第23話 ~そして、リズ(ニア)・シルノフ・アジリエートの場合~

 その姿を見た瞬間、ただでさえ耐えかねていた頭痛が、視界を揺るがす程の激痛になった。平行感覚を失いそうになり、慌てて剣を地面に突き立て杖の代わりにする。直前にリヒトを救えて良かった。タイミング的にも私の体調的にも、僅かでも遅れていたら、リヒトを助けられなかっただろう。


「その娘から離れなさい――!」


 剣で斬りかかる代わりに、私は怒気を孕んだ声で相手を威嚇した。幸いな事に、それで相手はリヒトへの関心を失ったようだ。こちらを向いた相手と、目が合う。


「っ――!」


 失神しかねない頭痛。一瞬意識が漂白され、自分を見失いそうになる。

 必死に意識を繋ぎとめようとする私に、相手は穏やかに声をかけてきた。


「改めて――久しぶりですね。■■。」


 頭痛のせいか、相手の言葉にノイズがかかる。

 久しぶり――相手は、私に対して「久しぶり」と言った。私の事を知っていると言った。

 けれど、私は彼女の事など知らない。

 ……いや、嘘をつくのは止めよう。

 知っている。知っているとも。

 知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている――。

 何よりも、誰よりも。私は彼女の事を知っている。

 彼女の好み。彼女の癖。生活習慣から思考そのものまで。私は彼女の全てを知っている。

 ただ、それだけ知っていてもなお。

 私は、彼女の出自なまえだけが思い出せない――。


「――いえ。あなたが思い出せないのは私の事では無く、あなた自身の事でしょう。」


 突然、私の思考に相手の言葉が割り込んできた。まるで私の考えている事を読んだかのような発言。


「あなたは自分の事を『リズ』だと思っているのでしょうが――。リズ・シルノフ・アジリエート。それは本来、私の名前です。」


「――。」


 バリン、と。何かが割れた音がした。

 頭痛すら忘れて、思考停止する。

 彼女が、リズ……?だと言うのなら――。

 さらに私の思考を先回りして、相手は続ける。


「貴女の本当の名前――それは、■■・シルノフ・アジリエート。貴女は私の腹違いの姉妹です。」


 私の姉妹?私に姉妹は――。

 いや、それよりも彼女は何と言った?■■?


「……。」


 混乱する私の姿をしばし見つめた後、彼女は、ふぅ、と一つため息をついた。


「……分かっています。言って理解出来る様なら、そもそも貴女はそこまで堕ちていない。」


 そう言って、彼女は私に剣を向ける。


「……時間が無い。その呪い、対話による解呪が不可能だと言うのなら、どの道戦う以外の選択肢はありません。なら……どちらがリズと名乗るべきなのか、早々に答えを出しましょう。」


「待って、私、は――」


 私は、漂白されつつある意識の中で、必死に言葉を紡いだ。

 待って。待って。待って欲しい。だって、私には、貴女と戦う理由が――


「いえ、戦う以外の選択肢は無いと言ったでしょう。これは、そういうものなのです。」


 今までの、私の思考を読んでいたような発言から一転。彼女は、私の訴えを一言で切り捨てた。


「……正直、貴女と私ではあらゆる面で互角でしょう。けれど貴女のその間違いを正すというのであれば、その上で勝敗を決める必要がある。その方法は私達が最も修練を積んだ技術――剣技の競い合い以外考えられません。」


「嫌……嫌です。何も解らないけれど、それでも私は貴女と――」


「いいえ。私は貴女を――偽のリズ・シルノフ・アジリエートを殺す。そのために、ここまで来たのです。」


「――。」


 『殺す』。

 そう、彼女は言った。

 そして、戦いは唐突に。何の合図も無く始まった。

 気付いたときには彼女はもう間合いに踏み込んで来ていた。完全な奇襲……だったと思う。私の方はまだ全く戦う準備は出来ていなかったし、未だに頭の中はぐちゃぐちゃのままだった。

 けれど、それにも関わらず、私の体はその奇襲に当然の様に対処した。甲高い剣戟の音と火花が舞う。

 相手の剣はそれでは止まらない。手首、鳩尾、首を狙った三連撃、さらにそこから左右の肩を袈裟切りにせんと、さらなる刃が振り下ろされる。その連撃の全てが紛う事なき神速で襲い掛かる。目視さえ難しいそれらに――私はなんとか、けれど当たり前の様に刃を合わせる。

