16 魔女の助言と猫の腕 ①
1
プリンス先輩の家に行こうと思った。
そんなこと、今更意味がないってわかってたけど――なにかしたい、したという結果が欲しくて、いてもたってもいられなかったから。
でも結局、行くことはできなかった。そもそもプリンス先輩の住所を知らないんだから。
家だけじゃない。二年の何組に所属していたのかもはっきり覚えてないし、部活以外のときはなにをしているのか、趣味とか好きな食べ物とか、進路のこととか、むしろなにを知っていたのかすらわからないようなありさまだ。
わたしはプリンス先輩のことをなんにも知らないんだ。
「調べられる範囲で調べてみるよ。青星幸邦、って人のことがわからなくても、『青星』って苗字は珍しいしからね。住所とかくらいだったらわかるかもしれない」
ウィザード先輩――小角先輩は、彼からすればきっと意味不明で辻褄が合わないことを言っているわたしを信じ、あまつさえ協力してくれるとさえ言ってくれた。
「正直、全部が本当かはわからないけど……困ってる灰庭ちゃんは見捨てられないからさ」
たとえなにも覚えていなくても、そう言ってくれるだけで嬉しかった。
そんな風にして、意味もなく宙をかき分けているみたいな、空白の日々が続いた。美学部がなくなったことを認めたくなくて、美学部がなくなってもなんにも変わっていないわたしの世界の日常を認めたくなくて悪あがきをして。
結局、できることなんてなんにもなかったんだけど。
2
「なにぶすくれた顔してんのよ。衣装までぶすくれたらどうしてくれんのよ」
「するわけないですよ……」
不思議なことに、美学部が消失しても、美学部がやったこと自体は消えていないようだった。今日もこうして烏丸先輩に呼び出され、ファッションショーのモデルの打ち合わせをさせられている。
「ていうかあんた、ちょっと痩せた? 前に測ったときよりもウエストが細くなってるけど」
「ちょっと最近、食欲がなくて」
「なに言ってんのよ。断食ダイエットは脂肪より筋肉が先になくなるから健康に悪いって知らないの? 痩せる気ならもっと食べて運動量を増やしなさい。どうせスタイルを変えるんだったら完璧に仕上げないと許さないわよ……!」
ダイエットのつもりはないんだけど。というかこのままだと本当にダイエットを始めさせられそうだ。先輩こそ見るからに不健康そうなガリガリ体型のくせに。
「そ、そうだ、先輩。そろそろわたしが着る衣装がどんなのか、イメージだけでも教えてほしいんですけど」
慌てて話題を変えると、先輩は「そうね」と頷きメジャーを置いてクロッキー帳を引っ張り出した。
「テーマについてはまだ言ってなかったわね。今回は『おとぎ話』モチーフで行くつもりだったの。あんたは可愛い系があんまり似合わなそうな見た目だから、プリンセスドレスは作らないけど……ちょっと、聞いてる?」
おとぎ話と聞いて、わたしは自然と数日前のあの世界について考えてしまっていた――トロイメライ。猫耳が生えた子供や元人間の怪物『望者』が棲む童話のような奇妙な世界。今思えば悪夢でも見たとしか考えられないめちゃくちゃな体験だったけれど……プリンス先輩が消えて、おかしな世界に行ってしまったのは、多分きっと本当なんだ。
先輩たちは今、どうしているんだろう。
「……烏丸先輩、トロイメライって知ってます?」
「いきなりなに言ってんのよ。シューマンがどうしたの? あたしはあの曲、あんまり好きじゃないけど」
なんとなく聞いてみたら、なんだか違うものの話だと勘違いされてしまった。そういうタイトルの曲があるんだろうか。
「そうじゃなくて……えっと、なんていうか……人がいなくなって、別の世界にいっちゃうっていうか……」
「なによそれ。漫画の話?」
こないだの体験を離そうと思ったが、烏丸先輩の反応からして信じてもらえないだろう。わたしは説明を諦め、「なんでもないです」と首を振った。
「なにを悩んでんのか知らないけど……」
烏丸先輩が呆れたふうに言った。
「悩みがあるんだったら、ひとりで悩むんじゃなくて誰かに相談すればいいじゃないの。もちろんあたしはそんなのごめんよ。スクールカウンセラーとか、この学園にもいたはずだけど」
「カウンセラー……」
「それで解決するわけじゃないでしょうけど、少しは楽になるんじゃないの」
もちろんカウンセラーの人にトロイメライの話をしても、ふざけてると思われるか、最悪そういう病院に通うことを勧められそうだけど……確かに誰かに話をすれば、ちょっとはもやもやが晴れるかもしれない。
小角先輩に相談してから行こうと思ったが、忙しいのか電話もメッセも反応がなかったので、烏丸先輩との打ち合わせ後、今日はそのままスクールカウンセラーのところに行ってみることにした。
