第19話 決戦1
……そうして、彼女がハイデルンへ到着してから何度目かの夜が訪れた。新月が過ぎたばかりの細長い三日月が浮かぶ夜空。地上はわずかな月明かりに照らされて静かな輝きを湛えている。
町の郊外、ハイデルンの森近く。月輝そのものから隠れるように、暗がりを移動する人影があった。
リズ・シルノフ・アジリエート。
アシェナ村の人々を殺戮した、大量殺人犯。
彼女はその罪に追われ、人々の目を逃れながら居場所を転々としていた。
告白すれば。
彼女には殺人による罪を負っているという感覚は無い。彼女にとって、アシェナ村の人々は死んで当然の輩だったからだ。
だが、たとえそうだとしても殺人は殺人だ。しかも村一つとなればその罪は死罪を免れない。もし捕まれば、街中を引き回され、公衆の面前で斬首か、地域によっては火刑に処されるだろう。
「っ……。」
ふらりと足を縺れさせ、彼女は近くにあった木の影に身を寄せた。眉を潜めて、自分の肩口に手を当てる。数日前に、トーファと争った際の呪いの影響がまだ残っていた。狂死しかねない激痛と、その痛みによる発熱は治まったものの、その効果は未だ色濃い。長い逃亡生活もあいまって、体力の消耗は限界に達していた。
今は体を休め回復に努めるべきだ。そう考え、人気の無い場所を探して移動を続けている。ただここ数日は、憲兵に加えて冒険者の間でも懸賞金がかけられたらしく、彼女を探す人間が町中に居た。おかげで街中で気を休める事は困難を極めた。特に今日になってから捜索の手が急に広げられ、一箇所に滞在する事が難しくなっていた。
どうするべきかと焦りが募る。しかしそこで、彼女はある情報を得た。
『ハイデルン近くの森に鼠狼が大量発生していたが、昨日になって全て討伐された。』
鼠狼の事は彼女も知識として知っていた。比較的小型の狼だが、とにかく数の多い群れを作るのが特徴。動く動物は全て捕食しようとする習性を持ち、時には自分より強大な相手さえ群れで襲う。通常は大森林地帯に生息するが、何年かに一度異常繁殖し他の地域へと溢れ出す。群れが通り過ぎた後には動物の居ない、静寂の森だけが残るという。
本来であればハイデルンの森に鼠狼は生息しないらしい。今回鼠狼が現われたのは異常繁殖によるものだろう。そう彼女は推察した。そしてこう考えた。もしそうであるならば、今、ハイデルンの森は動物が全て捕食された状態にあるはずだ。そして捕食者である鼠狼も討伐された。ならば今、森には人間の脅威になるような動物は居ないはずだ。獲物が居ないので猟師や冒険者も近づかない。決まった場所に薬草取りの人が訪れる程度だろう。それはつまり、今現在のハイデルンの森は人目を避けて体を休めるには、最適の場所になっているという事だった。
彼女は、寄りかかっていた木から離れ、再び移動を開始する。
既に森の入り口は目の前だ。森の中で小屋でも見つけられれば僥倖。もし無ければ洞窟や木のうろでも良い。とにかくあと一日、二日凌げば、呪いによる痛みは消え、元のように動く事が出来るだろう。
そんな事を考えながら、薄暗く佇む森へと足を踏み出し――、
「――!」
瞬間。彼女は直感のままに横へと跳んだ。
◆
「うそ……!?」
木の後ろに隠れながらボクは思わず声を上げる。偽リズが瞬時に横に跳んだのを見て、自分が射た矢が避けられたと理解した。
ありえない。
完全な奇襲だった。偽リズは、ボクに誘導されたとは知らず自らの意思でこの森へやってきて、襲撃には全くの無警戒だったはずだ。
実際、こちらに気付いている様子は無かった。それにも関わらず、ボクが矢を射た瞬間、彼女はそれを敏感に察知して回避行動を取った。もしかすると掠るくらいはしているかもしれないが、その程度では矢に塗った毒も十全な効果は発揮すまい。
偽リズは既に体勢を立て直している。あれは物陰に隠れる様子ではない。こちらに突進してくるつもりだ。
ボクは急いでで二射目を番えると、再び弓を引き絞り偽リズへと射た。チッ、という微かな音が遠くから聞こえてきた。あろうことか偽リズは、ボクの射た矢を、正面から剣で切り伏せたのだ。
目が良いのか勘が良いのか。この暗さの中、高速で飛来する矢を的確に捉えるなど神業に他ならない。
「くっ……!」
二射目を射た時点で、ボクの位置は相手に知られた。偽リズがこちらに走り出したのを見て、ボクは森の奥へと後退する。後ろに下がりながら再度弓矢で牽制。しかしどれも避けられるか防がれる。
