第1話 仕事内容:ネトゲのパートナー(経験者優遇・初心者応相談) その5

 目が覚めてすぐに携帯で時刻を確認すると、翌日の夜になっていた。寝落ちしたのがたぶん深夜零時くらいだから、およそ十八時間は寝ていたことになる。しかも、床で寝ていたはずが、なぜかベッドで横になっていた。意識がないままベッドに這い上がったみたいだ。

 携帯の液晶には時刻と日付の他に、新着メールの受信を知らせるアイコンも表示されていた。リラからのメールだ。内容は簡潔至極で、


『明日の午前九時、下記の場所に来られたし。なお、服装は普段着のこと』


 ……だった。

 待ち合わせに指定されている場所は、俺のアパートから徒歩で行ける範疇だ。どうして俺の住所を知っているんだよ、と不安になったが、すぐに思い出した。向こうには求人広告に応募した時点で、俺の住所氏名から何から認めた履歴書を提出していたのだった。

 それにしても……待ち合わせするということは、実際に顔を会わせましょうということなわけだ。本気で雇用契約を結ぼうというのなら、メールや電話で済ますのではなく、実際に顔を合せておきたいという考えは俺にも理解できる。ただし同時に、一度は払拭した不安が再び、鎌首を擡げてきた。

 明日の九時、待ち合わせの場所に行くと、『ドッキリ大成功!』のプラカードを持ったお笑い芸人とテレビカメラが待ち構えているのだ。それか、スマホを構えた通行人に取り囲まれて、即日ツイッターのトレンド入りだ。

 ……行くの、止めておいたほうがいいのかも。

 催促のメールが来ても、すいません寝てました、とか言っておけばいい。向こうだって、俺が圧倒的寝不足だと知っているわけだし、言い訳として無理はない。大丈夫、分かってくれるさ。というか、分かってくれなかったらドッキリだったということだ。


「よし、そういうことだ。そういうことにしよう」


 俺はごろんと寝返りを打って目を閉じる。

 不安が解消された安堵感からか、俺はなんと、そのまま二度寝してしまった。目が覚めたのは六時間後の深夜零時だった。丸一日寝ていたわけだ。徹夜の経験は何度かあるけれど、初めての徹寝だった。

 丸一日も惰眠を貪った後では、さすがに眠気の一欠片も残っていない。【FMA】でも遊ぼうかと思ったけれど、リラがログインしていたら……と思うと、その気も失せてしまった。

 昨日の時点で、俺と彼女はフレンド登録を交わしている。フレンド同士は互いのログイン状況が筒抜けになってしまうのだ。ログイン状況を隠すようにも設定できるけれど、そうするためにはまずログインしないといけないわけで……。


「……そうだ」


 この一週間、ずっとゲームばかりだったから、見たい動画や週刊誌が山ほど溜まっていたのだった。この機会にそれらを片付けるとしよう。

 俺はベッドから出るとパソコンを起ち上げ、動画サイトにアクセスした。



 結局、一週間分のアニメとドラマと映画を観ているうちに、もう出発しないと間に合わない時刻になってしまった。コンビニで週刊誌を立ち読みしていくつもりだったけれど、そんな余裕もなく、朝食のパンとジュースだけを買っただけで店を出た。今朝はたまに見かけるバイトの可愛い娘がレジ打ちをしていたから、いつもだったら品物を選ぶ振りしてもっと長く眼福に与っていたところだが、いまはそんな暇もなかった。

 リラとの待ち合わせ場所は、俺のアパートから徒歩十分ほどの駅前ロータリーだ。路線がひとつしか入っていない駅で、都内の大きな駅みたいに人混みでごった返しているわけではない。朝の通勤ラッシュが終わったところなのもあって、駅前の通りは静かなものだった。ロータリーに駐まっている車の間隔も広い。

 そんな閑散とした駅前ロータリーに、一台の異彩を放つ車輌が駐まっていた。真っ黒な車体に日差しを照り返らせているベンツだかロールスロイスだかだった。生憎と車の知識はさっぱりだけど、とにかく黒光りする高級外車だった。

 なんだかおっかない車だな――なんて感想を抱きながら、ロータリー内にあるバス停のひとつまで歩く。その傍らのベンチが待ち合わせの場所だった。

 誰も座っていないそのベンチに座ったところで、スマホの時刻表示を確認する。午前九時ちょうどだ。どうやら、俺のほうが先に着いたらしい。……相手が本当に来るつもりなら、だが。


