15 不思議の国にて逃げるもの ①

 1



「『少女は当惑した。何せ奇妙な異界にわけのわからぬ異形、自らの常識ではとても測れぬような不可思議に襲われ続けた上、さらにその窮地を救ったのも奇怪な姿をした怪人であったからだ――』」

 帽子のつばを突き破って生えている猫のような耳をぴくぴくと動かし、その少年はわたしの内心を見透かしたように語る。うん、どう見ても猫耳だ、わたしの見間違いじゃなければ――それにお尻から生えてるらしいしっぽに、肉球と爪がついた手。

「『はたしてあの耳や尾は本物であるのか、少女は興味津々で見つめた』――うむ、気になるというのなら多少触ることも許そう。だが、これらが吾輩の本物の耳や尾であること、人の身体に触れるときの気遣いをゆめゆめ忘れることなかれ!」

 どう見てもまだ中学生にもなっていない子供が、小難しい言葉を水を流すみたいにぺらぺら喋る。おそるおそる尻尾の先っちょをちょん、とつついてみると、それはぴくんと震え、そそくさと少年の後ろに隠れた。確かに感じた体温と、本物の猫みたいに柔らかいふさふさの毛。

「ふふ、内気に見えて意外に大胆なのだね、少女よ――それとも心細い境遇に置かれ、人肌が恋しくなったかな? 胸を貸してやりたいところだが、抜け毛が君の服についてしまわないか心配だな――」

「そ、そうだっ!」

 肌、という言葉でやっとここまで来た目的を思い出す。肌――人肌。鉛色の肌。……プリンス先輩。

「えっと、きみ――あなた? 髪が金色で、わたしと似た服を着た男の子見なかった? 背は確かこのくらいで……」

「落ち着きたまえよ、きみ。こんな場所で人が探せると思うのかね?」

 と、猫少年は急に突き放すように言った。

「ここは隠れ場所には最適だが、探すのはあまりに困難だ。何せ、ここで見失うのは失せ物失せ人だけではない。確かにあった自分自身すら、ここではふとした隙に雲隠れしてしまうのだ――」

 あの不気味な人影に掴まれてからぼやけたままの左腕を指し、猫少年は静かに続ける。

「自分まで失くしたくなかったら、まずは吾輩の助言を聞きたまえ」



 2



「ところで、少女、少女と呼ぶのはいささか不便だし、失礼だったな。差し支えなければ、きみの名を伺っても良いだろうか? ああ、こういうシチュエイションの場合、まずこちらの名を明かすのが道義なのだろうが、生憎吾輩は名乗るべき名を持たぬ身なのだ。吾輩のことはどうか、通称として『ミスター・キャット』、もしくは親しみを込めて『猫さん』とでも呼んではくれまいか」

 同じ意味じゃん。和訳しただけじゃん。

「……灰庭、灰庭かがりです。えっと……猫さん」

「うむ、何かね? 灰かぶりの少女よ」

 灰庭かがりだっつーの。どうやら猫少年こと『猫さん』、見た目通りに子どもなわけではないらしい。猫耳が生えていて珍妙な言葉使いをする子どもなんて、プリンス先輩以上に現実味がなくてげんなりしそうなキャラだけど――この世界にいる限りだとむしろ自然なくらいに見えてしまう。

 一面霧で覆われ、そこかしこにぼやけた人影が闊歩する世界。

「ここはどこ――なんですか?」

「その問いにはおそらく、きみが納得できる答えは用意できないな」

 知らず知らずのうちに敬語を使っていたわたしに対し、猫さんは相変わらずふんぞり返ったみたいな口調で返す。腕がぼやけたり、プリンス先輩があんな風になってしまったり――確かにこの状況はわたしの知る限りの『常識』では説明がつかない。「きみは授業中に居眠りをして悪夢を見ているのだよ」なんて言われた方がきっと納得してしまう。

 夢だったら早く覚めて、プリンス先輩のいつもみたいに能天気な笑顔を見に行きたいのに。

望者もうじゃの群れも、きみの左腕に起きている現象も、きみの暮らす世界にはありえぬものだろう。だから、シンプルに答えるならこうだ。『ここは現実世界にあらず、超常現象と魑魅魍魎が跋扈する異界なり』と」

 異界――異世界? それはわかるけど、でも全然答えになってない。

「リリカルに補足するならば、偉大なるルイス・キャロル先生によるところの不思議の国ワンダーランドか。日常と地続きの異界――きみはいわば、白うさぎを追って穴を転げ落ちたわけだ」

「アリスはおとぎ話だし、あれは夢の中の世界でしょ?」

「左様、ここはフェアリィ・テイル、幼子の夢想する驚天動地にして荒唐無稽な幻想空間なのだ。トランプたちがめいめい剣や槍を携え、けだものが二足で靴を履き、茶会を開く――ここはそういう場所なのだよ! ……吾輩はここを『トロイメライ』と呼んでいる」

