15 不思議の国にて逃げるもの ②
4
第一美術室の近辺は、最初にここに来た時と同様に閑散としていた。周囲を通りかかる人影もなければ、教室の中から騒がしい声が聞こえることもない。それがあの日との決定的な違いだった。
「あら? そんなところでなにしてるの?」
教室の前でぼうっと突っ立ってると、上級生らしい女子生徒が声をかけてきた。知らない人だ、少なくとも美学部を訪れたことはない――しかし特徴的なロングヘアにはどこか見覚えがあった。そういえば、四月の部活オリエンテーションで見たことがあるような気がする。
「びっくりした、てっきり『亡霊』でもいるのかと思ったわ。あ、もしかして肝試し?」
「亡霊?」
そういえば七不思議にそんなのがあったっけ。今となってはそんな話。笑い話にもならないけど。
「残念だけど、亡霊なんていないわよ。私、しょっちゅうここに来てるけど、今まで全然見たことないもの」
「はぁ……」
来たことあるって、まさか美学部のことで? わたしのほのかな期待はすぐに打ち砕かれた。
「美術部だからね。こっちの教室はあんまり使ってないけど、たまにイーゼルとか石膏像とかを置いたり出したりしてるの。……ひょっとして美術部に入部希望の人?」
「あ、いえ……」
「私は部長の
すっかりわたしを入部希望者だと決めつけた上永先輩は、わたしの返事も聞かずにすたすたと第一美術室へと向かう。そして戸を開け、すっとんきょうな声を上げた。
「なあにこれ。誰がこんなに荒らしたの!?」
「………………」
第一美術室――もとい美学部部室は昨日からまったくそのまま、散らかった状態で放置されていた。
プリンス先輩が『消えた』結果、連鎖的に美学部に関する記憶も消えてしまったらしい。わたし以外の人は全員――一緒に部活していたウィザード先輩すらも、誰も美学部のことを覚えていなかった。第一美術室は階段のいわくがあるただの空き教室になり、ウィザード先輩は物知りで優しい小角先輩として、わたしを『灰庭ちゃん』と呼ぶようになった。
魔法が解けたみたいに、わたしは『シンデレラ』ではなくなり。なのに部室だけは、そこに確かに『あの人たちがいた』という事実を残し続けていた。
「もう、ひどすぎるわね……誰がこんなにしたのかしら? 使うにしたってちゃんと片付けてくれないと……」
「……わたし、片付けます」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
「え? やってくれるの? でも一人じゃ大変でしょう……手伝ってあげたいけど、私は用事があるし……ちょっと待ってて、誰か呼んでくるから」
「大丈夫です。今日は暇だし、それに」
散らかす人も、掃除を褒めてくれる人もいなくなってしまった部室を見ながら言った。
「慣れてますから、掃除」
5
虫かごの中でカブトムシが死んでいた。
スワン先輩が飼っていたやつだ。無愛想でぶっきらぼうなスワン先輩が、子どもみたいに目を輝かせて世話をしていたっけ。もう何日放っておかれていたんだろう。……違う、わたしが忘れていただけだ。
キング先輩が脱ぎ散らかした服はいったいどこに持っていけばいいんだろう。ビースト先輩が愛用していたソファも、もう誰も座らない。放課後みんなで集まって、ウィザード先輩が出してくれるお茶やお菓子を楽しむこともない。
美学部なんて部活は、もうないから。
「……なんで」
なんでこんなことになってしまったんだろう。なにがいけなかったんだろう? ついこの間まではいつも通りだったのに。ずっとこんな日が続くんだとすら思ってた。みんな楽しそうで、笑っていて――トロイメライに行かなきゃいけない理由なんてないはずだったのに。
――ああ、じゃあ、わたしのせいなのか。
わたしがひどいことを言ったから、プリンス先輩を傷つけてしまったから? じゃあ、他の先輩もそうなんじゃないか。知らず知らずのうちに変なことを言ってしまって、それで傷ついていたんじゃないか?
