14 ついにぼくらは転がり落ちる ②
3
「シンちゃん、座って。ちょっと休んで、水分摂ろうよ」
いつの間にかお茶の準備をしていたウィザード先輩が手招きしてきた。少し迷ったけど、言われるままに座る。
「今日はオレンジピールを入れてみたんだ。夏が近いし、爽やかになるかなって」
「美味しそうですね……」
「お茶請けも奮発したんだよ。ほら、プーちゃんも食べて」
話しかけられたプリンス先輩は――しかし返事をせずにうつむいている。
「プリンス先輩――」
「ほ、ほら、お茶が冷めちゃうよ? 疲れたし、お腹空いたでしょ? こういうときはまずお腹をいっぱいにするのが一番だよ。食べて、休んで落ち着いて、先のことを考えるのはそれからだよ――」
「先のことって、なんだ」
ふいにプリンス先輩が言った。
「次に誰がいなくなるのか考えるのか? このまま、最後の一人がいなくなるまで?」
震えていた――プリンス先輩は真っ青な顔で震えを抑え込むように自分の身体を抱きしめ、ぜえぜえと言った。
「プーちゃ、」
「もう、駄目なんだ。このままではきっと、みんな消えてしまう」
「な、なに言って――」
否定しようと口を開いたけど、さっきと同じに言葉が出てこない。だって、もう三人も消えてしまって、だけどそれで終わりだなんて保証はどこにもないことに気づいたから。
記憶にすら痕跡を残さず『消失』したキング先輩、ビースト先輩、スワン先輩――いや、思い出せないだけで、消えてしまった人はもっといるのかもしれない。美学部や、あるいはそれ以外のところに、もっともっと沢山の人がいて、その人たちも消えてしまって誰にも思い出されなくなって――だとしたら、わたしはいったいどれくらいのものを忘れてしまっているんだろう?
もし明日、突然プリンス先輩やウィザード先輩がいなくなっても、きっとわたしは気づけないのだ。
「やめよう」
プリンス先輩は不規則な呼吸の合間から無理矢理言葉を絞り出す。
「こんなことはもうやめよう――終わりにしよう。もう、私たちにはどうしようもできないんだ」
「やめるって……」
「美学部は本日限りで解散だ」
その口から出た言葉に、わたしとウィザード先輩はあんぐりと口を開けた。
「な、なに言ってるんだよ青星くん! 解散って……!」
「もうこんなに部員がいなくなっているのに、部活なんてやっている場合じゃないだろう。それに、たった三人で、いったいなにができるというんだ」
信じられなかった。馬鹿みたいに能天気で、呆れるくらいのポジティブで、自分がなんでもできると思い込んでいそうなあのプリンス先輩がこんなことを言うなんて。……ていうか、解散!? そんなの納得できるわけないじゃん!
「じゃあ、消えた先輩たちはどうなるんですか!? 大神が探してる人は!?」
思いつくまままくし立てるが、プリンス先輩の態度は変わらない。
「見つけられると思うのか? 探せば探すほど、仲間が消えてしまっているのに? 大神くんの件も、彼自ら取り下げただろう。私たちにできることは何もない」
「そんなっ……!」
でも、そんなのあんまりじゃないか。自分でも意固地になっている自覚はあった。だけど納得できないのだ。いつになく弱気になっているからって、プリンス先輩がこんなこと言うはずないのに。
「ま、待って、落ち着こうシンちゃん!」
と、そんなわたしの肩をウィザード先輩が掴んだ。触れられて初めて、自分の体温がいつもより上がっていることに気づく。
「ちょっと混乱しちゃってるだけなんだって、プーちゃんも、シンちゃんも……少し休もうよ、話をするなら、落ち着いてからだって」
「落ち着けば誰か戻ってくるのか!?」
いきなり声を荒げたのはわたしではなくプリンス先輩だった。
「落ち着けばもう誰も消えたりしなくなるのか! いいかげんにしてくれ、もううんざりなんだ! きみの気休めは……!」
「気休めなんかじゃ、」
「考えようがなにをしようが、もう私たちにできることなんてない! 私たちは、踏み込むべきではないものに踏み込んでしまったんだ!」
そこまで言って、自分の唾液でむせてしまったのか、プリンス先輩は激しく咳き込んだ。怒鳴りつけられたウィザード先輩も顔を青ざめさせて黙り込んでいる。咳が止まったあと、プリンス先輩は裏返った声で続けた。
「……現実を見ろ。今の私たちには、消えた人のことを考える余裕も、そんな資格さえもありはしないんだ」
4
すうっと、体温が急に下がっていくような感覚があった。頭からつま先へ向かって冷たいものが下りてきて、意識が一瞬だけ遠のくような。目の前のプリンス先輩の姿が、いつもより一回りも二回りも小さく見える。
