第12話・メアリの受難
王宮からの退去を言い渡されたメアリは、最後に一目だけでも姫君に会わせて欲しいと懇願していた。しかし、手続きは淡々と、そして事務的に進められ、遂にその願いが叶うことは無かった。
そんな彼女に、甘言を以って近づこうとする男がいた。
カルダス王の弟、エミリオ王子である。
彼はメアリが王宮入りした時から、彼女の事をずっと好いていたのだ。
外界から来たリュクルゴという男の一人娘―――輝くような金髪、透き通るような碧眼、メアリの持つ王宮内のどの侍女達とも違う雰囲気に、彼は強く惹かれた。
兄とは違う物を求め続けた彼にとって、他に類を見ないメアリはどうしても手に入れたい理想の女性だった。
「私の妻になれば、マリエルの謹慎を解くように兄や義母に進言してやろう。姪のマリエルと一緒にいたいのだろう?ならばいっそ、本当の家族になって、堂々と会えばよいではないか―――」
メアリは困惑した。
スズ王妃の目が光る兄カルダス王と違い、エミリオ王子には頻繁に女性関係の噂が囁かれていた。メアリの侍女仲間の中には実際に事に及んだ女性もおり、その噂がただの噂ではない事は彼女も承知していた。
王子が市中の女と結婚した場合、産まれた子供の資質次第では王籍を外され、母アリナ妃の実家である南の領家へと転籍されてしまう。それを理由に王子は結婚を嫌い、過去に何度も女性を泣かせてきたという噂は、既に侍女仲間の間では公然の事実として流布していたのである。
王子の良からぬ噂を耳にしていたメアリは、一度はこの誘いを断り、東の領家に戻った。
* * *
出戻った領家では年老いたデニム公の死期がいよいよ近づいていた。
この頃の西の領地では、夜になると稀に、西端にある霧積峠から魔素を含んだ霧が街まで吹き込んでくる事があった。
窓を閉め切り、外出を控えれば凌げないものでもなかったが、運悪くデニム公はこの魔素の霧に肺臓をやられてしまっていたのである。
メアリが祖父と慕ったデニム公は痩せ衰え、メアリとの再会を喜んだものの―――彼はその顔を見届けた数日後、安らかな顔で息を引き取ってしまった。
先々代の王の弟君であり、西の領地では比較的長い期間領主を務めたデニム公・・・その葬儀は領地を上げて盛大に行われた。
領家の後を継いだバイス公からは、イベリア王家から西の領家の当主として、この地の発展に尽力したデニム公への追悼の言葉が公示され、街は哀しみの色に包まれた。
葬儀の後しばらくして、バイス公は、長年マリエル王女の世話係として勤め上げたメアリに労いの言葉をかけた一方で、カルダス王の言いつけに背いて、その結果姫君を東塔への謹慎に追い込んでしまった事に対する叱責をした。
だが、彼女にとって所縁の深い西の領家内に於ける処分は、極々軽微なものであった。
一方、父リュクルゴは言葉少なに愛娘の帰還を喜び、労わった。
「八年間、辛かっただろう―――。」
優しく抱きしめた父の胸で、メアリもまた、嗚咽を漏らして泣いた。
彼女がこんなに泣いたのはマリア王女が亡くなって以来の事であった。
* * *
やがて、季節が変わると、デニム公の後を追うように、病床に倒れたカチュア夫人もまた、静かに息を引き取った。
祖父と慕ったデニム公に続き、母と慕ったカチュアの死―――。
メアリの心に、ぽっかりと大きな穴が開いてしまった。
それからしばらくは、哀しみと虚無感が彼女の心を覆い、一日中お屋敷の中で横になったまま動けない日々が続いていた。
父リュクルゴはそんな彼女を心配し、時折は仕事を休んで介抱をしたりしていたのだが、ここ最近では西端支流域に魔獣の出現が多く報告されるようになっており、複数名の若い兵を連れてその討伐に出る機会も増えていた。
屋敷に戻れぬ日も多くなっていた。
メアリは、体調の良い日などはお屋敷の家事手伝いや、バイス公の子女子息の子守りなどをして一日を過ごしていた。しかし、特に父のいない日は寂しさが募り、大きく開いたその心の隙間が満たされることは無かった。
そんな中、エミリオ王子は王都を去ったメアリに手紙を出し続けていた。
「東塔に幽閉されたマリエル王女の心労は溜まっている―――君の力が必要だ―――王女を救ってやれるのは君しかいない―――」
執拗な誘いではあったものの、実はこの手紙は徐々にメアリの心を揺さぶり始めていた。