保健室の隣の、多分教材室として作られただろう普通の教室の三分の一くらいの狭さの教室が生徒相談室、スクールカウンセラーの人がいる場所だった。入ったことはないが、校舎の構造上よく近くを通るので場所だけは知っていた。扉にかかったプレートは『どうぞお入りください』になっている。今日はカウンセラーがいるようだ。
「し、失礼します……」
軽くノックし、おそるおそる入る。狭い室内に、会議室にあるような長机と二脚の椅子があり、机の向こう側の椅子に誰か座っていた。白衣を着た女性だ。
「わ~、いらっしゃいませ~」
「茨城先生!? なんで!?」
相変わらず眠そうな顔の茨城先生が机に頬杖をつきながらにこにこ手を振っている。なんで司書教諭の先生がこんなところに……。
「カウンセラーの先生が急用でねー、すぐ戻ってくるから、って留守番を頼まれたのよー。灰庭さんもご用事? 泉先生、もうちょっとで戻るらしいから、ここで待ってたら?」
と、ポットでお茶を入れてくれる先生。とは言われても、ゆるふわな茨城先生の顔を見てしまって出鼻を完全にくじかれてしまった感じだ。別に待ってまで話を聞いてほしいわけじゃないし、どうしようかな……。
「ここねぇ、狭いけど色々あるのよ? 音楽療法のためかしら、ラジカセとか置いてあるの。……あれ、最近の子ってラジカセわかんないか。ラジオ機能があるCDプレーヤーって言えばわかる?」
古くさい型のCDプレーヤーをがちゃがちゃいじくる茨城先生。しばらくすると、プレーヤーからクラシックらしいピアノ曲が流れだした。
――聞き覚えがある曲だ。
「ああ、『トロイメライ』! 懐かしい、先生が小学生の頃、ピアノのお稽古でよく弾いたわ~」
「トロイ、メライ?」
「あれ? 灰庭さん知らない? ええとほら、お店が閉店するときとか、学校の終わりのチャイムとかでよく流れるでしょ? この学校も最終下校のチャイムはこれになってるって聞いてるけど……」
茨城先生の声がやけに遠くに聴こえた。ピアノの旋律の中にわたしの身体が溶けていくのを感じる。ちょうど逆回しにされたような感覚だった。あの世界、『トロイメライ』から戻ってきたときの――――
「あれ――灰庭さん――……?」
先生に返事をする前に、わたしの意識は、呑まれた。
3
水になったみたいだった。
頭も手足もごたまぜに、ぐちゃぐちゃのどろどろになった身体で、大きな流れの中を浮き沈みしながら漂っているような――世界と自分が溶けあって、わたし自身がかき消えてしまいそうな、それでいて包まれ、満たされているような。とても恐ろしいことのはずなのに、なぜか穏やかな気持ちで溶けて消えていく自分を眺めている。
ずっとこうしていられたら、それはどんなに幸せなことなんだろう。
「『少女はすっかり安心し、思考を投げやり潮流に身を任せようとしていた。ああ、だがしかし! それこそ破滅への道に違いなかった!』……起きたまえ、少女よ! きみはここにいるべき人間ではない!」
誰かに呼び止められ――流れから無理矢理引き上げられた。液体になりかけていた身体は、どろりと固体に戻っていく。
「なにを――しているのかね!? きみは、ここで!」
「………………」
猫さん、だ。びしょ濡れで、いやに慌てたようにわたしを見ている。頭がまだ水になっているのか、どうして猫さんがそんな顔をしているのかよくわからない。
「ああ、きっと吾輩の言い方も悪かったのだろうな。大切な人を忘れて暮らせなど、うら若き少女には酷な勧めだった。ああ、だがしかし――なにも願うことはないだろう! きみ自身がどうなってもいいほどに、その人のことが恋しかったのかね……!?」
「願う?」
「ああ、時間がない! 鐘が鳴るまでまだしばらくかかるというのに! 白ウサギにでもなってしまった気分だ! 頼むからきみ、気をしっかり持ちたまえよ! きみはもはや、いつ望者になるかもわからない状態なのだ……!」
望者になる? 頭にかかった靄が急に晴れていく。そして、猫さんにつかまれている腕が半透明になっていることに気が付いた。腕だけじゃない。足や、脇腹や、髪の先も――
わたしは悲鳴を上げ、その場にひっくり返った。
4
「きみはきっと、その『白い絵本』に願いをかけてしまったのだな。この世界にいるであろう、きみの大切な人たちにまた会いたい、と。トロイメライは『望む者』を望んでいる。だから再びトロイメライの扉が開いたとき、引きずり込まれてしまったのだ」
ここ数日間に起きたこと――白い絵本や生徒相談室で聞いた曲のことを話すと、猫さんは深刻そうな顔で言った。