「……なにそれ」
ほとんど無意識のうちに口が動く。答えは返ってこない。
「じゃあ、どうでもいいんだ、先輩たちのことなんて――思い出せたのに見ないふりして、また忘れるんだ」
「――――――」
「自分が消えるのが怖いからみんなを見捨てるんだ。ひどい、そんなの。全然美しくない」
「こんなの、王子様のやることじゃない」
暴言を吐いてしまったと気づいたのは、呼吸音以外の音が聴こえなくなってしばらくしてからだった。今の今まで止まっていたんじゃないかと思うくらい、激しく強く心臓が脈打つ。なんてことのないはずの言葉だったはずなのに、まるで誰かが死んでしまったみたいの静寂。
「……そう、だな」
少しして、プリンス先輩が頷いた。その拍子に、プリンス先輩の頭から埃が落ちる。
「そうだ。その通りだ。そもそも、私にはその資格すらなかったのだな」
「……先輩?」
頷いたまま顔を上げず、プリンス先輩は頭を掻く。
「私は王子様じゃあない。なのに、偽って、みんなを騙していたからこんなことになったのだな。すべて私のせいか。私のせいで、みんなは……」
「あ、青星くん……ちょっと……」
いつのまにか両手で頭を掻きむしりながら、プリンス先輩はぼそぼそと呟き続ける。なにか、おかしい。違和感に気づきながらも、わたしは先輩を止められないでいた。
「私だ。私のせいだ。私が王子様じゃないから、みんなを助けられない。いつもいつも、見殺しにしてしまう。私が王子様じゃないから。私が――――」
「せ、せんぱ、」
プリンス先輩が頭を掻くごとに床になにかが落ちていく。最初はフケか埃かと思っていたそれは、しかしプリンス先輩の髪と同じ金色だった。はっとして先輩を見ると、先輩の美しかった金髪は見るも無残、老人のような灰色になっていた。そして先輩は、今度は自分の頬やこめかみを掻いている。
「私は王子様じゃない。私は王子様じゃない、私は、私は違う、私は王子様じゃない――」
「先輩! どうしたんですか――」
床にどんどん肌色の『なにか』が落ちていく。わけがわからないまま、とにかく『おかしさ』を感じたわたしは、自分の肌を掻きむしっているプリンス先輩の腕を掴んだ。しかしプリンス先輩はわたしの手を振り払って掻きむしり続ける。そのときずり、とわたしの手のひらになにかが剥がれる感触があった。
「…………え」
手のひらには、まるでメッキやペンキが剥がれたときのような薄っぺらい破片が残り――今しがた掴んだプリンス先輩の腕は、そこだけ灰色になっていて。
金箔が剥がされた像のような、鉛色。
「な、なんだよ、これ」
プリンス先輩の身体からどんどん剥がれていく『メッキ』を、わたしとウィザード先輩は呆然と見ていた。だって、どうすればいいんだろう? プリンス先輩の身体がどんどん鉛色に変わっていくのを、わたしはどうやったら止められたんだろう。
「……行か、なくては」
身体を掻きむしりながら立ち上がるプリンス先輩。行くって、どこに? ぶつぶつと呟きながらふらふら部室から出て行こうとする。一呼吸おいて、慌てて追いかける。ウィザード先輩は呆然としたまま動けないようだった。
「ま、待ってください! 先輩!」
「私はここにはいられない。行かなくては。トロイメライに、いかなくては」
おぼつかない足取りなのに、プリンス先輩の歩みは妙に早く、小走りになってようやく追いつけるほどだった。長く、ひと気のない廊下で奇妙な追いかけっこをしばらく続け、わたしはやっとプリンス先輩の肩を掴んだ。
「せんぱいっ!」
「………………」
プリンス先輩は足を止め、わずらわしげに首だけを振り向かせた。その拍子に先輩の顔からなにかがごろ、ごと、と転がり落ちる。宝石のようにも見える小さな青い二つの玉。それを落としたプリンス先輩の両目は。
「ひっ――――」
「……行かなくては」
声とともに紙が擦れたような耳障りな音を発しながら、プリンス先輩は歩みを再開する。……いや。あれはプリンス先輩なのだろうか? だってあれは、あんな顔は――あんな、ただの鉛色。
床に足を縫い付けられたように動けなくなったまま、プリンス先輩の後ろ姿を見る。そもそも、プリンス先輩はどこに行こうとしているのだろう? 廊下がいやに長い。もうとっくに突き当たりに辿り着いているはずなのに。プリンス先輩が歩き続けるのを助けるために廊下が伸びているのだろうか。でも、どこに。この廊下の先になにがあるの?
