第6話・マリエル
早馬がイベリアの野を駆ける。
リュクルゴは西の領主家に戻ったのは陽が沈む丁度前の頃だった。
予定より長引いた滞在に、娘のメアリが半べそを搔きながら出迎える。
「悪い悪い、少しだけ道草を食った。」
そういって、愛娘を抱き上げるリュクルゴ。
メアリの金髪は夕日を浴びて赤く輝いていた。
* * *
陽が沈む頃にはデニム公と卓を囲んでの晩餐となった。
行儀よく躾けられたメアリは幸せそうにスープを啜っている。
従者の子とは云え、片腕として仕えるリュクルゴの子メアリは、今やデニム公やカチュア夫人にとっても、可愛い孫娘のような存在であった。
リュクルゴにとってメアリは、自分をイベリアに留まり続けさせる最大の理由ともなっていた。故郷フレイアではこのような愛しい存在に出会えるとは、想像もできなかったのだから。
この子を産んで亡くなった妻さえ生きていてくれたら、どんなに幸せだったろう・・・。
幸せな一時はあっという間に過ぎ去る。
おなかの膨れたメアリは席を外し、寝所に入った。
そこからは大人の話だ。
返書に目を通したデニム公は険しい表情でリュクルゴを見た。
「返書には何と?」
「うむ、果報は寝て待て・・・という事なのかのぅ。先の事はマリア王女次第・・・いずれ判る事だから、今は待てと書いてあった。」
「マリア様次第?」
「そうだ。要するに、次なるお世継ぎはマリア王女が産むという事なのだろう。そのお相手に誰を据え置くのかは皆目見当もつかぬが、リュクルゴ、お主の方では何か判ったか?」
「それが・・・。」
* * *
リュクルゴは城下の酒場で集めた情報を断片的に話した。
東塔の工事は老築化による補修というよりも、塔内各部屋の内装や、塔周辺部の増改築を主な目的としたものとしている事。
かなり早い段階から女物の家具や内装が持ち込まれている事。
マリア王女が城内の何処にも見当たらなかった事。
そして、マリア王女の体調不良から、妊娠説が出ているという事・・・。
「なんだと!?では王女はもうご懐妊しているというのか?」
「はい。恐らく、今は東塔のどこかでご静養されているのではないかと・・・。増改築の施設も妙な点がありました。東塔の下部に作られた荘厳な建物には、様々な種類の塩の類・・・ええと、この国ではなんと申しましたか・・・ナトムにカリムでしたか・・・?」
「ナトリウムとカリウムか?」
「あ、はい、それです。そういった名前の大量の塩の類と、この国でいう医療用の器具ですか?ハサミやナイフの他、樹脂やガラスの瓶なども持ち込まれていたようです。出産の際にあのようなものを使うのでしょうか?他にも―――」
デニム公は顎に手を当てて押し黙ってしまった。
話を聞いた限り、東塔の真下には何らかの治療所のような施設が建設されている。
それも、かなり大掛かりな手術が行われるような施設であろう。
塩の類は恐らく輸液を作るため・・・だが、何のために?
マリアに使うためだ。
―――だが、通常の妊娠では産湯は使っても、輸液治療までする事は滅多にない。
あったとしても、点滴の量もそれほど多くは必要とされないであろうし、妊婦が水も飲めぬほど衰弱した時のみの緊急的な場合に限るだろう。予め街の医師に通達し、必要時に用意させれば事足りる筈だ。
それに・・・
無菌が求められる輸液は、作っても日持ちがしない。
作ったその日に直ぐにでも使用しないと、血が菌に冒されて死亡してしまう事も多い。わざわざ王城の敷地内に製造所まで建設したのは有事のため・・・?
