第2話ドキドキ当主様

「各自本日もスカートの裾は翻らないよう、ホワイトプリムを揺らさないよう、優雅に仕事を全うして下さい」


「スカートの裾は翻らないよう、ホワイトプリムを揺らさないよう! 了解致しました」


 タイタンの号令に居並ぶメイド達全員が息を合わせて復唱する。


「さあ、パトリオット、貴方は御当主様への顔見せがあります。ついてらっしゃい」


 糸目で微笑むタイタンに話しかけられた隙に、整列していたメイド達の六割が姿も気配も追えない程見事に存在を消した。


 魔獣の楽園「黒い森」の魔獣達ですらこうまで見事に存在を消す事は不可能だろう。


 奴らはどれだけの修羅場をくぐり抜けた猛者達なのか、想像するだけで身震いがする。


「貴方にも負けない素質はありますわよ胸を張りなさい」


 メイド控え室に揃う化け物達に気圧されたアタイを嘲笑うかの様に、タイタンの糸目が更に細まった。


「多少頑丈なのは認めますわ」


 すまし顔のスパローは言葉の端々に棘を出しながら殺気を放って来る。


 油断をするとまた銀食器がアタイの身体中に生えて来る事になるだろう。


 手入れの行き届いた長い廊下を歩き、装飾の施された矢鱈とデカイ扉の前でタイタンは立ち止まる。


「これから当主様の御前に出る前に注意事項があります」


 アタイに背中を見せているタイタンが、こちらを振り向かないままアタイに話しかける。


「貴方は恐らく私の目の前でも数瞬の時間があれば、当主様を狙えるだろうと考えていらっしゃる様ですが……」


 タイタンの背中の筋肉がミキリと音を立て軋む。


「大きな勘違いです。また、それに気付かない程ボンクラに育てたつもりもありません」

 身体を前に向けたままぐるりと顔をこちらに向け、狂気に満ちた焦点の合わない黒い瞳をアタイに見せ付ける。


 アタイの傍にいるスパローが短い悲鳴の様な息を飲むと、先程からアタイに向けられていた殺気を引っ込めた。


「ここから先は教育では済みません。当主様に向けられる全ての害意はワタクシの責任において消滅させます」


 アタイが前の飼い主である変態貴族の首を切り落とした事を言っているのだろうと思い至り、アタイもタイタンの黒い瞳を真っ向から見据える。


「メイド長が心酔なさる程の御当主様であれば何も心配はありませんわ。ワタクシは御当主様の格に見合ったサービスを提供させて頂くまでです」


 下衆には下衆なりの報復をするまでだ。腹を空かせた魔獣みたいなメイド達の間隙を縫ってでも下衆の首を切り落としてやる。それが刺し違える事となってでもだ。


「好きな様になさい」


 蛇が獲物を前にした様な笑みを浮かべたタイタンは扉をノックした。


「おはようございます。坊っちゃま」


 返事を待たずにチャリと音を立ててタイタンが扉を開ける。


 扉の中は室内にもかかわらず光が溢れていた。それもその筈室内には一般家庭には逆立ちしても手の届かない高価な窓ガラスがふんだんに設えられて、あちこちに白を基調とした調度品が使われている。


 光が溢れる室内で一際デカイベッドが目に入り、清潔そうなシーツがもぞりと蠢くと、この目も眩みそうな高価な調度品の主人が顔を出した。


「坊っちゃま、本日から坊っちゃまの側仕えメイドになりますパトリオットです。当主様のお言葉をかけてあげて下さい」


 部屋の主人はベッドから降り立ち、タイタンに不平をぶつける。


「ヒドイよ! タイタン! いつも僕が寝ぼけている時に新人のメイドを紹介してきてさ!」


「ウフフ、寝起きの坊っちゃまが可愛らしいからですよ」


 部屋の主人は桜色に染まった頬を膨らませながら、美しい金髪についた寝癖を一生懸命直している。




 なんだ……この可愛らしい生き物は……




「は、初めまして! 僕はショタイナー家当主! ショタイリッセ・フォン・ショタイナー! まだ十歳だけどタイタン達の力を借りて伯爵領を取り仕切っているよ。宜しくねパトリオット」