 続いて左から横なぎが来る。

 私はそれに右からの横なぎで相殺する。

 大上段から襲い来る刃。

 その刃は私が大上段から振り下ろした剣に相殺される。

 続いて鳩尾と首への二段突き。

 それは私が繰り出すまったく同じ軌道の突きに相殺される。


 ――それは、一種異様な光景だった。


 お互いに防御行動が極端に少ない。左右対称。まったく同じ軌道の攻撃で相手の攻撃を相殺する。

 お互いに相手の攻撃を読みきっているが故だ。相手の次の攻撃を髪の毛の太さ程の誤差も無く予測出来ているからこそ、攻撃と防御は一体であり……そしてお互いの実力がまったく同じであるからこそ、それは相殺される。

 いや、『次の攻撃を予測出来る』などという生易しいものではない。

 この読み合いには底が無い。

 通常の剣士同士の戦いであれば、一手か二手先の読み合いがせいぜいだ。達人だとしても五手は超えるまい。

 だがこの相手ならば十手先、二十手先……それどころか千すら超えて。脳が焼きつくまで先を見通せる。

 それは、相手も同じようだった。


「止めて……やめてください!私は……戦いたくない……!」


 必死で訴える。けれど、その言葉など聞こえないという風に、相手は剣を振るい続ける。


「っ……!」


 相手の動きを予測できるといっても、それに僅かでも遅れれば斬り殺される。言葉で説得している余裕は無い。この相手を止めるには、戦うしかない。そう、決断せざるをえなかった。

 そのためには、この相殺のバランスをどこかで崩す必要がある。お互いがお互いの手を知り尽くしているが故に、思考の積み重ねでは勝負がつかない。だから、差が出るというのなら、それは、もっと原始的かつ明確なものだ。


「ハ、ぁ――。」


 何十合目かの打ち合いの果て、相手が息をついた。ほんの一瞬、剣戟が緩む。その隙を突く様に、私は一歩踏み込んだ。

 永遠に続くかと思われた均衡が崩れる。千手先の読みが掻き消え、三十手先の勝利を垣間見る。

 体力の差。

 私と相手に違いがあるとすれば、そんな単純な事だった。

 ……見れば相手は血に塗れていた。軽傷と言うには余りに痛々しい切り傷の数々。特に脇腹からの出血が酷い。リヒト相手にそれだけの傷を受けたのだから、毒の類も受けているだろう。剣を振るう事はおろか、立っている事がそのものが奇跡と言っていい。

 でも、奇跡は長くは続かない。たとえ私の体調が万全からは程遠いにしても、これでは勝負にならない。

 十手。

 二十手。

 そして、三十手目。

 予測した未来の通りに、相手の剣が私のそれに追いつかなくなった。

 本来であれば、私の上段からの振り下ろしを切り落とさなければならない。けれど相手は自分の体勢を支えられず、剣を振り上げる事すら間に合わない。ついに私の剣は何にも邪魔される事なく、相手の肩口に吸い込まれる。

 だが、ユラリと。

 相手は体が流れるままにその身を傾ける。決して素早い動きではない。それにも関わらず、必当の確信をもって振るわれた私の剣は、髪の一房だけを切り取りながらも完全に避けられた。


「……!」


 そして、反撃。

 崩れたはずの体勢から、雷のような速度の剣戟が首筋へと伸びてくる。私はそれを、たたらを踏みながら回避した。


「っ、はぁ――。」


 思わず息を吐く。

 ありえない。

 扱う剣技、術理、剣の重さ、速さ、視野の広さ、感の鋭さ。なにもかもが同一。そしてただ一点、残された体力のみに明確な差がある。

 ならば、私が勝つはずだ。にも関わらず、相手は私を超えてきた。

 私は身震いした。

 私は、この相手の事ならば何もかもを知っていると確信していた。けれど、そこには私が知りえない何かが確かにある。体力でも、力でも、速さでも、技でもない。目には見えない何かしらのパラメータで、私は相手に劣っている。

 ……次の十数合の後、また必勝の未来が覆される。

 私を苛んでいた頭痛は、既に痛みとして認識できる範囲を超えていた。痛みの代わりに、意識が断線する。

 ブツン、という音。

 一際大きな意識の断絶と同時に、何かの映像が脳裏に浮かぶ。それがの映像だと解った瞬間、ついに私の意識は真っ白になった。

 ……ああ。

 私は、目に見えるもの、想像し得るものは全て写し取った。

 技や動きだけではなく、その思考、経験まで。

 それでも……そこまでしてもまだ、追いつけぬものがあると、私は知っていたはずなのに――。


   ◆


 雪のちらつく暗い夜。

 私は力なくその場に座り込んだ。

 雪も風も凌ぐ事は出来ず、地面も雪が積もったままだったけれど、もうそれ以上動く気力は残っていなかった。

 ……ズクリと、蹴られたわき腹が痛んだ。口から血がこぼれ、中身が傷んでいる事を知った。風と雪が容赦なく体温を奪っていき、どんどんと呼吸が浅くなっていくのが分かった。


