終章:願いの果て

「おかえりジャンヌ。今日はどんな一日だったかい?」

 黄昏に染まる草原で、たなびく麦穂むぎほの中に佇みながら、馬上の騎士が口を開く。


「あ、ジル様! 今日は天気がとても良くて。私、羊たちと一緒に横になって、それで聖書を読みながら過ごしました!」


 問いを投げかけられた少女は、少し頬を染め、それから屈託のない笑みを浮かべ騎士に答える。


「そうか、それは良かった。ただし昼も短くなってきた。余り遅くなる前にお家に帰るんだよ。ご両親も心配しているだろう」


「はい! でもいざって時は、ジル様が私たちの事を守ってくれるって、信じてますから。ふふふ」


 はしゃぎながら去っていく少女の背中を見送りながら、騎士は満足げに踵を返し、自らの城へと戻っていく。




 騎士の名はジル・ド・レ。シャルル7世の懐刀として先陣を切り、祖国に勝利を齎した救国の英雄。かたや少女の名はジャンヌ。平凡な羊飼いとして生きる彼女を取り巻くのは、剣とも戦火とも無縁の日常だった。




「――おやご婦人。道に迷われましたかな?」

 それから暫く。ふと馬の足を止めるジル・ド・レは、眼前に立つ女性に声を掛ける。


「いえいえ、ただの通りすがりですから、お気になさらず」

 ぺこりと頭を下げる女は「――とても良い国ですね」とぼそり呟く。


「はは。異国の方ですか。お褒めに与り光栄です。領主として民の幸せを守る事が出来るのは、神の思し召しか、或いは恩寵おんちょうか。――何れにせよ僥倖ぎょうこうです」


 振り返り目を細め、そうして大地を見渡すジル・ド・レ。きっと彼の視線の先には、遠く消えたジャンヌの背中があっただろう。


「――確かに奇跡、かも知れませんね。幾重にも重なった想いが生み出した、切なる奇跡」

 暫しの沈黙の後、女はジルの言葉に応じる。魔法使い帽を被り、青のローブに身を包んだ女は、その蒼い瞳に複雑な感情を湛えていた。


「でしょうな。だがその奇跡を、我々は命を賭し守っていかねばならないのです。――羊を追い、日々の息災に祈り口ずさむ、無辜むこの少女が幸せであるように」

  

「そうですね。きっと貴方なら、そう願ったでしょう。ジル・ド・レ」

 女は頷いて「かくあれかし」と胸で十字を切る。


「はて御婦人、何処かでお会いしましたかな?」

 ついに訝しげな表情を浮かべるジル・ド・レに、女は「いいえ。こちらのお話です。――どうかお勤めを無事お果たし下さいますよう。この平穏に、せめて祝福を」と、万感の思いを込めて告げる。


「そうか……何れにせよありがとう。ご婦人も。早く宿にお戻りなさい。じきに日も暮れる」

 一礼し手綱を締めるジル・ド・レは、女に背を向けると、颯爽と駆けていった。麦穂の如くこうべを垂れる路傍の領民たちが、その信望の厚さを暗黙の内に物語る。




「こんな事もあるんだねえ……カオステラーの遺志が物語を産む、なんて奇跡が」

 残された草原。誰に言うでも無く、女は独りごちる。青色のローブが風にはためく。


「魔女さんもちょっとウルッと来ちゃったよ……あはは、柄にもないねえ」

 言うや女は、魔法使い帽を目深まぶかに被り、頬に煌めく水滴を誤魔化そうとする。


「これが想いの力、か……」

 ぼふぼふと衣服を叩いた女は、やがて想区の果ての、沈黙の霧の中に姿を消した。




 ――女の名はファム。

 エクスたちと離れていた彼女は、今まさに生まれたばかりの物語に立ち会っていた。


 一人の騎士が切に願った、たった一人の少女の救済。

 それは誰に語られるでも無いこの想区で、きっと未来永劫繰り返されるのだろう。


 カオステラーの遺志が生み出した、断片的な想区の破片。

 まさかそんな事が有り得るのかと、ファムは一人内心に問う。


 だが答えなど得られる筈も無く、自身が目にした確固たる事実が、厳然と「そうだったのだ」と告げて寄越すだけだ。


 だとしたら。

 願わくば、或いは。


 全ての物語の終幕が、そうであったならと。

 徐々に濃霧に侵される景色に手を伸ばし、ファムは小さく溜息をつく。


 分かっている。

 空白の書の持ち主に、逃げ場なんて無い事は。


 ならばせめて、定められた結末の無い物語に、今度こそハッピーエンドを齎さなければ。ファムは思い出を切り捨てるかの様に、重い一歩を眼前に踏み出す。


 そうだ。

 あのお姫様を守ってやらないと。


 私が。

 今度こそは。




「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく。我らの罪をも赦したまえ――」

 無邪気な少女の無垢な祈りが、その背後に響いた様な気がした。


(違う、許せない罪も、許されない罪も、あるんだよ)

 心の底でそう返したのが誰なのか、沈黙の霧は押し黙ったまま世界を埋めた。

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