「晴永正春様でございますな?」


 その声はベンチの背後から、ふいにかけられた。本当にすぐ後ろからだったので、尻がベンチから浮き上がるほど驚かされた。


「えっ!?」


 つんのめるようにして立ち上がりながら振り返ると、ベンチのすぐ後ろに身なりの良い老齢の男性が直立していた。

 銀色の髪はふんわりとオールバックに撫でつけられ、皺の刻まれた目尻や口元は柔らかく緩んでいる。背丈は俺より頭ひとつ分、低い。肩幅も狭くて、こけしみたいだ。灰色格子柄ダブルジャケットのスーツを着たこけしだ。

 さて、こけしのようだという表現は失礼に当たるのだろうか――と眉根にわずかな皺を寄せていた俺に、こけしのようなお爺さんはにっこりと相好を崩して話しかけてきた。


「おっと、これは失礼を。わたくし、東雲しののめと申します。琴子ことこ様のお世話係を仰せつかっている者でございます」


 東雲と名乗ったご老体は、上品な仕草で会釈した。俺もつられて頭を下げる。


「あっ、どうも。晴永です……」

 反射的に名乗ってしまったけれど、俺はこのお爺さんに面識がない。人違い

だと思うのだけど……あっ、もしかして!?


「え……東雲さんがリラのプレイヤーなんですか?」


 ここで俺に声をかけてくる相手といえば、待ち合わせの相手しか考えられない。白みがかった髪のお爺さんがネトゲというのは驚いたけれど、考えてみれば、定年過ぎの趣味としてはわりと妥当な選択だという気もする。

 しかし、東雲さんは微笑みながら頭を振った。


「いえいえ、わたくしはただのお世話係でございます。先だって晴永様とゲームをなされていたのはお嬢様でございます」

「お嬢様……?」


 そういえばいまさっき、コトコ様とか言っていた。それがお嬢様の名前なのだろうか。


「立ち話はこのくらいにして、まずはお車のほうへ。詳しい話はその中でいたしますので」


 東雲さんが手振りで指したのは、さっきの黒塗り高級外車だった。


「え……あれに乗るんですか……?」

「はい」


 東雲さんは頷き、柔和に微笑んだ。


「……分かりました」


 俺は少しだけ躊躇ったものの、東雲さんに従って車のほうへ歩き出した。

 黒光りする高級外車には、うっかり乗っちゃったら怖いおじさんお兄さん満載のビルに連れて行かれそうな威圧感があったけれど、小柄で上品なお爺さんの笑顔からはそれを中和させるだけの柔らかオーラが放たれていた。

 東雲さんが開けてくれたドアから、後部座席に乗り込む。内装もまあ、想像通りだった。高級家具そのものの革張りソファは、尻と太ももに優しく吸いついてくるような、得も言われぬ座り心地だった。ここにネット環境があったら、パソコン持参で越してきたいほどだった。

 東雲さんは助手席に座った。それで気づいたのだが、運転席には最初からひとが乗っていた。バックミラーでちらりと見たら、いかにも仕事が出来そうな顔つきの女性だった。

 こちらの視線に気づいたのか、それとも向こうも俺を観察したかったのか――そのとき、バックミラー越しに、俺と彼女の目が合った。その瞬間、俺はぱっと目を逸らした。仕事を辞めたまま就活もせずにネトゲしていた俺にとって、彼女の怜悧な眼差しは鋭すぎだった。……って、就活した結果として、いまこの車に乗り込んだわけなのだから、そこまで卑屈にならなくても良いのかもしれないが……やっぱり卑屈になってしまう。だって、


「え、俺の仕事? はい、ネトゲの相方やってます!」


 だなんて堂々と言えないよ……。

 俺が目線を俯かせて密かに溜め息を吐いているうちに、車は走り出す。そのことにしばらく気づかなかったほど、静かな走り出しだった。


「あ、あの……どこに向かっているんでしょうか……」


 俺はいまさら不安になって、前の席に座っている二人に対して問いかける。答えてくれたのは助手席に座る東雲さんだ。女性のほうは運転に集中しているのだから、当然の役割分担だ。


