第20話

 教会。大聖堂内。

 天井にステンドグラスが輝く。荘厳な空間に人影が二つ。一人の老人の影と、一人の悪魔の影があった。

 悪魔の下には五芒星の陣が描かれていた。陣は白砂のような輝きを放っており、彼女はそこから動かない。つまらなそうな目をして、奥で十字の椅子に座り、金糸の刺繍があしらわれた聖書を読んでいる老人を見つめていた。

 老人は、背筋こそまっすぐ伸びていたものの、腹は風船みたいに膨れ上がっていた。それをたぶついた司祭服で誤魔化している。固い椅子は座り心地が悪いようで、しきりに腰を揺すっている。時には聖書を片手持ちに、膝を組むことすらあった。


「不敬と思うかね? だが神はここを見ていない。いるのは悪魔を除けば一人、教会のトップまで上り詰めた老人がいるだけだ。何を広げようとワシの勝手だというわけだ」


 ぺらぺらと聖書のページはめくられていく。

表紙の厚紙が豪華な割には中身のページは妙に汚い。

 それはまるで……、そう、人皮装丁本のような。


「リリス、ね。……この本には召喚方法は書かれてないな。よっぽどの低級か。それとも逆か。しかしワシもどこかでその名を聞いたような? はてどこだったか?」


 老人は聖書を閉じて、横に置いてあった司祭の杖を支えに嬉々と立ち上がった。


「そうそう! ちゃんとした聖書にその名を見たことがあったぞ! 三四章一四節だったか! しゃっしゃっしゃ、久しく読んでなかったから忘れてた! この歳になると記憶が蘇るだけでも存分に愉快だな! 甘美な記憶は、民のお布施で買ったブランデーの一杯に等しい。どちらも十二分に自分に酔える」

「……だけど貴方はもうすぐ死ぬ」


 老人の笑みが止まる。


「私は貴方のように贅沢と怠惰を貪る人間を腐るほど見てきた。そうやってお腹だけが膨れてきたら終わり。ふふ、強力な回復魔法を掛け続けて、なんとか表面の壊死だけは防いできたんでしょ? 中の肉はぐしゃぐしゃに腐ってる。それ、ヒールシンドロームって言うんだよ」


 腹から視線を上げてみれば。権力に酔う老人の顔は、病人のように痩せ細っていた。

 老人は日に日に弱ってく自分の体を労りながら言う。


「ワシの健康を元に戻せるか? 寿命を延ばせるか?」

「ふふふふっ。くくくくくっ。そうやって願ってきたのは……。貴方で何人目だと思う?」


 嘲るような笑みが、老人に対しての返答だった。


「なら、いい。構わぬ。悪魔に頼らずとも、ワシは持てる権力を使い、この死の運命から免れてみせる。 ……しゃしゃ、お前には、教会の方を治す特効薬になってもらう」

「一時的に腐敗を遅らせるだけ。本当に腐敗を直したかった時間逆行魔法でも見つけてみれば? あるかどうかは知らないけど」

「お前達は、どこまで世界の理を知っている?」

「ふふ、さぁね」


 自分の死を予言されても怒らなかった老人が初めて目を血走らせた。


「ワシは! この理不尽な世界の成り立ちを知りたい! おかしい、何かがおかしいのだ! ワシが半世紀愚直に信じ諳んじてきた〝本物の聖書〟の記述と、この世界はどう鑑みても一致しない!」


 老人の顔に、執念を刻んだような深い皺が表れる。


「知ってるか? ビル、などと称される世界各地の遺跡から出土物を調べてみても、〝人間以外の存在を示す遺物が全く見つからない〟のだ。獣人、エルフ、モンスター。彼らの生きていた痕跡は、古代書はおろか、骨すら見つかってない。……ど、どういうことだ? お。おかしいではないか! これだと長命なエルフより人の歴史は古いことになる! も、モンスターなどっ、数百年前に急に出現したことになるんだぞ!? 全てがあやふやだ! 教会が無駄にねつ造してきた事実の裏は、こんなっ、こんなっ! ――ッ、あああ。考えたくもないが、こ、この、この世界は……」



「聖書に記載されてあった、アポカリプス後の世界なのか――?」



 リリスは笑った。彼女にとって老人の苦悩など、一考にすら値しないささやかな悩みだった。

 この世界は。 

 人の欲望が肥大化し、破裂した後の世界だ。

 ありとあらゆる科学技術が衰退し、魔力という新技術が浸透し、魔物と称される兵器が暴走した末、遺伝子改良された新人類が闊歩するようになった世界。

 リリスは――悪魔という種族は他の種族と一線を画している。

 誕生から四千年。ずっとずっと大好きな人間が欲望に踊り狂う姿を見てきた。

 だから全て知っている。

 だがそれを素直に老人に伝える義理はない。


「ふふふふ、そういうことだったんだ。なるほどなるほど。……教会の栄光を取り戻すため、悪魔を呼び出したとか言ってるけど、もしかして本当の目的は――」

「答えろ! 悪魔の存在だけは! 本物の聖書にも記載されてあった! お前は知っているはずだ! この世界の! すべてを!」


 老人は権力を得るまでに搦め手に上手くなったようだ。自分の我を通すために、万人が納得する偽りの目標を提示していたのだ。


「そうだよね。自分の死を間近にして、教会を立て直すメリットなんてないよね」


 しかし残念ながら、そうまでしても得れたものは何もない。

 リリスは、杖を付きながら生まれたての小鹿のように近づいてきた老人を、いよいよ嘲笑する。


「……、単位とか法則名とか、いろんなところで旧時代の名残が残ってるけどー。魔王っていう固有名詞、実は我らが王を差す言葉じゃなくて、人の俗称なんだよねー」

「は?」

「くすくすくすくす」

「ま、まともに答えるつもりはないか! なら構わん! 精々教会の役に立って死ね!」


 怒りに任せたところで老人は結界には触れられない。老人が去った後、リリスは暇を持て余し、教会の天井に描かれたレリーフを見つめる。

 神と悪魔の戦い。その後の魔王の登場、勇者の活躍。神話をモチーフにしたそれは、世界の成り立ちを説明しており、半分は教会がねつ造したものだった。

 この世界に魔王などいない。勇者も存在しないし、冒険を引き立てる世界の命運なども存在しない。

 ツマラナイ世界なのだ。

 だからこそ、人の欲望が際立つ。

 世界を変えるのはいつだって人だ。現状に満足せず、神をも恐れぬ所業を平気と行い、価値観を塗り替えていき、そして最後には自らを破滅に追い込むほどの、強烈な〝欲〟。 

 旧時代は、行き着くところまで行き着いて、それで破綻した。しかし今回は多種族入り乱れている。かつてと同じ失敗を繰り返すとは思えない。

 リリスは体の芯から湧いてくる熱に堪えきれず、期待感に両腕を抑え身悶えする。欲深い人間が好きなのだ。やはりこれが彼女の性癖であり、種族としての性(サガ)だった。

 かつて気まぐれでリンゴを与えた人類は、ここまで変化した。

 この先、どうなるか、楽しみで仕方ない。


「……、ま。今は一個体として、身近な人間の欲望の変化に注目しようかな。……スレイ ――」


 リリスは使い慣れてない尊大な言葉を口内で転がしてみる。

 もう少し自身が主役の一大イベントが始まる。民衆の前で、威厳を保つ練習だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る