 トロイメライ――――

「この世界において覚えておくべきことはただ二つ。ここでは現実世界における常識は必ずしも適用されないこと。そして、望者には近寄るべからず、だ」

「亡者?」

「望む者、と書いてモウジャだ。きみが『ぼやけた人影』と呼称する異形たちのことだよ」

 ふと周りを見ると、猫さんの爪で切り裂かれたはずの人影――望者たちがふよふよと切られた箇所を再生し、立ち上がり始めている。先程のようにまた囲まれるんじゃないかとぞっとして猫さんにしがみついたが、望者たちは様子でも窺っているかのようになかなか近づいてこない。

「吾輩がいる限りは襲ってこないさ。彼らは不死身だが、痛がり屋なのだ。それでも恐ろしいというなら、彼らのいない場所に移ろうか」

 そう言って返事も聞かずにすたすた歩きだす猫さんに慌ててついていく。望者たちは確かに遠巻きのまま、さっきみたいに襲ってこようとはしなかった。

「望者たちはああ見えて優しく、寂しがりなのだ。きみのように迷い込んでしまった哀れな稀人を見つけると、ああ可哀想に、助けてあげよう、友達になろうと手を差し伸べる。しかしてその手に触れてしまったら――あとは言わずもがなだ」

 霧の中を悠々と闊歩しながら語る猫さん。あれ以降ずっとぼやけたまま、感覚すらもない左腕を見て再びぞっとする。

「わたしもあんな風になるっていうの……?」

「間一髪、だ。その程度ならば、現実に帰れば元に戻るだろう。まかり間違えてこの世界に長居したり、再び望者に触れようものなら保証はできないがね?」

「長居したら、どうなるの」

 猫さんの話ぶりに、何か胸がざわざわする。聞いておかなければ、と思うと同時に、聞きたくないという迷いがどこかから生じてくる。

「――ここからが肝要だ。よくよく聞きたまえよ?」

 猫さんが足を止めた。いつのまにかわたしたちは公園のような場所に辿り着いていた。霧の中にぼんやりと、噴水やベンチのような影が浮かぶ。当然、校内にこんな場所はない。

「『よもつへぐい』という言葉を知っているかね? 死者や、運悪く迷い込んでしまった生者が、うっかり冥界の食べ物を口にしたせいで地上に戻れなくなってしまった――そんな伝説を耳にしたことは? トロイメライを冥界に例えるなら、さしづめ大気がそれにあたる。この世界の空気を吸えば吸うほど、肉体が世界に馴染んでいく。そうしてすっかり馴染んでしまった者の末路、それが望者なのだよ」

 大気って――まさか、この霧が!?

「おっと! 怖がらせてしまったな、そこまで慌てて息を止める必要はない。言ったろう、長居さえしなければいいのだ。じきに鐘が鳴る。鐘の音の聴こえるここが、彼岸と此岸の境目だ。ここにいれば、きみはつつがなく元の世界に帰れるだろう」

 ほっとする半分、次の疑問が頭をもたげる。長居したらあの化け物になるって――じゃあ、周りにいる望者たちは。全然姿を見かけないプリンス先輩は?

「望者は皆、元はきみと同じ人間だ。トロイメライで過ごす者は望者になる。しかしそれは、決して悪いことばかりではないのだよ」

「だって、みんな溶けて、化け物で――」

 猫さんは悲しそうな顔で目を伏せた。公園の外にはやはり何匹――何人か望者がうろついている。

「皆、望んでここにいるのだ。現実に倦み、疲れてしまった者の前にトロイメライは顕れる。ここは優しい、望めばなんでもできる。もう周囲に気を使う必要はないし、果てのない努力をする必要もない。あらゆる願いが叶い、誰もが幸せになれる」

「そんな――」

「きっと、きみが追ってきた人もそうだ。現実を生きるのが厭になってしまったのだよ。迷い込んだだけのきみはまだしも、その人は決して戻ることを望むまい。そっとしておいてやりたまえ、その人のことを想うのならば――」

「ふざけんなっ!」

 気がつけば大声を出してしまっていた。じゃあ、プリンス先輩はあいつらみたいな化け物になって、しかも自分からそれを望んでいるっていうの? 現実が厭になったって……自分からこんなわけのわからない場所に来たって? そんなの、そんなはず……

「わからない、か。だから彼の人はここへ来てしまったのだろうよ。ならばあえて訊こうじゃあないか? そんなにその人のことを想っていて、どうしてその何某氏の抱えている悩みに気がつかなかったのかね?」

 わたしが怒鳴ったのに合わせたように、猫さんは冷ややかな声で言った。

「その彼、あるいは彼女がきみに少しでも悩みを打ち明けられていたのならば、あるいはきみがその人にとっての心の支えになっていたのならば――その人も、もちろんきみも、こんな場所には辿り着かずに済んだだろうさ。きみはどうやらその人の意思が信じられないようだが、それはつまり、その人の内心のことを慮ったことがないということではないかね?」