「それについても含めて、お話しさせていただきます」


 東雲さんは俺のほうに振り向いて、ふんわりと微笑む。その笑顔からは、俺の不安と緊張を和らげる何かが放射されていた。



 東雲さんの話によると、この車がいま向かっているのは、東雲さんたちの主人にして俺の雇い主になる相手、雨森あめのもり琴子ことこの住まう屋敷とのことだった。


「晴永様をお雇いになられたのは、厳密にはお嬢様ではなく、お嬢様のお父君です。わたくしどもも旦那さまにご命じいただいて、お嬢様のお世話係を仰せつかっているのです。それで、お嬢様――琴子様についてなのですが……」


 東雲さんはここで一度、言葉を詰まらせた。でも、俺が黙って待っていると、ほどなく話を再開させた。


「敢えて平坦な言葉遣いで言わせていただきますと、琴子様は引き籠もりなのです。詳しい事情は省かせていただきますが、現在はお屋敷から一歩も出ることなく暮らしております。そのようなわけでございますから、琴子様がネットゲームなるものを耽溺なさるようになられたのも無理からぬことでございました」

「はあ……」


 東雲さんの口調は穏やかながらも淡々としていて、俺に同意を求めているのか諧謔を利かせただけなのか分かりづらい。小首を傾げるようにして曖昧に頷くくらいしかできなかった。

 東雲さんは反応に困っている俺の態度に、ちくりと苦笑い浮かべる。


「旦那さまが引き籠もりの娘にネット環境を与え、あまつさえ給金を出してまで娘にゲーム仲間を与えてやろうというほど甘やかしていることに、言いたいこともございましょう。ですが、そこは家庭の事情ですので、雇用者と被用者という関係のみで踏み込むことは、どうかご遠慮くださるようお願いいたします」

「はあ……いや、はい。分かりました。気をつけます」


 俺はこくこく頷いたのを見て、東雲さんは優しげに目尻を下げた。


「いまのは少々、注意を促すような言い方になってしまいましたが……要しますに、難しいことは考えずに琴子様の遊び相手を務めていただければ結構ということでございます」

「……はい」


 要するに、余計なことに首を突っ込むな、か。

 この車といい、東雲さんといい、俺の雇い主はよっぽどのお金持ちらしい。由緒正しい家柄だったりするのかもしれない。そんな相手のお家事情に好んで首を突っ込もうというほど、俺は好奇心旺盛ではなかった。

 奇妙すぎる求人に応募した時点ですでに鼻先くらいは突っ込んでいるかもしれないけれど、それはそれだ。いま向かっているお屋敷とやらで給与額や待遇だとかの具体的な話を聞かせてもらって、それが気に入らなかった辞退しても良いのだし。……ネトゲ内で採用すると言われたのは、内定を出されたってだけの意味だよな? まだ辞退できる段階だよな?

 俺が不安になっている間にも、車は滑るように音もなく進んでいる。窓越しに見えるのは、見覚えのない光景だ。


「あの……」

「はい、なんでございましょう?」

「この車、どこまで――」


 どこまで行くんですか、と聞いている途中で、車はゆっくりと減速しながら左折して歩道を横切り、どこかの駐車場に入った。

 やっと目的地に着いたのかと思ったのも束の間、窓から見えた建物はコンビニだった。


「あの……ここが目的地なんですか?」

「いいえ、そうではございません」


 東雲さんはゆるゆると頭を振る。


「目的地まではまだまだかかりますので、ここで一時休息と昼食の調達をいたします」

「はあ……」


 高級外車でコンビニに乗り付けるという場違い感に、頷き方もぎこちなくなる。それでも、ちょうど用を足したくもあったし、俺は東雲さんに開けてもらったドアから降りて店舗の中に入った。

 ずっと黙って運転していた女性も一緒に車を降りた。運転している姿をバックミラー越しに見たのでは分からなかったけれど、彼女のパンツスーツ姿はまさに垂涎ものだった。とくにお尻から太ももにかけての陶器みたいな曲線なんて……


「……」


 食い入るように見つめていたら、急に振り向かれた。

 冷たい冷たい無言の視線に、俺は全力で目を逸らして、必死で気がつかないふりをした。

 コンビニではお弁当とお茶の他に、漫画雑誌も買った。車の旅はまだかかるとのことだったので、暇潰しにと買ったのだった。というか、買ってもらった。東雲さんが三人分まとめて、カードで支払ってくれたのだった。


「お恥ずかしながら、わたくし、この歳になるまでコンビニのお弁当というものを食べたことがありませんで、いまさらになって嵌っているのでございますよ。……と言いましても、娘からは塩分を控えろだのと窘められおりまして、このような機会でもなければ、なかなか食べられないのでございますがね」


