第3話 二周年記念一大チャンピオンシップ三連弾 その8
翌日、俺は夜明けと同じくらいに目を覚ましてベッドを抜け出した。頭蓋骨の内側にへばりつくような眠気に抗いながら身支度を調えると、部屋を出て駅へと向かった。
この時間でもすでに始発が動き始めていたし、まばらながら利用客もいる。世の中ってこんなに早くから動き始めているのか……と驚嘆しながら、目的の電車に乗った。
座ったら寝てしまう自信があったから、立ったまま携帯を弄って、これからの乗り継ぎを再確認する。この電車に乗る前、一度確認していたけれど、一度見ただけでは覚えられないほど何度も乗り継がないといけないのだった。
車があれば――このときほど、そう思ったことはなかった。
何度かの乗り継ぎの後、ようやく後は目的地付近の駅まで直行という電車に乗ったところで、俺はようやく小一時間の居眠りにありつけた。
駅から出たのは、まだ朝と呼べなくもないような時間だ。でも、まだ到着ではない。今度はバスに乗った。電車よりも激しい縦揺れに揺さぶられながら、
(あ……レンタカーを借りれば良かったのか……)
と思いついたけれども後の祭りだ。
いまさら街中に引き返すくらいなら、当初の予定通りいったほうが時間的にも心情的にもましなはずだ。……たぶん。
バスを降りた。周りには何もない。いや、自然しかない、と言うべきか。道路はとっくの昔にアスファルトを止めていて、ビルの代わりに森が視界を占めている。そして、バスが走り去っていた地肌剥き出しの道路とは別に、森の奥へと入っていく上り坂が伸びている。ここはまさに山道の手前だった。
「ここを上っていけば、いいんだよな……?」
携帯のGPSや道案内機能を何度も見直して、迷子になっていないことを確認した。そして、間違いがないことに納得すると、
「……よし」
俺は山道を上り始めた。
踏み固められたなだらかな上り坂を歩き始めて三十分後。俺は早々に後悔していた。
山を登ることは覚悟していたから、靴はサンダルなどではなく、しっかりしたスニーカーを履いてきた。山道といってもきちんと整備されているような道だったから、スニーカーでも最初のうちは問題なかった。でも、三十分も歩いていると、足首から脹ら脛にかけてがどんどん痛くなってくる。たかが三十分程度の登山で、こんなに堪えるとは思っていなかった。
駅の構内や交差点の階段よりもずっと緩い傾斜なのに、山道というだけで疲れ具合がこうも変わるものなのか……それとも、俺が緩い傾斜だと錯覚しているだけで、じつは急勾配の上り坂を歩いているのかもしれない。
実際どちらなのか、分かるはずがなかった。
俺に山歩きの経験なんて、子供の頃に家族でハイキングをしたことがあったかもな、くらいしかないのだから。
ただとにかく、せめて登山にも耐えうる靴底の厚いスニーカーを履いてくれば良かったと後悔していた。
後悔していたことは靴の他にも、もうひとつある。食料だ。
電車とバスでの移動中は眠気が勝っていたから意識していなかったけれど、俺が今日、まともな食事を取っていない。出がけにゼリー飲料を口にした後、駅構内の売店で眠気覚ましに買ったミント味のガムだけだ。
「せめて……チョコレート、だけでも……買って、おけば……良かった……」
息も絶え絶えに呻いてみても、ポケットに入っているのはガムの残りだけだ。それでも何もないよりはましだ、とガムをくちゃくちゃ噛みながら山道を進み続けた。
辺りには鬱蒼と生い茂る木々しか見えないけれど、道自体はわりと整備されているようにも思う。二台の車がぎりぎり擦れ違えそうなくらいの幅はあるし、石や木の根に足を取られることもない。空腹と疲労と筋肉痛と眠気から来る頭痛が襲ってくるなかで、まともにあるける道だということがせめてもの救いだった。
それからどれだけ歩いただろうか――。時刻を確認するたび、まだ少ししか経っていないことを思い知らせて疲労が溜まるから、大分前から時計を見るのを止めていた。体感としてはさらに二時間ほど歩きつめたつもりの頃だった。