 そうして、私はその答えに至ったのだ。


 私が何をしようと関係が無い。

 私がどう考えようと関係が無い。

 私がどのような結果を出そうと関係が無い。

 初めから『私』に意味など無く、存在するだけで邪魔なゴミ屑の様なものだという事に――私は、気づいたのだ。


「ああ――」

 

 自然と、息を吐いた。

 いつの間にか、呼吸は止まっていた。

 寒くて、痛くて、苦しい。

 けれど、もうそんな事を気にする事さえ無意味に思えたのだ。

 涙も出ない。

 苦悶の声も無い。

 私はただゆっくりと目を閉じ――


「ニア……!」


 しかし、闇に落ちようとした私の意識は、その声によって引き戻された。私の名前を呼ぶ、その声に。


「ニア!ニア……!ああ、どうしてこんな……!」


 ふと、暖かなものが手に触れた。その暖かさに導かれるように目を開くと、目の前には私の手を握りるリズの顔があった。


「すぐに暖かい場所に――、いえ、まずは治療を……!」


 きつく抱きしめられる。不確かだった手の温もりは、確かな暖かさへと変わっていく。

 その暖かさを感じながら、しかし、私の胸に去来したのは安堵や嬉しさといった感情では無かった。

 とっくに、そんなものは闇の中に融け落ちていた。ゆえに、残ったのはやはり単純な疑問だけ。

 どうして――

 どうしてこの人は、私を助けようとしているのだろう。

 無価値で、無意味な私を。

 彼女とはまともに言葉を交わした事もない。ただ私が彼女に憧れていただけ。彼女にとって私など、取るに足らない道端の石ころのようなものだろう。

 それなのに、

 こんなにも、必死になって。

 あんなにも、辛そうな顔をして。

 だから、私は解ってしまった。

 ――彼女の様になりたいと、思っていた。

 だから私は彼女を真似た。その、一挙一動の全てを。

 それでも私は、彼女の表面的な部分しか見ていなかったのだ。

 彼女を『リズ』足らしめているのは、その模範的な言動でも、剣の才覚でもない。

 無価値なものにも無条件で手を伸ばすその慈愛。自分のすべきことを正しく行う精神。その人間性たましいそのものが、リズという人間の本質なのだと。

 その暖かさに包まれながら、私は思った。それこそが本質だというのなら、結局『私』はリズにはなれないのだ――と。


 ……。


 ……そのあと、リズに匿われながら、私は何とか生き残った。

 あと数分……いや、数秒リズに助けられるのが遅ければ私は死んでいたと思う。それ程の疵だ。魔術の癒しを用いたとしても、回復にはそれなりの期間を要した。

 その間、リズは大人たちから私を庇い、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。そんな中一度だけ……何かの間違いでリズに聞いたことがある。


「なぜ私を助けたのか」と。


 それに彼女は「辛い時はお互い様でしょう」と、定型の答えを返した。

 ……私が回復してしばらくすると、リズは私を連れ回す様になった。特に剣の修練や狩りの際には、リズは必ず私を伴った。

 当然、村の人々は良い顔をしない。リズのになりたいと思っている人は沢山居たからだ。

 私は何度も因縁をつけられ、嫌がらせを受けた。それでも、リズは私の前面に立ち、それら全てを払いのけたのだ。

 私を庇い続ける彼女の姿を、私はじっと見ていた。

 そして、ある日の事。

 いつものように、私とリズは山の中に狩りに出かけた。

 しかしその日はいつも以上に収穫が無く、山の奥へ奥へと入る事を余儀なくされた。山は、奥に行けば行くほど強大な魔獣が住んでいる。私達は、今まで村人の誰もが踏み込んだ事の無いエリアまで踏み込んだ。

 それでも問題は無い。リズが居る以上、魔獣などに遅れをとる事は無い。

 そう、思っていた。

 しかし、その日は最悪だった。

 それは何の前触れも無く私達の前に現われた。地響きと共に木々をなぎ倒す音。百の樹齢を重ねた木々が、まるで雑草の様になぎ倒されていく。それは私達が隠れる暇も与えず、一直線にこちらへとやって来た。


