発端17時間前

 ―――……なさい……。


 いつも通りグッスリと眠りに就いていたメルへと誰かが頻りに話しかけている。しかしメルは幸せそうな寝顔で、到底起きる気配を見せなかった。


 ―――起きなさい……メルクレール……。


 再び掛けられた声は優しく美しい。全てを内包する様な声音が微睡まどろみに沈んでいるメルを呼びかけた。しかし深く深く、深海よりも深い眠りの底を漂っているのか、メルがその声に気付き目覚める様子は伺えない。


 ―――メル……メルクレール。メル、メールー!


 声の主はめげずに声をかけ続けた。彼女がに現れたのには意味があり、メルが起きなかったから諦めて帰ると言う選択肢は無かったのだ。

 だが……だがしかし、メルは再三の呼びかけにも微動だにしない。


 ―――……ていっ!


(ふにゃっ!)


 声の主が最終手段を使用した。ベッドで眠る彼女を実力行使で起こしに掛かったのだ。引っ繰り返されて床へと落とされては、さしものメルも目が覚めないと言う事は無かった。


(……ふぁ……ふぁれ……? なんれあたし落ちたの……クゥー……)


 ―――わわわっ! 寝ちゃダメーッ!


 恐るべき事に、ベッドから落とされたにも拘らず、メルはそれを差して気にする事も無く再びその場で眠ろうとしたのだ。声の主が慌ててメルの眠りを妨げた。


(……ふぁー……ん……もう朝ですかー……?)


 未だにしきれていないメルは、この現状を把握するには至らなかった。それどころか目の前にが立っていると言うのに、それを疑問に思う事も無かった。

 

 ―――朝ではありません。ここは未だにですよ。


 体裁を整えて威厳を復活させたその女性は、神々しい光の中で優しい笑みを湛えてメルを見つめた。


(……朝……じゃないのー……? じゃーもう少し寝かせて欲しい……)


 ―――だーかーらー! 寝ちゃダメーって言ってるでしょーっ!


 この時女性は思った。このままではきっとこの堂々巡りとなってしまう……と。

 だが彼女もこれがと言う訳では無い。今までにも数人の「彼女達」に接してきており、同じような問答を繰り返して来たのだ。こんな時にどうすれば良いのか、彼女は十分経験して来たのだった。


 ―――プニーッ!


(いたたたっ! ……いひゃいいたいいひゃいいたいですーっ!)


 女性はメルの頬をつねり、左右に目一杯広げると言う強硬手段に打って出たのだ。流石に物理的目覚ましを受けては、メルも意識をハッキリとさせない訳にはいかなかった。


(な……何するですかー……)


 女性から頬を解放されて、涙目のメルが頬を擦りながら女性に抗議した。それを確認して女性は満足したのか、再び柔らかい笑みを湛えて姿勢を正した。


 ―――漸く目覚めましたね、メル。私はマリーツェル、運命の女神です。


(……マリ……? 運……? ……何……?)


 マリーツェルは思った。彼女に自分の名前を憶えて貰うだけで、きっと多大な時間を消費してしまうと。

 

 ―――マリーでいいですよー、メル。それよりも貴女に大事な話があります。


 だからマリーツェルは、そんな些細な事に拘らず話を進めると決めたのだった。


(……話……ですかー……?)


 メルのオウム返しに、マリーツェルは優しい笑みのままユックリと頷いた。


 ―――貴女には過酷な試練となりましょう……古に失われた大いなる魔法が復活し、この地上に住まう生命がその存続をかけて争う事となるのです。貴女も、貴女を奉じる者達の旗頭となり、その身を戦の業火に投げ出さねばならなくなるでしょう……。


 マリーツェルは思った……。「決まった」……と。

この如何にも荘厳な女神が、過酷な運命を背負う事となる少女に掛ける神託。さぞかしメルも心を震わせているだろうと確信する物を感じていた。


(……えーっと……)


 しかしメルには彼女の話した意味が、僅か一単語すら理解されていなかった。

 だがしかし、流石は女神と言うべきか。彼女はこの事態も十二分に予見していたのだ。微笑んだ表情を崩さずにウンウンと頷きながら話を続けた……と言うか話を言い直した。


 ―――メルに―すっごい力が付いちゃいますよー。みんなのためにもがんばってー、ライバルときそいあってくださいねー、わかったかなー?