前方から低い機械音が近づいてくるのに気づいた。惰性で足を前へと動かし続けながら、はて何の音だろう……と、ぼんやり考える。その考えがまとまる前に、答えが目の前に現われた。
山道の向こうから下ってきた黒塗りの外国車が、俺の正面十メートルほどのところでゆっくりと停車した。
見覚えのある車だ。左ハンドルの運転席から降りてきた六十代くらいの男性にも見覚えがあった。白髪混じりで銀色に見えるオールバックの髪型と、柔和な顔つき。撫で肩のこけしみたいなシルエット。
東雲さんだった。今日はシャツにチノパンという砕けた服装で、前に会ったときよりもずっと親しく感じられた……いや、そう感じられたのは、この状況のせいかもしれない。
地獄に仏。拾う神。
こちらに近づいてくる東雲さんの姿が、俺には後光が差して見えた。
「東雲さん……」
「お話しは後にして、ともかくお乗りください」
「あ……はい」
東雲さんは、何もかも分かっている、という顔で微笑んだ。俺はもうその笑顔だけで泣いてしまいそうだった。
俺を乗せた車は器用に百八十度の方向転換をして、山道を奥へと進んだ。車が走り出して間もなく、俺は安心と疲労のせいで眠りに落ちてたいた。
「晴永様、到着いたしました」
東雲さんに声で優しく揺り起こされた。その言葉の通り、車はもうエンジンを停止させていた。
身体を起こして車から降りると、すぐそこに琴子お嬢の暮らしているお屋敷があった。俺は半日かけて、とうとう目的地に到着したのだった。
「あ……」
屋敷の玄関を見つめているだけで、泣けそうだった。
「さ、晴永様。なかへどうぞ」
「……はい」
俺は涙ぐんだ小声で頷き、東雲さんに先導されて屋内へと入った。
東雲さんは俺を食堂へと案内した。大きなテーブルにはご飯が用意されていた。白米とお新香、岩魚か何かの焼き魚に味噌汁……ここ何年も見たことのない日本の食卓が美味しげな湯気を燻らせて、俺を待っていた。
「あ、あのっ、これ――」
「差し出がましいようですが、晴永様がお腹を空かせているかと思いまして、用意させておきました」
「じゃあ食べても!?」
「はい。どうぞ、お召し上がりください」
「いただきます!」
俺は叫びながら飛びつくように着席するや、箸を手に取って脇目も振らずに食べ始めた。
至福のひとときだった。
献立だけ見れば、どこの定食屋でもありそうなものだったけれど、箸を休める暇もないほど美味かった。焼き魚の尻尾どころか、身と一緒に骨までバリバリ食べてしまった。
息も吐かずに食べ終えたところへ、ぴったりの呼吸で緑茶が出てきた。
「ありがとうございます……」
てっきり東雲さんかと思ってそちらを見たら、お茶を持ってきてくれたのは若い女性だった。初めてこのお屋敷に連れてこられたときに車を運転していた女性だった。あのときは格好いいパンツスーツ姿だったけれど、今日はティーシャツにジーンズ姿だ。こういう普通な感じもまた似合っていて素晴らしかった。食後のデザート代わりに、良い目の保養ができた。
視線からそんな邪さが溢れ出ていたのか、彼女はお茶を置くと、空いた食器を慣れた手つきで回収して離れていった。たぶん、そちらに厨房があるのだろう。
これ以上見つめるのも悪いかと思って、顔を前に戻してお茶を啜る。腹八分目の幸せに膨れたお腹に、適度に暖かいお茶が染み渡っていく。味覚も胃袋も大満足の食事だった。
「……あ」
俺はようやく、自分がここまで来た目的を思い出した。
「東雲さん、すいません」
椅子から腰を浮かせながら呼びかける。でも、東雲さんは食堂から姿を消していた。食事に夢中になっていたうちに出て行ってしまっていたみたいだ。
捜しに行こうかと思った矢先、廊下に続く扉が向こう側から開けられた。
扉を開けて入ってきたのは、琴子お嬢だった。その後ろには東雲さんも付き従っていた。
「あ……」
俺の口から声が漏れる。
俺が交通機関を乗り継ぎ、山道をひたすら歩いてでもここに来たかった理由は、琴子お嬢に会うためだ。会って話をするためだ。なのに――いざ本人を前にした途端、言葉が頭から素っ飛んでしまった。
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