 ニッコリと微笑む笑顔は、部屋中に満たされた朝陽の光に溶け込むかの様に眩しかった。


「ゴフッ……」


 アタイの後ろに控えるスパローが突然咳き込んだので、驚き視線を移すと鼻血を吹いていた。


「さあ、パトリオット。当主様に挨拶を」


 タイタンは上品そうにハンカチを口元で抑える仕草で自らの鼻血を拭き取っている。


「初めまして御当主様。パトリオットと申します」


 アタイがペコリとお辞儀をすると当主が突然素っ頓狂な声を上げる。


「ああああ! タイタン! これって!」


「ウフフ気付かれましたか? 坊っちゃま」


 当主は目をキラキラと輝かせアタイに向かって走り寄る。


「ねぇねぇ! パトリオット! ちょっと屈んでくれる?」


 当主はアタイのスカートの裾を掴み、相変わらずキラキラの瞳で懇願して来る。


 仕方がないのでアタイが当主の目線に合わせる様に屈み込むと、不意に当主がアタイの頭を抱きしめて獣の耳を握り締めた。


「当主様!?」


「僕、猫が大好きなんだけど猫に近付くとクシャミが止まらなくなるんだ」


 アタイの頭を抱きしめながら悲しそうに呟く。


「でも、獣人の人なら大丈夫って解って、ずっと友達になりたかったんだ」


「友達?」


「うん、僕と友達になってくれないか? パトリオット」


 小さな手でアタイの顔を抱え、真剣な目付きで懇願する当主。


「で、でもワタクシは当主様とは本来、お話をする事も憚られる身分で御座います」


 そう、アタイはもう人ではない。人以下の存在。奴隷だ。


 隷属の呪いを込められたこの首輪は死ぬまで取れる事は無い。


「この呪いのせいだね? こんな呪い……」


「あ、坊っちゃま!」


 当主がアタイの首に巻き付く忌々しい呪いの呪縛に手を添えて目を閉じた。


 タイタンが今迄聞いたことの無い慌てた声を上げたかと思ったら、カチャンと音を立てて隷属の首輪が床に落ちた。


 一度着けてしまえばどんな身分の人間でも、絶対に外す事の出来ない呪いの首輪。


 人間以下の証明から今アタイは解放された。


「パトリオットにはこっちの方が良く似合うと思うよ!」


 ベッドの上で呑気に寝転ぶ猫の縫いぐるみの首に巻き付く赤いリボンを解き、今起こった事について行けずに屈んだままで惚けていたアタイの首に、赤いリボンをシュルリと巻き付けた。


「ほら! こっちの方が絶対に可愛い!」


 無邪気に笑う当主の笑顔で、アタイの心に渦巻いていたドス黒い炎は浄化されて行った。


「ショタ坊っちゃま……ありがとうございます。この御恩はワタクシの一生を持って御礼をさせて頂きます。隷属の戒めで縛られたワタクシの命では無く、ワタクシの純然たる意志の力によりショタ坊っちゃまを一生お護り致します。ショタ坊っちゃまに不要とされるその日には、この首を自ら切り落とし黄泉の国へと帰る所存で御座います。ショタ坊っちゃま……いえ、御当主様におかれましてはこの身体、剣として、盾としてお使い頂ける事を何卒お願い致します。貴方様が望むならば万の兵士に笑いながら立ち向かいましょう。貴方様が望むならば万の弓をこの身で受け止めましょう。その采配は全て貴方様に委ねましょう。これよりこのパトリオット、ショタ坊っちゃまの剣となり盾になる事を誓います」


 打ち震える感激から我に帰りショタ坊っちゃまを見ると、花が咲く様な笑顔を見せてアタイに抱きついた。


「何時までも一緒だよ!」


「んんっ! パトリオット? そろそろお仕事がありますので、ショタ坊っちゃまに馴れ馴れしく接するのはその位にして、控え室の方へ来て頂けるかしら? ショタ坊っちゃまは顔を洗ってお食事になさいませ」


 何時も冷静なタイタンが気のせいか焦っている様に見えた。


「パトリオット、こちらへ」


 アタイの腕を掴む握力が尋常では無い程に込められる。ドラゴン素材のメイド服が悲鳴をあげ、アタイの腕の骨が軋み始めた。


 ショタ坊っちゃまをスパローに任せて、タイタンがアタイの腕を掴んだまま廊下に連れ出した。


 カツカツとタイタンのブーツが廊下を叩きつける様に足早に歩き、充分にショタ坊っちゃまの部屋から離れると、くるりと振り向きアタイの胸倉を掴みあげた。


「てめぇ! ブチ殺すぞ!」


 初めて門越しに出会った時の数倍の殺気を込められた気合いをぶつけられて、一瞬アタイは魂が耳から抜けた気がした。


「坊っちゃまが産まれた時から仕えるメイド長の私ですら、まだ三十二回しかハグされてないのにいいいいい!」


 その日ショタイナー家本館廊下突き当たりで魔獣の咆哮が木霊した。


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