だって、わたしが来る前はこんなこと起こってなかったんだから。
片付けの手が止まっていた。これ以上先輩たちの物を片付けたら、本当の本当に先輩たちがいなくなってしまう気がした。
痕跡があろうとなかろうと、もう先輩たちはいないのに。
「う――ううっ……」
こんなの、嫌だ――こんなに簡単に消えてしまって、誰にも思い出されなくなって――きっとわたし自身も忘れてしまう。それが、怖い。わたしまで忘れてしまったら、先輩たちは。
やり直したい。……先輩たちに、会いたい。
「いいよ。その夢、一緒に見ましょう」
空耳に振り向く。しかし当然、わたしのほかに人なんていない。空しい気持ちで作業に戻ろうとして、テーブルの上にさっきまでなかったはずの本が置いてあることに気がついた。タイトルも絵もなく、一面真っ白な装丁の本。見覚えがある。
白い絵本。
テーブルに近づくと、絵本は風にあおられたみたいに勝手に開き、ぺらぺらとページがめくられていく――窓も扉も閉まっていて、風なんか吹いていないのに。そもそもハードカバーの表紙が風にめくりあげられるはずがない。そんな疑問は、やがて開かれたページの前ではうやむやになってしまった。ずっと真っ白だったページの中に、突然絵が現れる。
子どもが描いたみたいな、つたないクレヨン画だ。肌が半分だけ肌色、もう半分は灰色に塗られた男の子の絵。眼は青いクレヨンで塗られている。
――心臓が急に早鐘を打ち始める。わたしは考えるより先に絵の隣に書かれた文を読んだ。
『みえっぱりの王子様のからだから金ぱくがどんどんはがれていきました。かれは、王子様などではなかったのです』
『うつくしかった王子様はみるみるうちになまりの像にかわっていきました』
なに、これ。絵本のように頭が真っ白になっていく。呆然としているうちに、再びページがめくれて次々絵が現れる。
『だれもかれもが、かれのうつくしさをほめたたえます。しかし、だれもかれの心の中を知ろうとはしません。たくさんの人にかこまれながら、心はずっとひとりぼっち。男の子はついにいやになってしまいました。こんなことになるのなら、うつくしいかおなんていらない。いっそだれよりもみにくいけだものになってしまいたい』
『うつくしい白鳥たちにかこまれ、あひるの子はつらくてたまりませんでした。よその鳥から見たら、自分はどれほどこっけいに見えるだろう。みのほど知らずのおおばかものだとわらわれているにちがいない。なんで自分はこんなにみにくいのだろう。ああ、あの白鳥たちのようにうつくしくなりたい』
どこかで見たことあるような――いや、きっとそのままだ。学園七不思議、白い絵本の噂が唐突に脳裏に蘇る。願いを叶えるかわりにその人を消してしまう――消えた人はきっと、トロイメライに行ったんじゃないか?
先輩たちもきっと、こうして絵本に願いを書き込んでトロイメライに行ったのだろうか。そうに違いない、という確信がなぜかあった。
――じゃあ、わたしもこれに願いを書けば、先輩たちに会える?
いつの間にか白い絵本は空白のページを開いていた。会えるんだ、会いたい、会わないと――見覚えのないクレヨンを握っていたことすら無自覚に、わたしは空白のページに触れ――――
6
「なにやってるの、灰庭ちゃん!」
肩を叩かれて我に返る。あれ、今わたし、いったいなにを――振り向くとウィザード先輩の顔が目に入る。なんだか驚き、慌てているように見えた。
「先輩?」
「灰庭ちゃん。落ち着いて、こっちに来るんだ」
ウィザード先輩はやけに思いつめた表情で言う。どうしたんだろう、なにかあったのかな。首を傾げようとして身体がふらつく。前を向くと空中が見えた。……下を向くと、十数メートルは離れた地面が見えた。
「……きゃああああああああああっ!」
「灰庭ちゃん!」
頭が真っ白になり、腰を抜かしたわたしをウィザード先輩が引っ張り、部屋側に引き戻す。窓枠に足をかけていたわたしはそのまま床に倒れ込んだ。
「あだっ!」
「ああっ、ごめん! 大丈夫? しっかりして!」
なにがなんだかわからなかった。わたし、なにを……? 窓に足をかけて、窓の外を覗き込んで、これじゃまるで……
「深呼吸しよっか。オレの指、何本かわかる?」
ウィザード先輩がわたしを抱え起こし、顔を覗き込んでくる。指の数は二本。大丈夫、今のわたしは多分正常だ。
「良かった、頭は打ってないよね。……いったいどうしたの? あんなことして……オレで良かったら、話聞くよ?」
「う……」
「なにか、悩みでもあったのかな。もしかして昨日のこと? プリンスって人がどうとか……」
どうして――どうして、なにも変わっていないのに。前と同じに、こんなにも優しいウィザード先輩なのに――みんなのことを忘れてしまっているんだろう?
