゆる芸能人。アナウンサーもその括りでいいか。
世間ではあこがれの仕事とされている、この職種はサービス業と称すればいいのだろうか。
ところでこの頃はどうも「お笑い芸人」というジャンルが確立された風で漫才ができる者は芸人だが、高い所から飛び降りさせられたり、水槽の煮え湯にどれだけ屈んでいられるかを競ったりに出るのを本分にしているタレントがいる。そしてわざとなんだか、どうなんだか知らないがヘマをして笑いを取る。そういう番組をバラエティー番組と呼ぶらしい。
それから、あれもバラエティー番組と呼ぶのかどうか、二列三列と雛壇の雛人形のような隊形に並び、クイズ番組かなと思ったがそうではなく自分の日常の出来事あるいは周りの人間を観察してその言動の可笑しみを披露する。それを「ネタ」と呼んでいた。
水槽の煮え湯に飛び込んでいたお笑い芸人の一人がなにかの折りに「自分の芸風は云々」と話していた。
ああいうのを自分では芸のつもりでいるのが可笑しい。
お笑い番組を見下げているわけではない。好きである。笑点や吉本新喜劇は好んで観る。しかしほかのバラエティー番組はどうにもその面白味がいまひとつ、よく分からない。
さてそういう生活する上で、あってもなくても別に構わない種類の職業をサービス業という括りにすればいいと先に述べたがもっとしっくり来る表現を思いついた。「虚業」である。
そして逆に生活に役立つ物を造る、魚を獲る、米野菜を作る、病気を治す、学問を教える、木を切る、木を植える、料理を作って人に供す等、実用を為しているのが誰の目にも見て取れる職業は「実業」と称すれば、いい按配ではなかろうか。
ちなみに武士などは当然「虚業」であろうし、今で言えば政治家がそれに当たる。
上記のサービス業、各種も当然、虚業と呼ぶべきだろう。
ただ、世の中に不要なわけではない。人間には気晴らし、気休めが要る。
私の意見、時代錯誤、常軌を逸している、と思われるだけだろう。
わかっている。
インターネット、AIの時代。「実業、虚業」という括りなど、いまさらナンセンスといわれるだろう。いまはもっと、うんと複雑で高度な産業、社会の仕組みになっているのだと。
無論、私の意見など胡乱なものだろう。
だが、なんだか、世の中のありさまを眺めているうちには私なりに思うことも起こってくる。
私の見聞きした範囲のことではあるが、学者のなかにも、いまを正確に理解し、この先をうまく予測できる者はいないようである。
誠実で正直な学者は、皆、先の予想を訊かれると
「さっぱり皆目、見当がつきません」と言う。
断るまでもないが、「予想」といっても、科学技術の進展の予想などではない。その進展によりもたらされる数々の利便性によって、「もたらされる」人間にとっての真の功徳は何か? と言う意味である。
つまり、いまも、そうして、いつの時代も同様だろうが、何もかも、誰しもがあいまいなまま生きて暮らしてみるしかないのだ。
人間はなにしろ新しもの好きで、結果、なにがもたらされるかわからない物でも。
何か思いついたら作ってみなければ気が済まないようにできている。核兵器がそうだし、物だけではなく社会システムもそうだ。
落ち着いて考えれば、人間にそれがうまく管理できるはずがない、と判りそうに思えるのだが止まること、そうして止まらせることができない。情けない思いになるが、残念ながらそれが人間というものの有り様としか、あるいは限界としか言いようがない。
そう考えると、どうにも、いい予感は立たない。
やはり、人類は自滅か。どうにかならないか。いや、やはりならないだろう。
「反省はできても改めることはできない」という普遍の人間原理が厳然と存在するのだから。
すると、解決策は、その人間原理を突き崩す以外にはないことになる。
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