喪失の哀しみに打ちひしがれていたメアリが、精神的な支柱として求めたのは―――自身が14歳の時から8年間を共に過ごした、マリエル王女であったのである。それは、依存的な心理状態であったのかもしれない。
彼女にとってマリエル王女は年の離れた妹であると同時に、自らの母性を注ぎ込んだ娘でもあった。愛する姫君が毎日薄暗い部屋でどんな気持ちで暮らしているのかを考えると、メアリは胸が痛んだ。
何度目の手紙だったろうか―――。
季節は移り、姫君の幽閉はメアリの想像を超えて長い期間になっていた。
そしてメアリは遂に我慢できなくなり、エミリオ王子に返事を書いたのである。
(謹んで、お受けいたします―――。)
* * *
返信を出してから数日―――
王家からの迎えの者が西の領家にやってきた。
メアリはバイス公に事情を説明し、王宮に戻る事の承諾を得ていた。
一度は王命に背いて王宮より遠ざけられたメアリが、今度は王子の妻として王宮に戻るという事は大変喜ばしいと、バイス公は歓迎した。
一方で、父リュクルゴは反対した。
その結婚が、メアリ自身が望んだものではない事を瞬時に察したからである。
(ごめんなさい、お父様―――)
メアリは父に背を向け、領家を後にした。
「待っててマリエル様―――すぐに私は戻るわ―――。」
メアリが王宮に到着すると、エミリオ王子は大喜びで彼女を迎え入れた。
「マリエルへの処遇は兄と義母にきっと進言してやる。私とお前の結婚式には、マリエルも参加する。喜ぶがいい、もうじきお前の愛しい姫君に会わせてやるぞ。」
彼は嬉々として話しながらメアリの手を取り、王宮へと導いた。
* * *
王宮に戻ったメアリがまず謁見したのは、アリナ王妃であった。
絢爛な応接間に案内され、そこでは人払いがされた。
エミリオ王子までも席を外し、アリナ妃はメアリとの二人きりで話す事を希望された。
かつて、三王妃の中で最も深く王を愛し、スズ王妃の嫉妬を買った女性・・・。
何度か姿を拝見した事はあったが、実際に言葉を交わすのは初めての事であった。
「顔をあげなさい、メアリ。」
久々に見たその顔は、相変わらず草臥れた表情をしていた。
美しいが、何処かけだるそうで、幸の薄い―――そんな顔。
「この度は我が息子、エミリオの申し出を受けていただいて、大変うれしく思いますわ。母として、お礼とお祝いを言わせてください。」
「いえ、そんな・・・私は何も―――」
「解っています。貴女は本当は―――マリエル王女のためにこの度の婚姻をお受けになられたのでしょう?」
「え?いや、その・・・そんなことは・・・」
メアリはぎょっとした。
あまりの事に言葉が出ず、しどろもどろになる。
「貴女の事は知っていましたよ。マリエル様はあなたが来てからというもの、随分と変わりましたもの―――」
「―――許してちょうだい、メアリ・・・。お恥ずかしい話、私の息子エミリオは、こんな方法でしか女性へのアプローチ方法を知らない子に育ってしまった。愛情の示し方、与え方が下手なのよ。私が母として不徳なばかりに・・・。」
アリナ妃の振る舞い・・・それはまるで、スズ妃とは真逆のそれであった。
世間によくいる大人しい母親であり、意外な程に謙虚で、腰が低い・・・。
言い換えれば、王族とは思えないような振る舞いともいえる。
「でもね、今回はあの子なりに・・・一生懸命、貴女にアプローチはしたつもりなのよ。そこだけは解ってあげてください。」
「はい・・・。」
「それに―――今のマリエル様には貴女が必要だわ。このままじゃあの子は・・・。」
アリナ王妃は苦々しげな顔をした。
メアリはハッとして、思わず聞き返した。
「アリナ様、教えてください。マリエル様は、今でもまだ東塔におられるのですか?」
「えぇ・・・あれからスズ様の締め付けは厳しくなる一方です。儀式や式典など、公務の時以外では、自ら進んで反省し謝罪に来るまでは塔からは出さぬと、厳しい処置を継続してらっしゃいます。マリエル様はマリエル様で・・・決して自分からカルダス様やスズ様には謝罪などしないと、意固地になっているのです―――」
「―――よっぽどあなたをお国に返した事がお心に障ったんでしょうね。しかし、このままの状態が続けば、マリエル様の心身はいずれ壊れてしまうでしょう。」
「まぁ・・・そんな・・・。」
メアリは口元に手を当て、震えた。
まさか姫君が、そのような過酷な状況に置かれる事になっていようとは・・・。