「わたしはただ――トロイメライに行きたくて」
「――トロイメライ?」
「プリンス先輩に、みんなに会いたくて――謝ったり、話を聞いたりしたいんです。だって、こんなことになるなんて思ってなかったから……だって、こんなの、こんなのって……!」
そうか、と心の端、冷静なままの場所で呟いた。これじゃまるで、わたしが追い詰めたせいであの人たちっが消えてしまったみたいで――わたしのせいでみんなが先輩たちを忘れてしまったみたいで、だから、この罪悪感が居心地の悪さの正体なんだ。自分が嫌になればなるほど、目からみっともない水がこぼれ出す。
「うぁ、うわぁああああっ……」
「灰庭ちゃん」
ぎゅう、とウィザード先輩の腕の力が増した。なのに先輩の身体は、わたしのが移ったみたいに震えている。
「ごめんね、灰庭ちゃんの言ってることはよくわからないけど……きみが嘘とかふざけてそういうことを言う子じゃないってのは知ってる。きみの悩みは、きみにとっては間違いなく、本当のことなんだね」
開きっぱなしの窓からピアノの音が聴こえてくる。聞き覚えのある曲だけど、曲名がわからない。……あのとき、トロイメライで聴いた曲だった。
「どうすれば解決するのかはまだわからないけど――きみにひとりで悩んでほしくない。助けてあげたいんだ。きみは、オレの大切な後輩だから」
ウィザード先輩の腕が温かかった。美学部のことを忘れても、わたしの先輩でいてくれるんだ。そう思うと、また目から涙が溢れ出した。
「うん、大丈夫だよ。落ち着くまで、ずっとこうしててあげる」
みっともなく嗚咽を漏らすわたしの背中を、ウィザード先輩はいつまでもさすってくれた。
◆
「綺麗な音……」
いつも通りの放課後。図書委員八木ななこは図書室の窓にもたれ、どこからか聴こえてくるピアノの音に聞き惚れていた。
「おい、委員さんよ」
「はぁ……ほんとに素敵……」
「おい!」
「ひゃあ!?」
いきなり怒鳴られひっくり返りそうになる。話しかけてきたのは不良風の少年だった。確か同学年だったろうか、見覚えはあるがもちろん話したことなどない。
「あ……えと……」
「仕事してくれよ、本探してんだ」
舌打ちをしながらななこを睨む不良。あまりに横柄な態度だったが、人生で初めて不良と会話をするななこにとっては恐ろしくてたまらない。半泣きになりながら頷く。
「な、なにをお探しですか……?」
「白い絵本ってねえか?」
「へ……?」
思わずあっけにとられる。白い絵本って、あの七不思議の? 少し前にかがりと一緒に怪談探しをした記憶が蘇る。もちろん図書室にはそんなものなかったし、そもそもなんでそんなものを探しているのだろう? 七不思議を探しているようには見えないが……。
「ご、ごめんなさい……ちょっと、心当たりは……」
「あぁん? 本当かよ、ちゃんと探してから言ってんのか?」
「ひっ……!」
怖い顔で詰め寄られ、恐ろしさのあまり目をつぶる。こんな日に限ってほかの図書委員はおらず、司書の茨城先生は席を外している。早くこの災難が去ってくれることを祈るしかなかった。
「ほ、本当にないんです……!」
「おいてめえ、こっちは真剣に……あん?」
と、不良の声音が変わる。なにかに驚いたようだったが、ななこには目を開けて確かめる勇気はなかった。
「……なんだよ、こんなとこにあんじゃねえか。ったく、ちゃんと探せっての」
「え……」
「おい、ちょっとこれ借りてくぜ。終わったら返すからよ……」
どういうことだろう。まさか別の本を勘違いして持って行こうとしているとか? だとしたら大変だ――おそるおそる目を開ける。しかし、声の主の姿を見つけることはできなかった。
目を開けたときには、不良は綺麗さっぱり姿を消していた。
「あ、あれ……?」
きょろきょろあたりを見回したが、本棚の陰とかに隠れているとか、図書室から出て行ったような様子はない。手品のごとく、ぱっと一瞬で消失した、という感じだった。まるで白昼夢でも見ていたようだ――いや、夢だったのだろう。ピアノの音に聞き惚れ、うたた寝でもしてしまったのだろう。少しぼんやりとした頭で、ななこはそう考えることにした。
ピアノの音は、いつのまにか止んでいた。
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