第17話 炎の戦場<桶狭間>・その一

 裏崩うらくずれ


 自軍後方の手勢が戦わずして逃げ出すことを、そう呼んだ。

 通常は、前線の味方の苦戦が後方にまで伝わって起こるものだが、このとき今川方に起こった裏崩れは、陣内に撒かれた流言りゅうげんによって引き起こされた。


 足軽どもは小頭の制止も聞かずに逃げ惑い、武者たちも状況がつかめず混乱をきたした。

 結果、織田信長らに対する砲撃の手はゆるめられた。

 そして今川義元が看破した通り、その好機を見逃すほど信長は<うつけ者>ではなかった。


「押し出せ――!」

 号令一下、信長車を先頭に者どもは駆けはじめる。

「お退がりを」

「ここは我らに!」

 すぐさま佐々成政と岩室重休が信長車を追い抜き、その前方に転移する。

 今川本陣からの砲撃は、散発的なものになっていた。

 信長車を真ん中に置き、成政、重休を先頭とした鏃形の隊形となった織田勢は、速度を上げて丘を下りはじめた。

 狭い谷を越えた先の丘に、今川の本陣がある。


 不意に、左端を進んでいた柴田勝家が、自車の速度をゆるめさせた。やや遅れて、すぐ隣にいた勝家の家臣の軽装甲車も減速する。

「何をしておるっ」

 叫びつつ信長は、付いてくるよう軍配団扇を振った。

 しかし、物見塔でニヤリと笑う勝家は、後方を指さしていた。

 その示す先に、こちらを追撃してくる戦車がいた。今川方・先備さきぞなえの奴らに違いない。九七式中戦車が一輌に九五式軽戦車が二輌だ。

 お任せあれ、とでも言うように、勝家は二の腕を軽く叩いた。

 勝家の九七式中戦車と、その家臣の九七式軽装甲車が反転し、丘の稜線を越えたばかりの敵戦車に向かってゆく。

「……うぬのことじゃ」

 どうせ、あちこち傷だらけでも平気な顔をして帰陣し、呵々と大笑しながら御館様のためでござった、などと恩着せがましく言うつもりだろう。

 そのときの媚びるような顔が気に食わんことは判っているから、うぬになど戦功一番をやってたまるか、覚悟しておけ。

 胸裡でつぶやく間にも、勝家車は遠ざかってゆく。

 信長は物見塔の端をグッと握り、視線を前方へ戻した。すでに隊列は丘を下りきり、谷間を渡りはじめていた。

 その先に、今川義元がいる。

 わしから全てを奪うつもりの男など、ここで逃してなるものか――。

 その強い想いに、信長は突き動かされていた。




「わずか二輌で向かってくるというのか」

 今川の先備を率いる松井宗信は、青草を散らしながら丘を駆け上がってくる敵をにらみ見た。墨色の九七式中戦車と、その家臣の物らしき茶塗りの九七式軽装甲車だ。

 自らが守っていた丘からの敵の突破を許した宗信は、ただちに三輌の戦車を率いて反転し、これを追撃したのである。

 集落陣地に敵が残した手勢に対しては、北側の丘にいた三輌を残し、牽制させていた。

 宗信の目は、先頭を来る九七式中戦車に吸い寄せられていた。

 黒光りする砲塔の側面に、片側だけになった瓦を象った脇立わきだてが輝いている。鋲にも銀箔を押しているのか、日の光の下に砂子すなごを撒いたように見えた。

 しかも砲塔後部には旗指物ではなく、やりを掲げているではないか。こんな珍妙な飾りたて方をするなど、まさに田舎武者ならではだ。

 ……しかし、それだけによく目立つ。

「おぬしは、わしが討ち取ってくれる」

 宗信は方向転把てんぱを回し、砲身を敵の先頭車に向けはじめた。

 敵の砲塔がキラリと輝く。宗信は思わず舌打ちした。

 わしの戦車よりも、きらびやかとは……許せぬ。

 若苗わかなえ色の板肌に柿色の流水模様を描いた宗信の戦車は、丘陵地帯では景色に溶けこんで目立たない。砲塔正面に取りつけられていた金箔押しの鍬形くわがたも、これまでの戦闘で失っていた。