「貴女もご存じの通り・・・多少の自由こそ許されておりますが、前王様も今や事実上の幽閉です。私は、前王様とマリエル様を引き合わせてくれた貴女には感謝しています。カルダス様もスズ様も、いくらなんでもお父様に対してあの仕打ちは可哀相ですわ・・・。」
思い出したようにアリナ妃は続けた。
「この事はエミリオには話さないでおいてください。あの子もまた、スズ様やカルダス様と同様に、前王様を憎んでいます。お父上に対する幽閉や、マリエル様を隔離するようなこの仕打ちは―――あの子とカルダス様が主導で命令させているものなのです。」
「あの子の抱えた歪みは、兄や父に対する憎しみの副産物・・・今となっては私にも、どうする事もできない・・・。」
(父や兄に対する憎しみの副産物・・・。)
心の中で復唱したメアリ。
「まさか・・・マリエル様の幽閉もエミリオ様が主導したのですか!?」
その質問に、アリナ妃の表情は曇った。
「そうね・・・そうとも言えるし、そうでないともいえる。いずれにせよ、結果的にそうなった事をあの子は利用して・・・貴女を妻として手に入れようとしているのよ。本当にどうしようもない子―――メアリ、ごめんなさい・・・本当に・・・。」
本当に申し訳なさそうに、アリナ妃は涙を拭きながら語った。
「アリナ様は・・・今でも前王様の事を―――?」
「えぇ、愛していますわ。だからこそ、私はもうこんな事はやめて、どうにかしたいと考えているの・・・。王家は恐ろしい所よ。血の繋がった身内同士でいがみ合い、憎しみ合い・・・もう沢山だわ。」
アリナ妃は苦しそうに語った。
その表情は本当に長年強いストレスに晒されてきた人間の、深い業が染みついていたように見えた。
「あと二、三年もすれば・・・マリエル様は湖霊との契約の時を迎えます。そうすれば、マリエル王女は女王として即位を宣言し、スズ様とカルダス王が席巻する今の状況は変わるでしょう。新しい王家の時代が幕を開けます。そうなった時・・・あなたにも女王を支える王家の一員として、マリエル様の傍にいてほしいのです。もちろん―――」
「―――これは、私個人の身勝手なお願いです。」
そして・・・意を決したように少し間をおいてから、アリナ王妃は続けた。
「ここまで話したからには、貴女にはもう知る権利があるわね・・・。これから私が語る真実を知った上で、最終的に王家に入るのかどうかをお決めになってください。」
少しの沈黙、深呼吸の後、アリナ王妃は語り始めた。
「我が子エミリオ・・・あの子が本当に愛していたのは、腹違いの妹―――今は亡きマリア様。貴女が姉と親しんだ、マリア王女様なのよ。そして―――」
メアリの心拍数が上がる。
「―――あなたを姉と慕い、今や牢中の姫君となってしまったマリア様の子、マリエル様・・・。彼女の本当の父親は、カルダス様ではありません。マリエル様の本当の父親は―――私が愛した―――」
そこから先は息が止まるような思いだった。
時間が止まったようにも感じた。
聞いていたワードは右から左へと抜けていき、脳に定着しなかった。
いや、本能的に認めたくなかったのかもしれない。
前王の妻であるスズ王妃と、その息子カルダス王とエミリオ王子が実父をこれほどまでに憎み、姫君と遠ざけようとする理由―――。
実の娘であり、そして孫娘でもある姫君と引き離される前王。
父子関係に悩み、そして実父とは知らずに祖父を慕う姫君。
仮初の親子であり、そして実の兄妹でもある王と姫君。
愛した妹を孕ませ、そして死に至らしめた恨みから父を幽閉する王子達。
第三王妃カーシャとその子マリアにまで子供を産ませた夫を憎む第一王妃スズ。
そして、それでも尚一途に夫を愛し続ける第二王妃アリナ・・・。
何だ此処は―――まるで蟲毒の壺中ではないか―――。
蟲毒の渦中に、毒に塗れた愛しい姫君がいる。
あぁ、マリエル様―――私は―――貴女の為に―――。
壮絶な後悔と絶望感がメアリの心に降り注ぐ。
愛しい姫君の存在が、どんどん遠くに行ってしまう。
呼吸が荒くなる。
自分でも、訳が分からない。
目の前が白くなる。
「メアリ大丈夫!?大変・・・誰か!直ぐにお医者様をお連れしなさい!」
過呼吸を起こしたメアリはその場に倒れ込み、意識を消失した。
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