そのまま中程度の大きさの木々が乱立する場所へと出た。ボクはそこにある木の一つにワイヤーを引っ掛けると、反動を利用して樹上へと一足で飛び乗った。そのまま、気配を殺す。
数秒遅れて偽リズも同じ場所に追いつく。彼女はボクの気配が消えた事を察知して、その場で足を止めた。そのまま周囲を探るように目を走らせている。
……的確な状況判断だ。このまま闇雲にボクを探し回る様な事をすれば、格好の的になると理解しているのだろう。考えてみれば、初めに隠れることではなく突撃を選択したのも最善手だ。彼女が戦い慣れているのが伺える。
「……。」
闇夜に緊張した空気が流れる。不気味なほどに静かな夜だ。予想していた通り森に生物の気配は無い。風もほぼ無風で、時折微かに葉が擦れる音が聞こえる程度。月光は樹木に遮られ、木々の奥は正に暗闇となっている。
そんな中、偽リズの息遣いだけが異様に大きく聞こえた。ボクは気配を殺している。未だボクの位置は偽リズに知られてはいない様だが、動き出せば即座に位置を掴まれるだろう。
ボクは、次の行動を思案する。この様な状況になる事を想定していなかった訳ではない。最初の弓矢での狙撃。それが成功し、矢に塗った毒……鼠狼の牙から抽出した麻痺毒によって相手を無効化するというのが、最良の結果だった。
だが、準備不足である事は自覚していた。偽リズをここに誘導するための前準備に時間を取られ、戦いそのものの準備が間に合わなかったのだ。
相手が強大である場合は、何重にも罠を仕掛け、長い時間をかけて相手を弱らせる。それが森での狩りの鉄則だ。それが今回は罠らしい罠も仕掛けられていない。よって、ここからボクが取りうる行動は二つ。
一つはこのまま遠距離から狙撃を続け相手を弱らせる道。そしてもう一つは――。
「貴女は……以前に会った、リズの知人ですね?」
ふと、偽リズが口を開いた。ボクはその問いに答えない。わざわざ居場所を知らせる事も無い。
「あの日戦った人間の中で、トーファと貴女の戦闘センスは飛びぬけていました。それだけで、貴女達が彼女の仲間だったのだと分かります。」
トーファ様とボクを同列に扱うのはどうかと思うが、今は捨て置く。
「いずれこうなる事は予想していました。……けれど、いえ、だからこそ確認しておきましょう。貴女は、彼女がリズ・シルノフ・アジリエートではない事を知っているのですか?」
偽リズは、問う。
ボクはなおも答えない。けれど、この場において沈黙は即ち肯定だ。
「――……。そうですか。それを知ってなお私を襲うという事は、貴女は今の彼女を肯定するのですね。」
当然だ。例え名前が偽りであろうとも、リズはリズだ。この二年間、いつだって前に立ち、ボクを守ってくれたリズ。例えそれが誰かの行動を真似したものだったとしても、ボクはその想いを否定はしない。あの笑顔が、頭を撫でてくれる暖かな手が全て偽りだったとは思えないのだ。
だから――守ろうと思った。そこにいかなる事情があろうとも、彼女が苦しんでいるのならば、救いたいと思った。
……身勝手な望みだ。そんな事は、分かっている。分かっているからこそ、迷いは無かった。ボクは、リズを傷つける存在を許さない。
……覚悟を、決める。
「――ならば、和解の目は無い。貴女が今のリズ・シルノフ・アジリエートを望んでいると言うのなら、私達は永遠に相容れない。――……来なさい。」
膨れ上がる偽リズの殺気。その言葉を聞いて、ボクは木の上から跳んだ。
「――!」
音に反応した偽リズがこちらに視線を向ける。
視線が交錯する。だが、ボクが跳んだ方向は彼女に向かってではない。あくまでも距離をとって。彼女を中心に円を描くように木々の間を跳躍する。
「翼をここに 軽く 早く 高く 大地は無く 湖水は無く 大気は浸透し あらゆる束縛は霧散する 翔けろ飛禽 その憧憬をもって風となれ!」
さらに風の魔術で速度を上乗せ。木々の裏に隠れ、フェイントを織り交ぜながら。彼女との距離は多少前後させるが、絶対に一足動で間合いに入られる様な距離にならないよう細心の注意を払う。そして――。
「ふっ!」
ボクは指に挟んでいた鉄針を投擲した。ほぼノーモーションからの三連投。黒色の鉄針は周囲の暗闇と同化して視認は困難だ。通常であれば何を投げられた事すら知覚困難なそれは、しかし――。
ギギン、という音。当たり前の様に、偽リズの剣によって弾かれた。
「まだ……!」