プリンス先輩の姿を目で追うだけのわたしすら、いつのまにか霧の中に迷い込んでいることに気づくのはプリンス先輩が見えなくなってからだった。
5
おかしい。校舎の中で霧なんて出るわけない。あわや火事でも起きたのかと慌てかけたけど、どうもそういう煙のようにも感じない。奇妙に生温く、ねっとりとした霧の中を、プリンス先輩の真似でもするかのように歩く。まるで夢でも見ているみたいだ。
「せ……先輩」
もう、なんで自分が歩いているかもわからない。ひたすらふらふらと、片足ずつ前へ進める。なぜだか止まっていると、霧に溶けてしまうような気がしたのだ。
「……先輩?」
人影が見えた。走って追いつこうとするが、足に霧がまとわりついてなかなか進まない。すると、人影のほうからこちらへ近づいてくる。しかし人影はどれだけ近づいても人影のまま、その輪郭をぼやけさせていた。
「な、なに」
それはぼんやりとしていて、半分霧に溶けてしまっているようだった。下半身らしきところを動かすごと、輪郭がけぶるようにぼやける。目鼻立ちも、前も後ろも判別ができないそれは、かろうじて形を留めている腕をわたしに向かって伸ばす。わたしの腕を掴み、引っ張ろうとする。
掴まれた左腕が人影と一緒にぼやけ、霧に溶けた。
「――――!」
悲鳴を上げた、と思う。出したはずの声は、わたしの耳には聴こえなかったけれど。溶ける? わたしもあんなふうになる!? 慌てて腕を振り払おうとするが、腕を振るとそこからどんどん身体がぼやけていく。
「や、やだ、いやだ」
助けを求めようと周りを見た。わたしの声を聞きつけたのか、人影があちらこちらからやってくる。わたしの腕を掴んでいるのと同じ、溶けかけの人影たち。どんどんわたしに近づいて、腕を伸ばしてくる。
――ふいに気づいた。今まで消えた人たちは、きっとこんな風に溶けていったんだ。
「や、やだっ……! 助けて、誰かぁっ!」
助けてくれる人なんていないとわかっていたはずなのに、助けを求めずにはいられなかった。周りにいるのは人間ですらない『なにか』と、それが溶けていったであろう霧だけ。王子様はいない。親切な妖精や魔女もいない。心優しい狩人も、知恵の回るヤギや豚も、なんにもいやしない。
誰もわたしを助けてくれない。
わたしは―――お姫様じゃないから。
「ふむ。ではこんな筋書きではどうだろう? 『運悪く異界に迷い込んでしまった哀れなありふれた少女。怪物たちの魔の手にかかりあわや命を散らしかけた、まさにそのとき! どこからともなく現れた
ぱひゅん、ぱひゅん、と間の抜けた音がした。わたしの腕を掴んでいた人影が掻き消えたのは、その音とは無関係ではないだろう。わたしを取り囲んでいた人影たちが次々と切り裂かれ、霧の中に消えていく。
「『少女は驚き、戸惑いながら訊ねる。あなたはだあれ? わたしを助けてくれたの? ああ、そうだともと英雄は答える。吾輩は王子や貴族ではないが、困った人を都合良く助けるのが大好きなのだ。この猫の手、いくらでも貸してしんぜよう!』」
人影がすっかり消えたあと、人影を切り裂いた張本人がひらりとわたしの前に着地した。目に見えない壁や天井でもあるかのように宙を蹴ってあっちこっちと飛び跳ね、素早い動きで人影を退治したのは、小さな、まだ小学生くらいの少年だった。中世の貴族が着てるみたいな大袈裟で煌びやかな服を着て、派手な帽子には猫耳のようなものがついている。
「左様、吾輩は猫である。ときに怪物を知恵を持って破り、ときに凡庸な子どもを貴族に変える猫である! さて少女よ、吾輩の手をご所望かな?」
少年は芝居がかった口調でわたしに笑いかけながら、ぷにっと肉球のついた手を差し出してみせた。
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