16 魔女の助言と猫の腕 ②

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 ここは危ない、また『引っ張られる』かもしれない。そんな言を受け、猫さんの後ろをついて歩く。

 歩くたび、自分の中身が息とともに吐き出され、世界に溶けていくのを感じる。

 望者になると聞いた時は恐ろしかったけど、その感覚は心地良くて気持ち良くて――この世界にずっといるのも、そんなに悪いことじゃないんじゃないかと思えてくる。

 不安も恐怖も、怒りも悲しみも、とろとろ混じって溶けていく。

 とろとろ。とろとろり。

「魔女というのは、望者の上位存在……より強い力を持つ、望者のいわば頭領だ」

 だんだんとろけてきた頭の中に猫さんの声が入ってくる。

「望者は普通、そこまで大きな力を持たない。せいぜい巣を作るくらいで、それもそこまで大それたことにはならないのだが……魔女はとても厄介だ。より深く、強い絶望を得、それ以上の欲望を持った望者は魔女と化し――自分の望みを叶えるために恐ろしい魔法を使う」

「魔法?」

「この世界のことわりを操作する権限さ。他の望者を取り込んで強大になった魔女は、その力でこの世界を切り裂き、自分の良いように組み替え、縫い合わせるのだ。目的は他の望者と変わらず、自分の望みを叶えることにしか興味がないのだが……それゆえ不用意に近づけば、その犠牲となった望者たち同様、丸呑みにされ取り込まれ、肉も骨も魂も魔法の道具にされてしまう。いいかね、魔女にだけは絶対に近づいてはいけないぞ」

 でも、今向かっているのはその『魔女』がいるっていう森の奥だ。

「これから訪ねる魔女は古株中の古株でな。普通の魔女と比べれば、遥かに話が通じるのだ。といっても、出会い頭に魔法でこちらを豚にしようとしたり、毒を盛った茶でもてなそうとしない、程度の話になるのだが」

 まるでおとぎ話に出てくる悪い魔女そのものだ。……その人たちも元は普通の人間だったのだろうか?

「古株である分、扱える魔法も幅広い。失せ人捜しのまじないとか、望者除けのお守りくらいは容易く作れるだろう。ただ……相手はやはり魔女だ。正面から頭を下げたところで、一体どれほど願いを聞いてもらえるか。いやだ、出ていけと言われればまだマシだ。『よかろう、ただしその見返りにお前の魂をお寄こし』などと言われた日には……尻尾を巻いてすたこら逃げるしかない」

 森の中を歩いていると、とろけていた頭が少しずつ固まっていくような感じがした。そういえば、ここにはあの嫌な霧が立ち込めていない。うろついてる望者も見当たらない。妙に静かで、冷たい空気が肺の中に入ってきて、なんだか嫌な感じだ。

「前門の虎から逃げるため、後門の狼に慈悲を乞うているようなものだ。虎ならぬ狼の威を借りれればこの先の旅路はうんと楽になるはずだ。もし失敗したとて、そのときは吾輩と共に猫らしく高跳びしよう。なあに、警戒こそすれ、恐れる必要はない」

 わたしを元気づけるためか、わざとらしいくらい明るい声で言う猫さん。しかし、猫さん自身が一番魔女を恐れているのはなんとなく察することができた。

「さあ、ここが魔女の館だ」

 しばらく歩いた末に足を止め、猫さんが指差したのは……。

「木じゃん」

「そうは見えるが、家なのだ」

 蔦が何重にも幹に巻きついた、森の中でひときわ大きな巨木だ。塔と言われたら信じてしまいそうな、途方もない大きさだけど、さすがにどう見ても家じゃない。中に入れそうなウロも見当たらないし。

「ほ、本当なのだぞ? ここにあの恐ろしい紡ぎ車の魔女がいるのだ! おおい、魔女よ! 吾輩だ、猫だ! のっぴきならぬ事情があるのだ! せめて話を聞いてくれるだけでいい、門を開けてはくれまいか!」

 そんなことを叫びながら木の幹を叩く猫さん、もちろん開くような門はないし、木の中から誰かが出てくる様子もない、なんか、一気にうさん臭くなってきた。

「ほんとにいるの、魔女って……」

「ああ、いるとも。だが、騒々しいのう。せっかく良い心地で眠れていたというのに」

 そんな声が聴こえてきたかと思うと――わたしはいつの間にか、ふかふかの布団の上で寝ていた。

「え?」

「魔女……!」

 わけがわからない――瞬きすらした覚えがないうちに、いつのまにか周囲の景色が寒くて暗い森から暖かい布団に変わっていた。

「な、なに、どういうこと……」

 ふわふわの布団を押しのけ、起き上がって周囲を見る。多分、そこはベッドだった。サッカーコートよりも広い天蓋付きベッドがあるのなら、そう呼んでいいと思う。あまりに広くて大きくて、どこまでいけばベッドの外に出られるかわからない。布団の海で漂流してるみたいだ。

「う、動けない……! 少女よ、近くにいるかね!? 手を貸してはもらえまいだろうか!?」

 少し離れたところから猫さんの声がする。どうやら布団の山に埋もれてしまっているらしい。助けに行こうと思った矢先、近くの布団がごそりと動いた。……いや、布団じゃない。このベッドの持ち主……ベッドにふさわしい大きさの女性が布団の中に寝そべっている!