「……んー……よくわからないけどー……がんばればいいのー?」


 だがこれほど噛み砕いた説明を以てして、メルには何となく伝わった程度であった。これにはさしもの女神マリーツェルも驚愕を覚えずにはいられなかった。

 彼女がこれほど解りやすく説明しても伝わらないと言う現実に、思わず愕然とした表情でメルを見つめたマリーツェルだったが、立ち直りと回復の早さも間違いなく女神級の彼女である。再び態勢を整えると、彼女は伝えるべき事を伝えようと徹した。


 ―――メル―? あなたにはー、いろーんな事が起こると思いますー。良い事もー悪い事もー。でもー、あなたと深―い繋がりを持った仲間達が助けてくれますからー。


 マリーツェルは思った。きっとこれだけ噛み砕いてゆっくり話しても、きっとメルには伝わっていないだろうと。そして短い時間ながらメルの特性をしっかりと把握した彼女の考えはしっかりと的を射ていた。


「……はいー……はいー?……」


 メルの生返事は、マリーツェルの考えを肯定した物だった。そしてだからこそ女神に動揺は無かった。と言うよりも彼女はすでに言うべき事を言い切っており、後は綺麗に纏めて上手く退散する事を考えていたのだ。そこにはメルが理解したかどうかと言う事は含まれていなかった。


 ―――それではメル、貴女の中に施されていた封印はたった今解き放たれました。切っ掛けさえあれば最強の魔法「ドジっ娘魔法」が解き放たれるようになります。非常に危険な魔法ですが安心して下さいね。術者がダメージを受ける事は決してありませんから。


「わた……私はドジじゃないですぅー! 少―しだけオッチョコチョイなだけなんですからー!」


 ―――引っ掛かったのはそこ!? それ以前にドジもオッチョコチョイも同義語なのでは!? と言うか、それは自覚してたんだ!?


 マリーツェルの話には気に掛けるべきワードが多々あったと言うのにメルは全く気付かなかった。それどころか逆に、マリーツェルの方がメルの言葉にツッコみを入れる有様であった。

 

 ―――……敵わない……到底敵わないですね……。


 何が何だかわからないが、マリーツェルは無性に敗北感を抱いた。そして素直にメルの“底力”を認めたのだ。


 ―――メル……貴女に伝えるべき事は全て伝えました。後は貴女が考えて、最善と思う行動をとりなさい。私は最低限の助力しか出来ません。しかし出来るならば貴女のフォローを最優先に考えようと思います。決して一人では無いと心して下さいね。


 運命の女神として……と言うよりも、一女神として彼女の行く末が心配となったマリーツェルはメルにそう声を掛けた。だがメルにどれ程伝わっているかは甚だ疑問である。


「良く解らないけどー……頑張ればいいのねー?」


 ―――そうっ! そうですよ、メルッ! 頑張ってくださいっ!


 マリーツェルは嬉しかった。語った内容の僅か数%しか伝わっていなかったが、それがどれ程の事か彼女はこのわずかな時間で十分に承知していたのだった。


「はいーっ! わっかりましたーっ!」


 ニッコリと満面の笑みでメルは答え、それを受けてマリーツェルはたおやかな笑顔で頷いた。ここに至って最早彼女の心境は母か姉と言った所だろう。

 運命の女神マリーツェルの身体がユックリと光を強めて行く。彼女が此処に留まっていられるリミットが訪れたのだ。


「……あれー? マリーさん、体―……光ってますよー……?」


 驚きの表情でそう呟いたメルは、ここに至ってようやくマリーツェルがでは無いと、何となく思った様であった。


 ―――……いいですね、メル。決して挫けてはいけません、諦めてはいけませんよ……。


 次第に強くなる彼女から発する光に、メルはもうマリーツェルを直視出来なかった。光の中からメルに向けて掛けられる言葉を、何とか聞く事しか出来なかった。


 暫くの後、光は収まり辺りは静寂に包まれた。ただ白く広い空間に、唯一人メルだけが取り残されていたのだ。周囲をキョロキョロと見回したメルは、今までの事、何よりもマリーツェルの事を考えようとしたが上手く考えが纏まらなかった。

 ふと目に留まったのは彼女が眠っていたベッド。この何もない空間にあって、それだけが彼女の近くにある見知った物であった。

 とりあえずメルはベッドに腰掛けた。そしてそのまま体を横たえる。


「……マリーさん……何て言ってたっけ……?」


 メルは懸命に彼女の言葉を思い起こそうとした。しかしそれはとうとう叶う事は無かったのだった。


「……くー……」


 5秒……。僅か5秒で眠りに就いたメルは、次に現実世界で目を覚ますまで、そして目を覚ました後も、先程あった一連の事柄を思い出す事は無かったのだった……。

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