イベリアが誕生するずっと昔、世界が災厄に見舞われる以前の旧世界では一般的だったという点滴療法・・・。今のイベリアに残っている手法は、文明が破壊されてしまった後の、後代の医師達が試行錯誤の末に復元したものである。
手法の記録は残っていても、輸液は簡単に施術できるものではない。
熟練した医師と、複数の段階と準備が必要だ。まずは水を煮沸して・・・
「水・・・清水・・・あっ・・・!」
デニム公はリュクルゴの顔を見て思い出した。
彼はこの国に来てから、徐々に魔素に対する耐性が無くなっていった。
イベリアの清水が、彼の中にあった魔素を洗い流してしまったのだ。
そして、王妃が魔素中りを起こした際の魔素祓いの儀式の内容―――。
古代の記録で、それは呪術的な儀式として描かれていた。
温めたイベリアの清水に妊婦を浸し、王が呪(まじな)い事を行う―――。
水はその都度変えられ、日に何度も行われる事もあったという。
一見するとただの風呂であるが・・・。
妊娠した身体にも物理的な負担がある事と、煩雑であるが故に、時代と共に廃れたとされるあの儀式に意味があるとすれば・・・。
「あれは湧水管より出たイベリアの清水を妊婦の血液に循環させ、胎児の魔素から母体を守る儀式だったのだ・・・!」
奇跡的な能力を持ち、魔法の使えた古代の王だったからこそ、輸液ではなく経皮的にそれが可能だったのだとすれば、辻褄は合う。
カーシャが第二子を妊娠した時、通常の悪阻と気づかなかった王は、その対策に遅れた。恐らく、その時の苦い経験から、王も魔素祓いの儀式について独自に調べ上げ、同じ仮説に辿り着いたのだろう。
王は、イベリアの清水から作った輸液を以って、その儀式の代わりを行おうとしているのだ。
* * *
「リュクルゴよ、お前の調査ではマリア王女の宿した子の父親は判らなかったのだな。」
「はい。私はスズ王妃とカルダス王子には会いましたが・・・どうも奇妙な様子でして・・・。」
「奇妙というと?」
「少なくともお二人はマリア様のご懐妊は既にご存知のようでした。ただ、そのお相手がカルダス王子かどうかまでは、推し量ることは出来ませんでした。カルダス様はまるで私に、余計な事に首は突っ込むなよ、とでも言わんかのようなお振舞いでしたし、それ以上は喋るなとばかりに、スズ様がカルダス様を制止しておられました。」
「まさか・・・知られてはまずい相手なのか?」
「解りません。ただ少なくとも、マリア様の儀式は失敗され、イベリアでは次なる後継者は早急に必要な状態です。マリア様がご懐妊され、カルダス王子がマリア王女とご結婚されるというのであれば、そのような通達が・・・少なくとも、デニム様のような各領主家にはあってもよいかと思うのです。」
「確かに・・・。だがマリア王女に悪阻―――恐らく魔素中りの可能性がある以上、それらしい相手も他には見当たらぬな。」
「そうですね・・・。ですが、返書の内容から察するに、マリア様が無事お子様をご出産されるまで、我々も迂闊には動かない方がよいかもしれません。」
「うむ・・・今はただ、マリアの身体の無事を祈るしかないのかもしれぬな・・・。」
* * *
それから時は流れ、季節は冬から春に差し掛かろうとしていた。
その後も何度かリュクルゴは王都に出向いたが、点滴を作っていると思しき施設は、ずっと稼働を続けていた。
デニム公の予想した通り、マリア王女の魔素中りは点滴療法によってかなりの症状が軽減されていたのである。
しかし、年が明けて間もなくの頃、順調かと思われた経過に暗雲が立ち込める。
冬の乾燥した空気に交じり、点滴に入り込んだウイルスがマリア王女に感染症を引き起こしたのである。
高熱に苦しむ王女はそれからひと月の間、解熱と発熱を繰り返しながら病と闘い続けた。幸か不幸か、その後も続けられた点滴が彼女の消耗を補い、命を繋いだ。
―――そして。
* * *
「命に代えてでも、この子を産んで見せる・・・!」
声を嗄らし、マリアは最後の息みを見せる。
懸命に戦い続けたマリア王女の身体は、既に限界であった。
「おぎゃあ!おぎゃあ!」
最後の息みから数秒後―――
スズ王妃、アリナ王妃、カルダス王子、エミリオ王子、そして父である王・・・家族全てが見守る中、その子は産まれた。
「聞いたかマリア!女の子だ!栗色の髪の毛・・・お前の時とそっくりだ・・・あぁ・・・なんという可愛い子だ!よく頑張った・・・!ほら、今胸に抱かせてやる―――」
息も絶え絶えのマリアは、産まれたばかりの我が子を愛しそうに見つめると、王に言った。
「お父様・・・早く、命名の・・・儀を・・・」
その時、ベッド脇の机に置かれたウイジャボードがカタカタと震え始めた。
地震かと思われた揺れが、ボードの揺れだと気づいた時、静まり返ったその部屋で、マリアの傍に寝かされた姫君の産声だけが響き渡っていた。
皆が、固唾を飲んでその様子を見守る。
「見ろ!文字が―――!」
それは異様な光景だった。
文字を指し示すための点石が、誰の手にも触れぬまま、カタカタと揺れるボードの上を這いまわり、ひとりでに名を示し始めたのである。
マ リ エ ル
「マリエル―――そう・・・貴女の名はマリエル、なのね・・・。」
「ありがとう、マリエル・・・あとは・・・あなたに―――。」
* * *
マリア王女は息を引き取った。
わずか16年の生涯であった。
泣き崩れる王と王妃達。
複雑な表情のまま、立ち尽くすカルダス王子とエミリオ王子。
長い沈黙の中、二人の王子だけが忌々しげに泣き崩れた王の背中を見つめていた。
彼ら二人の心中には、今まさに降りかかった哀しみと同じ―――いやそれ以上に、長い間鬱屈した、激しい怒りの感情が沸き立っていたのである。
愛しい妹マリアの気持ちを思えばこそ、その怒りは彼らを自制せしめていたに違いない。だがマリアが亡くなった今・・・遂に抑えきれなくなったそれは、堰を切って溢れ出す。
「父上・・・これが・・・こ れ が あなたの望んだ結末かぁ!」
「この鬼畜め!湖霊セルベルの加護さえなければ、今すぐにでも殺してやりたいところだ!」
カルダス王子とエミリオ王子の口から発せられた罵声は、王妃達の泣き声を嗚咽へと変え、より一層大きなものへと変貌させた。
マリアの遺した姫君―――マリエル。
この日彼女は、彼らにとって二人目の妹となったのである。
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