第2話 一時間分の十八時間 その2

 目が覚めたのは、翌朝というか昼前だった。時刻を確認にするために携帯を見たとき、着信が入っていることに気づいていたけれど、見なかったことにして、とりあえずシャワーを浴びた。さそれから淹れたての熱いコーヒーを啜ったところで、ようやく人心地がついた。

 携帯を見ると、着信数がさらに増えていた。これはさすがに連絡しないと不味かろう。

 折り返しの電話をかけると、ニコール目で通話が繋がった。


「……もしもし?」


「遅い!」


 携帯を耳に当てた途端、怒鳴られた。でも、それくらいは予想の範疇だ。


「すいませんね、いままで寝ていたもので」


「もうお昼だぞ。それでも社会人か!?」


「まあ、社壊人だな」


「は? 何を言っているんだ――ああ、どうでもいい。とにかく、即刻ログインするように。これは業務命令だ!」


「すでに今週分の規定勤務時間は消化しきっているんですが」


「残業手当は付ける。それとも、残業拒否か?」


「……いいや。ただ、ご飯を食べたいので、あと一時間くれないか?」


「食事なら三十分でいいだろう」


「食べるだけなら、それでもいいだろうな。でもこっちは、そっちと違って上げ膳据え膳じゃないんだよ。いまから自分で作って、食べた後も自分で洗いものしないといけないんだ。それに部屋の掃除と洗濯もさせろ。いや、させてくれ。頼むよ、本当に」


「……それ全部、一時間で終わるのか?」


「一時間以上、待ってくれるのか?」


「なんとか一時間で済ませてくれ」


「了解。では、一時間後に。FMAで」


 俺は通話を切ると早速、ご飯を作り始めた。さすがに毎日コンビニ弁当では財布も身体も保たないし、そもそも飽きてしまうので、俺はわりと自炊している。というか……せめて自炊くらいしないと、本気で駄目になりそうで怖いのだった。いや、すでに手遅れかもしれないけれど。

 ともかく一時間後。

 ご飯とその他の家事を大急ぎで終えて、俺はパソコンの前に着席した。【FMA】にログインする前に、まずは音声チャットを起ち上げる。琴子お嬢はすでにログインしていて、こっちがログインするなり通話をかけてきた。マイク付きのイヤホンを耳に嵌めながら通話許可を求めて点滅しているアイコンをクリック。


「やあ、ハルマサ。あれからぴったり一時間後のログインだな。社会人なら五分前行動が基本だろ、と言いたいところだが、今回は大目に見よう」


「昨日というか今朝までの時間外労働を考えれば、今日は休暇を要求するところだけどな。社会人だったら!」


「雑談はこのくらいにして、早くFMAにログインしたまえ」


「はいはい」


 自分で振った話題のくせに、と思いながらも【FMA】を起動させる。起動画面からIDとパスワードを打ち込んでキャラクターサーバーに接続して、ハルマサを選択。読み込みロード画面を挟んで、ゲームサーバーに接続。巨大宇宙船マザーシップの大広間に、俺の操作キャラPC・ハルマサが降り立った。


「おっ、やっと来たか」


 すぐに音声チャットで話しかけられた。俺とお嬢はフレンド登録しているから、どちらかがログインすると効果音付きで通知されるのだ。


「では、昨日の続きといくか。チームを組むから、わたしの部屋まで来い」


 琴子お嬢が当然のように言う。


「ちょっと待って。昨日の続きって……モジュール防衛マラソン?」


「当たり前だろう。赤色水晶はまだ百個集まっていないのだからな」


「あと三十六個だっけ? ええと、あと六時間くらいという予想だったか……」


「いまから六時間だと、集め終わってちょうど夕飯時だな。よし、水晶が百個集まったら夕飯休憩ということにしよう」


「……了解」


 異論も反論もあったけれど、言っても詮ないことだ。お嬢が決めれば、俺は基本的に従うだけだ。それでお金を貰っているのだから。

 余談になるが、まだ雇用契約を結んでから一ヶ月経っていないけれど、初任給の半分をすでに振り込んでもらっている。半金だけでも、四月に就職したブラック会社の、全額を貰うことのなかった初任給より多かった。それだけ貰っていたら、


「同じことの繰り返しははもう飽きた! スト権を行使する!」


 などとは言えなかった。

 【食料モジュール防衛】の任務中に大群で出てくる【ニグラス亜属・三眼】だけをひたすら狩っては、任務を途中失敗したら再受注して繰り返す――思考力の削り取られるマラソンを延々八時間も続けてやっと、目的の稀少素材【赤色水晶体】を百個集め終えた。足かけ十八時間に及ぶ素材集めマラソンを、俺は完走したのだった。