「うわあああああっ!?」

「にゃおおおおおおおっ!?」

 わたしが悲鳴を上げるのと同時に、猫さんが巨大な手によって摘まみ上げられた。まるでお釈迦様の手のひらの上にいる孫悟空だ。猫さんを虫のように潰せそうな、巨大な、とても大きな手……その本体がいったいどのくらいの大きさなのか、想像するだけでめまいがする。

「おやまあ、少し見ないうちにまた小さくなって。愛い愛い、撫でてやろうねえ」

「吾輩が小さくなったのではない、きみが大きくなったのだ! ひい、やめろ、喉を撫でないでくれ! ごろごろにゃああ……!」

 自分の上半身ほどもある親指の爪先で喉を優しく撫でられ、猫さんは身もだえしながら気持ちよさそうな声を上げた。猫さんが怖がっていた理由がやっとわかった。こんな相手に殺されそうになったら、逃げる以外に術なんてない。

「ほほほ。それで、何用かえ? そこな小娘を現実うつつに帰してほしいと?」

 魔女が身をよじり、わたしの方を向いた。大きすぎて顔の全容すらはっきりわからないけど、吸い込まれそうなくらい大きな二つの瞳がわたしを見つめているのはわかった。思わず身がすくむ。

「その言い方、協力する気があると思っていいのかね?」

「さあて。そなたらの態度次第かのう。わらわは眠い。午睡を邪魔されてとても気分が悪いのじゃ」

 これ見よがしに魔女は欠伸をしてみせる。赤い唇の奥から白い歯やぐねぐねうごく舌が見えるたび不安にかられる。

「あんまりうるさいから招いてやったが、早う午睡の続きをしたい。わらわの力を借りたいというのなら、それなりの対価を用意したのであろうな?」

「対価……?」

「わからぬか、小娘? わらわは魔女じゃ、気前よくドレスをくれてやる妖精とは違う。足が欲しければ声を差し出せ。食物が欲しければそなたの子を差し出せ。魔女はただ働きなどせぬのじゃ」

 協力する代わりに何かをくれってこと? でも、いったいなにをあげればいいんだろう。あげられるようなものなんて持ってきてないし、声だの足だのを渡せって言われたら困る。

「その娘は、ただ現実に戻りたいわけじゃない。人を探しているのだ」

「失せ人かえ」

「きみの得意分野だろう? それこそ、居眠りをしながらでも容易く叶えられるはずだ。そこまで大層な対価は必要ないだろう」

「ふむ」

 魔女は摘まみ上げていた猫さんを放し、顎に手をやった。「ぎにゃ!」と悲鳴を上げて布団に落ちる猫さん。

「ああ、できるであろう。わらわがひとたび手を伸ばせば、この世界において届かぬ場所はない。しかし……そなたらの為にそうしてやる理由はないのう。なぜわらわがそなたらを助けなければならぬ?」

「それは……」

「対価を差し出すつもりがないのなら、疾く出て行くがよい。ああ、眠い眠い……」

 そう言って、魔女は横になって布団にもぐりこんでしまった。出て行くって……どこから、どうやって? 途方に暮れていると、魔女が寝言のようにむにゃむにゃした声で何か呟いた。

「……何日か前、森を抜けた先のほうから妙な物音がしたのう。重いものが倒れたり、なにやらばたばたと……新参の望者か、迷い込んだ人間かもしれぬ」

「えっ?」

「おぬしの失せ人がこちらに来たのもそのくらいの時分であろ? 気になるならば自分で見に行けば良い。関係があるかどうかは知らぬがの」

「ちょ、ちょっと待って――」

 もう一度聞こうとして、再び周囲の景色が変わったことに気づいた。巨大な天蓋ベッドから、森の中に戻っている。あの巨人の魔女は影も形もない。

「ふう、肝が冷えた……やはり恐ろしいな、紡ぎ車の魔女は。だが、虎穴に入っただけの成果は得られたな」

「ね、ねえ今のどういうこと!? あの大きな女の人は……? なんでプリンス先輩がいなくなった日のことまで知ってるの!?」

 へたり込んでいる猫さんを問いただす。「あれが魔女なのだよ」と答えにならない答えが返ってくる。

「紡ぎ車の魔女は見ての通り強力で、強大だ。あまりに大きくなりすぎて、トロイメライそのものを押し潰しかねないほどになってしまった。だから普段はああして結界の中に身を隠して眠っているのだ。力が強いからか、結界の中にいても世界中のことが手に取るようにわかるらしい。充分な対価さえ用意出来るのなら、彼女の力を借りるのがこの世界で一番安全な方法なのだ」

 全然わけがわからないけど……とんでもない存在と出会ったことだけはわかった。望者のほかにはあんなのもごろごろそこらへんにいるっていうんだろうか。さっきまで溶けかけていたのが嘘のように、思考が理性と恐怖で冷えて固まっていく。

「今日はとても運が良かったぞ。見返り無しにあんなことを教えてくれるなんて、よほど機嫌が良かったに違いない。さあ、森を抜けてくだんの場所へ向かおうではないか。きみにとっての青い鳥、吉報がそこにあると信じて!」

 猫さんの芝居がかった語りに我に返る。そうだ……今はとにかく、先輩たちを探さなきゃ。こんなところでビビってたって仕方ない。駄々をこねたぶん、自分で決めたことはちゃんとやり通さなきゃ。

「うん、ありがとう。……わたしのわがままにつきあってくれて」

「なあに、少年少女を導くのが吾輩の仕事だ。子供のわがままを可愛がれぬ大人でなくてどうする」

 猫耳少年は大人のような口調でそう言うと、わたしを先導するように歩きだした。わたしも後を追い、森の先へ向かった。

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