「ギャオオオオオオ!」


 咆哮と共に、その姿が露になる。

 それは、タラスクと呼ばれる魔獣だった。タラスクは亀に似た姿をした魔獣で、山岳地帯に住む敵性の生物として恐れられている。魔法の類こそ使わないものの、その大きさは十メートル以上に達し、その見た目に反して動きは早い。速度の乗った状態での体当たりは岩を砕く。何より、背中の甲羅や全身を覆っている鱗が非常に強固で、物理的な攻撃はほぼ効果を成さない。反面、魔力は強くないため、魔術に対する抵抗力は低い。タラスクの討伐は魔術を用いるのが定石だ。

 ……だが、この地域においてはその常識は通用しない。ここは魔術を弾く鉱石、アスライトの産出地。アスライトは、食物連鎖を通して生物の骨格や表皮に蓄積される。従ってこの地域に住む魔獣は魔術が効きにくい。魔術が効かないタラスクはドラゴン種に匹敵する難敵となる。


「――!」


 いち早く反応したのは私の前に居たリズだ。

 私も彼女も話では聞いていただけで、実際にタラスクと対峙するのは初めてだった。それにも関わらず、彼女は瞬時にその危険性を判断し、距離を取るため後ろに跳ぼうとした。


「……っ!」


 けれどその一瞬、リズは跳ぶのを躊躇い、その足を止めた。本当に一瞬の出来事。普段からリズの動きを見ている者でなければ、それに気付く事さえ出来なかっただろう。だがその一瞬は、実際の戦いにおいてはあまりにも重すぎた。

 ガン!と私の目の前でリズの体が吹き飛ばされた。剣で防御はしたのだろう。衝撃を殺すために受身を取ったのだろう。けれど、それらではどうしようも無いほどに、リズとタラスクの間には体格差がありすぎた。


「え……。」


 スローモーションで、リズの体が後方へ飛んでゆく。私はそれを呆然と見送るしかなかった。そのままリズは木の幹に叩き付けられて、ずるりと落下すると、そのまま動きを止めた。


「グルルルル……。」


 ただ立ち尽くす私の前で、うなり声を上げながら、タラスクが私を見た。

 私では勝てない、と直感した。

 不思議と、恐怖感は無かった。なぜなら、私にとって今日と言う日はまだ、あの雪の日の冷たさの続きだったのだから。あの日死ぬはずだった私は今日死ぬ。ただそれだけの話だった。


「う……。」


 その時、背後からうめき声が聞こえた。

 リズの声だった。意識が朦朧としているのか、胡乱な目でこちらを見てはいるが、立ち上がる事は出来ないようだった。そこで、私はようやく気付いた。

 私が死ぬのは良い。どうせ私に価値など無いのだ。死んだところで、元から無いものが無くなるだけ。けれど、私が無抵抗のままに殺されれば、後ろに居るリズも死ぬことになる。

 それは、駄目だ。

 リズは私とは違う。リズは生きるべき人間だ。

 そのためには、私がリズを守るしかない。

 でも、私では目の前の敵を打倒できない。

 リズならば……もし、あの不可解な逡巡さえなければ、このタラスクとも渡り合えたかもしれない。

 でも、私では足りない。

 でも、それでも守らなくてはならない。

 でも、私では足りないのだ。


 ――そう。『私』では。


 ああ、私では駄目なんだって事。そんなの初めから解っていた事だ。だから私はずっとリズの真似をして来たのだ。その言動の全てを。

 それでも追いつけなかった。体格、筋力、脳の作り。同じ人間である以上、物理的な性質にそう大きな違いは無い。

 それでも私とリズの間には明確な差があった。

 その中で私は思い知った。言動を真似るだけではリズに追いつく事は出来ない。リズの本質はその在り方。その人生経験から来た人間性にこそある。その人間性こそが、リズの言動全てに影響を与えているのだと。

 だから、真似をするというのなら、そこからだ。生まれてから今まで、リズが見たもの、聞いた音、感じた香り。それらを受けたリズの感情、至った思考、手に入れた性能。リズ・シルノフ・アジリエートという人間の本質――『魂』を形成するその全て。

 彼女の人生全てを――今ここに、追想する。


 ……。


 ……そこから先の記憶は無い。何故なら、そこから先は『私』ではなく、『リズ』の記憶だからだ。


 ……そうして私はリズになった。


 偽者の……けれど、存在そのものは真実の『リズ』に、私は、なったのだ。

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