「きみの推察は正しい。おそらくその絵本は、トロイメライへの『鍵』になっているのだ。叶わぬ願いに悲嘆する者の前に現れ、一時的にトロイメライでの力を分け与えることで願いを叶えさせる。しかし、願いが一つ二つ叶ったとて、現実がそう簡単に変わるわけはない。ほとんどの者がそれに気づいて絶望し、トロイメライに逃げ込むはめになるのだが……」
「――きみの場合は少々特殊だ。トロイメライに来ること自体が目的になってしまっている。吾輩の言い方が悪かったのだ。きみを傷つけ、意固地にさせてしまったのだな。もはやきみの心を逆撫でるだけかもしれないが、謝らせてほしい」
「すまない」
「だが、諦めるのはまだ早い。おそらくきみの願いは完全には叶えられていないはずだ。きみの大切な人たちと再び会うという願い――それが完全に叶ってしまったとき、きみは今度こそほんとうに望者になってしまうだろう」
「その前に、トロイメライから脱出するのだ」
「……きみのような例は初めてだ。ここを乗り切ったとて、再びトロイメライに導かれてしまうかもしれない。ともかく、一旦ここから出ることが先決だ。望者になってしまう前に――」
「ちょ、ちょっと待って!」
口を挟む暇もないくらいの勢いでまくし立てる猫さんを慌てて止めた。このままじゃまたわけのわからないうちに現実世界に戻されてしまう。
「そんなにいっぺんに言われてもわかんないよ! もうちょっと、わかるように言って!」
「あ、ああ、すまない! 勝手にべらべら喋ってしまうのは悪い癖であるな……」
そこでようやく猫さんが口を閉ざした。とりあえず、わたしは周囲を見る。相変わらず霧が立ち込めていてよく見えないけど、せせらぎが近くで聴こえてくることから、川辺らしいことがわかった。猫さんも、砂利の上に座っているわたしの身体もびしょびしょに濡れている。ついさっきまで水の中にいたみたいに。
「その川に流れてきたのだよ」
湿った顔を、それ以上にびしょ濡れのハンカチで拭いながら猫さんが言った。
「トロイメライの景観は見るものによって千変万化する。きみにとっての異界のイメエジは水辺なのだろうな。川で溺れた経験が?」
……ない、と思う。少なくともそんな体験したら忘れるはずないし。
「えっと……わたしは望者ってやつになりかけてて、このままじゃ本当になるって?」
「ああ。だが、心配はないぞ。すぐに現実に戻れば……」
「いやだ」
何回もこんな恐ろしい目に遭って、自分でも何を言ってしまっているのかわからない。だけど――もう既に、それ以上の後悔を味わったから。
「このまま帰るわけにはいかない。忘れるなんてできない。ちゃんと先輩たちともう一回会って、話がしたい」
わたしのせいかもしれない。あるいは、ちゃんと先輩たちと話をしていたら、こんなことにはならなかったかも。なのに、なにもなかったみたいに、先輩たちがいない空白から目を逸らし続けるなんて、できない。
「会えなかったら、きっとまたここに来る。なんでこんなことになったのか、納得するまで諦められないよ……!」
「……望者になりはてた者の姿は、ときにあまりに惨く、滑稽だ」
そんなわたしに、猫さんが怖い顔で言った。
「その姿を見れば、きみは幻滅し、あるいはショックを受けて打ちのめされるだろう。尊敬し、愛する人たちの変わり果てた姿を見て、どうして正気を保てよう」
「今だって正気をなくしそうだよ!」
いらだちのあまりに叫んでしまった。
「望者とか、トロイメライとか、わけわかんないよ! 先輩たちに会いたいだけなのに、なんで無理矢理諦めなきゃいけないの! もううんざりだっ! 先輩たちに会えるまでここを出るもんか――!」
子供みたいに駄々をこねた――自分でもみっともなくて笑ってしまいそうになる。高校生になったのに、わたしは全然大人になれない。
ずっと、子供のままだ。
「わ、わかった、わかった! よくわかったから、頼むから、もう泣くのはよしてくれ……!」
気がついたら猫さんに頭や背中を撫でられ、なだめすかされていた。猫さんのほうがずっと年下に見えるのに、精神的には遥かに大人のようだった。
「吾輩は子供の涙にはめっぽう弱いのだ。そんなふうに泣かれてしまったら、折れるしかないじゃあないか……!」
「会うの……手伝ってくれるの?」
「………………」
猫さんはびしょびしょのハンカチでわたしの顔を拭いた。多分、涙を拭ってくれようとしてくれたんだろうけど、もっと顔がびしょ濡れになった。
「……どの道、鐘が鳴るまで時間があるのだ。出来る限り危険を避けつつ、やれることはやってみよう」
弱り果てたようにへたれた猫耳をぴくぴく動かしながら、溜め息まじりに言う。
「魔女の力を借りてみよう」
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