「もう……嫌だ……」


 それが偽らざる感想だった。

 もう二度と――少なくとも一週間は、【食料モジュール防衛】をやりたくなったし、【ニグラス亜属・三眼】の烏賊みたいな姿も見たくなかった。


「よくやってくれた。ご苦労だったぞ、ハルマサ」


 俺を労う琴子お嬢の声も疲れ切っている。


「本当なら、いますぐ合成に取りかかりたいところなのだが……さすがに、わたしもちと疲れた。約束通り、しばらく休憩にしよう」


「しばらくと言わず、今日はもう上がりでもいいんじゃないですかね?」


 いくら、ネトゲをするのが仕事と言っても、昨日今日と頑張りすぎだ。俺としてはここで、がっつり気分転換をするための猶予が欲しかった。だが、琴子お嬢は少し考えたものの、返事は否だった。


「いや、一時間の食事と風呂休憩の後、集めた素材で赤槍を作るから、その試し突きをする。それが終わったら本日の狩りは終了にしても良いぞ」


「……へぇい」


 俺は溜め息混じりに了解した。嫌がっても押し切られるだけだろうし、自分が苦労して集めたものの成果が如何ほどの強さなのかを、俺だってこの目で見てみたかった。

 そして一時間後、俺とお嬢は――ハルマサとリラは工房区画にいた。工房と言っても、ごてごてした装置に触ることはできない。ホテルの受付みたいなカウンター内に立っている職人NPCに話しかけると、アイテム作成画面が開く。その画面で色々設定して、最後に作成開始アイコンをクリックすれば、全工程の終了だ。あとは作成中のアニメーションが始めって、作成成功なら完成品が戻ってきて、失敗なら使用した素材の一部が戻ってくる。大失敗なら何も戻ってこない。

 この成功、失敗、大失敗の確率は、作りたいアイテムの等級ランクや、使用する素材の数などによって決まる。ミニゲームで成功確率が変わるなどの要素はない。確率を上げたければ、大量の素材を投入することになる。

 当該アイテムの作成が可能になる最低必要数を上回った素材の分量に比例して、作成の成功率は上昇していく……のだけど、攻略サイトの検証によると、成功率九割五分を越すのに必要な素材の量は、必要最低数のざっと四倍だという。しかも、作成アイテムの稀少度が上がるほど基本の成功率が下がっていくから、琴子お嬢が今回作りたがっているようなランク十マイスター装備となると、四倍の量の素材を投じても成功率は七割超がやっとだ。それ以上の成功率を確保しようとすれば、課金アイテムを使うしかない。

 逆に言えば、足りない成功率はお金でいくらでも補えるということだ。

 もう少し突っ込んで言うなら、俺たちは十八時間かけて稀少素材を山ほど集めたけれど、それで上昇した成功率は三十パーセントだ。さて、合成の成功率を上げる課金アイテムには上昇量に応じて松竹梅とあり、最高ランク・松の上昇アイテムを使えば、成功率を三十パーセント上昇させることができる。

 そのアイテムの値段は、一個で千円。五個セットで四千五百円。十個セットで八千円だ。つまり、俺とお嬢が費やした十八時間の価値は千円だということだ。

 この価格設定を高いと思うか安いと思うかは人それぞれとしても、時給千円のバイトを一時間やれば買える価格だ。俺たちの十八時間の苦行は、たった一時間のバイトと同じ価値だということだ。

 こうして考えていくと、空しいのを通り越して、申し訳なさで胸がぎりぎりしてくる。十七時間を溝に捨ててしまった後悔で、うわああぁと喉が鳴く。

 いやまあ、十八時間の狩りでは、目的の素材を集める以外に、経験値稼ぎなどもできたわけだから、厳密に言えば、成功率上昇アイテムとまったくの等価にはならないわけだが……十八時間と一時間という大きすぎる開きの前には、何の慰めにもならなかった。

 鬱々とした思考の沼に腰まで漬かっていると、さらなる無情が俺の耳を打ち据えた。


「あっ、失敗した。作成失敗……素材、全部消えたか」


 琴子お嬢の声はいっそ清々しいほど、あっさりだった。


「……え?」


 はっきり聞こえていたけれど、聞き返さずにはいられなかった。

 十八時間の苦労が……え? なんだって?