 東雲さんはコンビニを出て車に戻る途中、秘密を告白するようにして語ってくれた。昼食にコンビニ弁当を選んだことといい、俺の緊張を解そうという東雲さんなりの気遣いなのだろう。

 コンビニを出た車は近くのインターから高速に乗った。窓の外を流れる景色はいよいよ殺風景になる。どこまで連れて行かれるのかという不安を胸の端っこに感じつつも、俺は高級革張りソファに浅く座って、コンビニ弁当を割り箸でもそもそ食べた。助手席で食べている東雲さんは、後ろ姿からでも分かるくらい楽しげに食べていたけれど、俺は正直、味があんまり分からなかった。高級車で食べるコンビニ弁当の場違い感ったら!

 なお、運転手のお姉さんは、コンビニを出てから車に戻るまでの七秒間でパックのゼリー飲料を飲み干していた。



 俺がコンビニ弁当を食べ終わり、分厚い漫画雑誌を読み終えてからさらに数十分後、車はようやく高速を降りた。でもまだ到着ではなく、そこから大通りを逸れて山道へと入り、つづら折りのカーブを何度も曲がって、ようやく車はエンジンを止めた。


「長旅、大変お疲れさまでございました。到着でございます」


 素早く助手席を降りた東雲さんが、後部のドアを外から開けてくれる。


「ありがとうございます……んっ」


 お礼を言いながら降りた俺は、その場で大きく伸びをした。いくら座り心地抜群のソファだったとはいえ、二時間近くも座りっぱなしだった膝や背中は、ようやく関節を伸ばせた解放感に嬉しい悲鳴を上げていた。

 伸びをしたついでに見上げた青空を、薄いちぎれ雲が流れていく。視線を下げると見えてくるのは、ヨーロッパのどこかの国から大金をかけて空輸してきたかのような洋館だった。


「ここが、琴子お嬢様がお暮らしになっている屋敷でございます」


 東雲さんがそう説明してくれていなかったら、ペンションだと勘違いしていたことだろう。


「それでは、わたしは車をガレージに入れてきます」

「はい。よろしくお願いします」


 運転席の女性が開けた窓越しに東雲さんに一言告げて、車を動かす。それを見送ると、東雲さんはこちらに向き直る。


「では、晴永様。なかへ案内させていただきますね」

「あ、はい」


 俺は東雲さんに付き従って、大きな屋敷の大きな玄関扉を潜った。

 深い森に囲まれた山中の洋館だ。館内はしんと静まり返っている上に、窓のすぐそこまで木々が迫っているせいで全体的に薄暗い。ホラー映画の舞台になりそうな雰囲気に、俺は思わず息を飲んだ。


「晴永様、こちらでございます」


 東雲さんは大きな階段を上っていく。俺も三歩ほど遅れて、その後に続く。二階の廊下には扉が三つほど、間隔を広く空けて並んでいる。東雲さんは一番奥の扉の前まで行くと、控えめなノックでその扉を鳴らした。


「お嬢様、東雲でございます」

「連れてきたのか?」


 扉の内側から返ってきた声は、思っていたよりも幼い。


「はい。こちらまでご足労いただいております」


 東雲さんの返事から数秒後、棒状のドアノブががちゃりと音をさせて下がり、扉が内側にゆっくり開いていく。俺は緊張に背筋を伸ばしたが、あに図らんや、そこには誰もいなかった。


「え……」


 この部屋の住人は……琴子様とやらは、幽霊か透明人間なのか!?

 もちろん、そんなことはなかった。


「おい、おまえ。目線が上すぎるぞ。嫌味か、それは?」


 つい先ほど扉越しに聞いたばかりの幼い声が、今度ははっきりと聞こえてきた。俺は声がしたほうへと視線を下げていく。内開きの扉を開けたところに立っていたのは、それはそれは小柄なお嬢様だった。

 俺の身長が百七十五センチほどだから、俺より頭ひとつ分低い東雲さんは身長百五十センチくらいだろう。そうすると、東雲さんよりもさらに頭半分くらい小柄な彼女は、身長百四十センチ未満というところか……。


「今度は凝視か。極端なやつだな」


 ぎろっと下から睨めつけられた。


「……ごめんなさい」


 俺はそっと目を逸らす。でも、ついつい目の端でお嬢様を見ずにはいられなかった。

 鬱蒼とした山奥にただ一軒ひっそり佇むお屋敷の女主人、雨宮琴子は……どう見ても、中学生にしか見えない少女だった。

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