「え――」

「きみももう大きいのだ、人は誰しも悩みを持つということくらい知っているだろう? 明るく振舞っていたとて、心裡を見せずにいただけ、本当は誰より重く深く思い悩んでいたのかもしれないじゃないか。そしてついに耐え兼ね、限界が来てしまったのだろう。きみには望者が怪物に見えるのだったね? きみの探し人もそうなってしまうくらい追い詰められていたのだよ――いよいよ形振りなど構っていられないくらいに、見るも無残なほど哀れに!」

 ……なに、それ。

「皆そうなのだ、トロイメライを訪れた者は。現実に見捨てられ、空想に身を委ねるしか救いがなくなってしまったのだ。それがどれだけ寂しいことかわかるのかね? 肉親も隣人も、誰ひとり自分に手を差し伸べてはくれないと諦めることが……」

 追い詰められていた――プリンス先輩が? だって、彼は今までそんなそぶり全然見せたことなんてなかったし、ウィザード先輩やわたしが落ち込んだときは励ましてくれてたし――――だって、だって、知らなかった。考えたこともなかった。

 知らない、わからないよ、そんなの。プリンス先輩はいつだって明るくて、能天気で、悩みとか弱音なんて言わなくて――だからわたしも、聞こうと思ったことなんてない。

 プリンス先輩の気持ちなんて、全然考えたことなかったんだ。



 3



「……いや、すまない。意地の悪いことを言ってしまったな」

 わたしが茫然と立ち尽くしていると、しばらくして猫さんがばつが悪そうな顔で言った。

「トロイメライを選んだのも、きみになにも打ち明けなかったのも、その人自身の意志であり責任だ。きみが罪悪を感じるいわれはない。きみがここまで追ってきてくれるほど優しい人ならば、なにもまったく相談のチャンスがなかったわけではあるまい。運とか、間とか、巡り合わせが悪かったのさ」

「……………………」

「吾輩からアドバイスするとすれば、その人の意志を尊重してあげてほしい。そして、きみまでトロイメライに囚われてしまう前に、早く帰るんだ。残念ながら、きみの失せ人は戻ってこないが……悪い夢のように、いずれ忘れることができるだろう」

「……忘れろ、って」

「忘れるさ。トロイメライに消えた人との思い出は自然と薄れていく。肉体の傷が新しい細胞で塞がるのと同じように、心の傷も新しい思い出で埋められていくのさ」

 だから――みんな忘れてしまっているのか。望者になった人たちのことはみんな忘れてしまうのか。……じゃあ、プリンス先輩のことも?

「だから、そんなに悲しがる必要はないのだよ。生きている人のことだってそうだろう?」

 気まずそうに帽子をいじりながら、猫さんが慰めるように言う。

「どんなに仲が良かった友だちでも、ふと連絡が取れなくなれば途端に縁が遠くなる。きみは新しい友人を作るし、かつての友だちは思い出の一部として少しずつ忘れていく――そうら、やっと来たぞ!」

 どこかから流れてきたオルゴール調の音楽に猫さんが快哉を上げた。聞き覚えのあるクラシックだけど、タイトルがわからない。

「きみは悪い夢を見ていたのだ。この音色がきみを目覚めさせる。今日のことは早く忘れて、素敵な現実を過ごしたまえ――――」

「えっ――ちょ、ちょっと待って!」

 まだ聞きたいことがある、そもそもわたしは忘れたくなんて――とっさに掴もうとした猫さんの腕は、触れる前にぼやけて霧に溶けていく。公園も噴水も、座っていたベンチさえ、液体のように霧の中に溶けていき――霧は世界と溶け合って、ぐるぐる撹拌されて拡散していく。

 ――オルゴールが、止まる。

「……ちゃん、灰庭ちゃん!」

 気がつけばわたしは、見慣れた学校の廊下にへたり込んでいた。

 後ろからウィザード先輩が駆けてくる。窓の外の景色はトロイメライに行く前とほとんど変わらず、数分も経っていないように見えた。……あれだけのことが、たった数分前? それとも、白昼夢でも見ていたっていうんだろうか。頭の中がそれこそ霧でもかかっているみたいにもやもやする。

「いきなり走りだすからどうしたのかと思ったよ。大丈夫? なにかあったの?」

「え、えっと……」

 なにかと言われれば色んな事が起きすぎ、いったいなにから話せばいいかわからなかった。そもそも信じてもらえるだろうか? トロイメライがどうとか、望者がなんとか……左腕はなにごともなかったかのように元通りになっていて――いや、そんなことよりも。

「せ、先輩! プリンス先輩が……! 先輩が大変なんです!」

「え……?」

 わたしの言葉にウィザード先輩は虚を突かれたように沈黙した。少しして、困惑したような顔で私に言う。

「ごめん、灰庭ちゃん。その『プリンス』って、誰のことかな。ちょっと心当たりがないんだけど……」

 少し離れたスピーカーから、下校のチャイムが鳴り始めた。

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