ボクはそれでも足を止めずに、鉄針を投擲し続ける。鉄針が弾かれる事は予想の範囲内だ。なにせ、矢による奇襲すら通じなかったのだ。いかに技巧を凝らそうと、投擲する人間を視認している以上、攻撃を弾く事など造作も無いだろう。この鉄針の狙いは一撃必殺ではなく、相手の隙を作る事。鉄針は魔術によって多少威力は上がっているものの、それ自体の殺傷能力は低い。その代わり、これにも麻痺毒が塗布されている。そして何より数が稼げる。今身に付けているもの。そして木々の陰に皮袋を設置し、予め隠しておいたものも合わせれば、その数は相当だ。この戦闘の中で撃ち尽くすという事はあるまい。ばら撒くだけで、確実に相手の動きを鈍らせる。
とにかく偽リズとの距離に注意しながら、木々の間を駆け抜け続けた。前後左右、不規則に。運動とは無関係に心臓の鼓動が早くなる。鉄針を握る手が冷たく汗ばんでいる。距離を取っているとは言え、僅かでも隙を見せれば相手は一瞬で間合いを詰めてくるだろう。そして剣の間合いに入ってしまえば、ボクに対抗する手段はほぼ無い。それは数日前の戦いで証明されている。こちらのフェイントを見破られてはいけない。動きのパターンを覚えられればそれで終わりだ。
「五月蝿い。」
と、これまでボクとの距離を測っていた偽リズが足を止めた。追撃を諦めたのか。そう思って一瞬安堵したボクの耳に、彼女が紡ぐ言葉が聞こえてくる。
「刃をここに 鋭く 鋭く 鋭く 大気は収束し 風は整列し 時間は静止し 緑の息吹は世界を満たす 駆けろ早風 その静寂をもって敵を斬れ!」
魔術詠唱。中級魔術の鎌鼬。ヒュッ、と音がして、不可視の刃がボクの眼前に迫ってくるのを感じた。一瞬前、目前の木に深々と切り傷が刻まれるのを見る。直撃すれば致命傷になる一撃。
「くっ……!」
とっさに身を屈めて刃を避ける。その場から逃げそこなった髪の一房がパッと音を立てて散る。魔術の残滓が頬を掠めて薄く朱色の線を引いたのが分かった。
「っ!」
相手が足を止めたと安堵した分、対応が遅れた。鎌鼬程度の魔術であれば相殺出来ない事も無いが、それにはこちらも足を止めて魔術を紡ぐ必要がある。だがもし足を止めれば、それこそ相手の思う壺だ。ボクが速度を落とした瞬間、相手は間合いに踏み込んで来るだろう。故に、ボクが取るべき行動は唯一つ。
「加速――!」
重量軽減、速度増加の魔術にさらに魔力を込める。捕まれば終わりだ。魔力の消費に糸目はつけない。足を止められないのなら、さらなる加速によって相手をかく乱する――!
だが――。
「痛っ……!」
再びの鎌鼬。速度を上げたにも関わらず、またもや避けきれずに傷を負う。
魔術の範囲が広すぎる。偽リズもボクが速度を上げた事を理解して、魔術の範囲を広げてきている。周辺一帯をなぎ払う様に放たれる鎌鼬。いくら速度を上げようと、完全に避けきれるものではない。
だが、だからといって他に手はない。とにかく、相手の魔術詠唱中――こちらへの注意が途切れた瞬間を狙って、鉄針を撃ち込んで行くことしか、ボクには出来なかった。相手も人間だ。長期戦になれば必ず隙が生じる。
そして――。何度目かのの繰り返しの後。
リズの魔術詠唱に揺らぎが生じた。決定的な隙。絶好の好機。ここぞとばかりに、ボクは今手に持っている全ての鉄針を一斉投擲する。
数にして八本。それら全ては的確に偽リズの急所に飛んでゆき――。
パシリと。
当たり前の様に、その内の一本を素手で受け止められた。
「――。」
遅れて、残りの鉄針が背後の木に当たる音が響く。……全て、避けられたのだ。
偽リズは、無表情のまま受け止めた鉄針を眺めていた。
「なるほど。毒を塗った投擲刃ですか。いかにも狩人が使いそうな戦術です。……が、魔術で威力を上乗せしたのは間違いでしたね。私の目はあの子と同じ魔力視の目。おかげで刃の位置が良く視える。」
そう言って、リズはその鉄針を投げ捨てる。そして、その視線をこちらに向けた。
……いつの間にか、ボクの足は止まっていた。既に速度上昇の魔術の効果も切れている。
「そして、こう何度も繰り返されれば目も慣れます。貴方の足運びのパターンもおおよそ把握しました。次は、私の番です。」
そう言って、偽リズは剣を構えた。アスライトの白く輝く刀身が、真っ直ぐとボクに向けられる。
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