「だから、失敗だ。しかも大失敗で、投入した素材が全部消えた。課金アイテム追加で成功率九十パーまで確保したのに、大失敗だよ」


「……」


 何も言えないでいる俺に、琴子お嬢は笑いながら言う。


「いやはや、確率九十パーで失敗するのも笑えるが、まさか大失敗とは……はっはっは。いやもう傑作だな、これは!」


 無用なほど元気に笑うのを聞いて、俺にもようやっと、琴子お嬢だってけして内心穏やかなのではないと察せられた。……十八時間がクリックひとつでふいになったのだ。笑い話にしないことには、あまりに悲しい出来事すぎた。


「あ……あ……あはっ」


 ふいに、俺の口からもしゃっくりみたいな笑いが飛び出た。かと思ったら、次の瞬間には俺も大笑いを始めていた。


「あははははっ」


「ははははっ」


 二人して競うみたいに大笑いした。

 息苦しさで顔が真っ赤になって、喉が嗄れ、腹筋がひりひりするまで必死に大笑いした。自分が笑っているのか、それともハハハと言っているだけなのか分からなくなるまで笑った。


「あははははっ……はははっ……はは……は……」


 どちらからともなく、笑うのを少しずつ止めていく。そして、無音。イヤホンから聞こえてくるのは、【FMA】の背景音楽BGMだけ。


「……」


 控えめな音楽に混ざって、琴子お嬢のゆっくりと噛み締めるような息遣いが聞こえてくる。


「……また、集め直すので?」


 俺は自然と息を潜めながら訊ねた。

 数秒の間があった後、返事があった。


「いや……さすがにしばらく、あのミッションはやりたくない……というより、今夜は終わりにしようか……」


 げっそりと疲れ果てた声だった。

 その声音に、俺は図らずも安心を覚えた。


「あ、そうか……琴子ちゃんでも、そんなふうに思うんだな」


「は? なんだ、それは。いま、わたしは馬鹿にされたのか?」


「違うって。そうじゃなくて、琴子ちゃんはネトゲで疲れたり、やってられるかって思うことはないんだろうな、って思っていたから……ちょっと意外で安心したの」


「……きみは、意外に思いながら安心できるのか。器用だな」


 琴子お嬢はぶっきらぼうに言う。きっと照れ隠しだ。なかなか可愛いところがあるではないか。


「あっ、いま笑ったか!?」


「え? いや、全然。笑ってないよ……ふっ」


「ほら! 笑った!」


「笑ってない、笑ってない。いまのは鼻が鳴っただけ」


「鼻で笑ったのか!」


「そうじゃないよ。それより、今日はこれでお仕事終わりってことでいいんですかい、ボス?」


「……ああ、それでいい」


 琴子お嬢は不承不承といった感じながらも、そう言った。


「じゃあ、俺はこれで落ちますよ」


「明日、朝九時にはログインしているように」


「はいはい、了解。それじゃ、おやすみなさい」


 俺はいそいそと【FMA】を終了させ、チャットも落とした。ぼやぼやしていて、


「やっぱり気が変わった。朝まで自棄狩りするから付き合え」


 そんなことを言われたら堪ったものではないからだった。

 ゲームとチャットを終了させた後、そのままパソコンの電源も落とした。起動中はずっと低いモーター音をさせていたパソコンが静かになると、部屋が急にしんとする。

 携帯で時刻を確認すると、まだ二十一時前だ。


「さて、どうしよ……」


 静かな部屋で独りごちながら考える。

 勢いでパソコンを落としたものの、まだ寝るには早い。いつもなら暇潰しの定番は携帯だけど、いまはネットやゲーム的なものから離れたい気分だ。


「……買い物してくるか」


 俺は立ち上がって伸びをすると、財布をポケットに突っ込んで部屋を出た。行き先はもちろん、交差点沿いのコンビニだ。

 アパートの近所には夜遅くまでやっているスーパーもあるけれど、経験上、二十一時前だとまだ、コンビニであの子が――安曇さんがバイトのシフトに入っている可能性がある。

 仕事明けのこんな疲れたときに、彼女から、


「いらっしゃいませぇ」


 と満面の営業スマイルで言われたら、きっと申し分なく染み入るに違いない。それを想像したら、コンビニに行かざるを得なかった。むしろ、買い物は彼女の笑顔に会いに行くための口実に過ぎないくらいだった。

 夜道を歩いている途中で冷静になった。

 これまでの経験上、夜九時前のコンビニで安曇さんが働いているところに遭遇したことは確かにある。でも、その確率は体感で三割以下だ。体感でそれだから、厳密に計上したらもっと低いだろう。さて、三割未満の確率を引き当てて、彼女の笑顔に癒してもらうことができるだろうか……


「確率、か……」


 ついさっき九割の確率を外した子を見たばかりだった。九割が外れたことを思い出すと、、三割未満が当たるとは思えなくなった。

 コンビニまでの道のりは、そう遠くない。考え事をしている間に到着する。出入り口の扉は強化ガラス製のスイングドアなのだけど、その扉に手をかける直前、


「あ」


 俺は声を漏らした。

 ガラス越しに見える店内に、お店の制服を着た安曇さんが見えたからだった。

 ここで三割未満を引く運を、さっきの九割を引き損ねた誰かさんに分けてやっても良かったな――。

 そんな詮ないことを思いながらドアを押し開けると、


「いらっしゃいませぇ」


 待ち焦がれていた笑顔が、俺を出迎えてくれた。運を分けてやらなくて良かったと思った。

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