「田舎の武者の分際でわしよりも目立つとは、よい度胸ではないか」

 しかも、劣勢ながら怯むことなく、正面から向かってくるとは。

 だがここで、もたつくわけにはいかない。もとはと言えば宗信が陣替えしたために、織田勢の突破を許してしまったのだ。

 早々にこいつらを討ち取り、御館様の所へ駆けつけねば。

「そこをどけぇ――!」

 吠えたときには、方向転把を回し終えていた。

 砲口は、正しく敵戦車に向いた。あとは照準筒をのぞく放手はなちてに微調整を任せるだけだ。



 柴田勝家の方も、すでに宗信車に狙いを定めていた。

 距離は五〇メートルを切った。

 九七式中戦車の装備する五七ミリ砲は、もとが榴弾の威力を優先した対陣地・対城砦用であり、短砲身・低初速のため装甲貫徹力が三七粍砲にも劣る。

 しかしこの距離であれば、表面強化処理された九七式中戦車の装甲も撃ち抜ける……はずだ。

「放て!」

 下知に合わせ、放手が引き金を引く。砲声が鼓膜を叩き、発砲煙が渦を巻いて流れ去る。

 敵の九七式中戦車の砲塔に火花が散った。ゆるやかな曲面の砲塔装甲により、砲弾は弾かれたようだ。

 勝家は激しく舌打ちした。やはり正撃でないと撃ち抜けぬか……。

 さらに接近する敵戦車に合わせ、放手が方向転把で砲塔を旋回させる。勝家も自分用の転把を回し、旋回を助ける。同時に回せば、それだけ砲塔の旋回も早くなるのだ。

 御館様の所へ行かせてなるものか。勝家は呪文のように、それを胸裡で繰り返した。

 一度は裏切ったこのわしを赦してくださったばかりか、重臣として厚遇してくだされておる。その恩に応えずして、何が武者ぞ。

 それに、わしにはこうした車働きしかできぬ。

「鬼柴田」などと呼ばれてはいるが、実のところ大軍を率いての合戦など、わしの得手とするところではない。

 戦さ下手であることは、己自身で判っておる。

 ならばどうする?

 ――この身を賭して、御館様をお守りするしかないではないか! 常に前に出て、弾除けとなるのよ!

「通さぬっ、通さぬぞ!」

 獲物を狙う獣のように、物見塔の勝家は身を低くした。


 敵戦車は右方向へ回り込みつつ、接近してくる。柴田家家臣・川田九助の九七式軽装甲車が、その行く手を阻むべく、突っかけた。

 これに対し、敵の九五式軽戦車が速度を上げ、川田車の進路上に躍り出た。

 甲高い金属音と腹を打つ鈍い音を重奏で響かせつつ、川田車と敵の九五式軽戦車が衝突した。その衝撃で互いの履帯がちぎれ飛び、二輌はもつれ合ったままその場で旋回を開始する。

 と同時に、二輌は砲身が触れ合う至近距離で同時に砲声を轟かせた。川田車の砲弾は敵の砲塔基部から車内に突入、敵の砲弾は川田車の車体前面を撃ち抜いていた。

 その一撃で両車は動きを止め、沈黙してしまった。


「おのれ!」

 勝家が叫んだときには敵との距離は一〇米まで縮まり、互いに側面をさらし、すれ違う体勢となっていた。

「放て!」

 勝家車の砲撃と、敵中戦車の砲撃が重なった。次の瞬間、勝家は激しい衝撃に襲われ、物見塔から弾き出されそうになった。

 敵弾は勝家車の右転輪を破壊していた。履帯が外れ、戦車は前のめりに傾ぎ、それ以上の推進力を失っていた。

「なんたることか……!」

 呻きつつ敵を見る。すると、どういうわけか敵の中戦車は左へ舵を切り、急旋回して丘を登りはじめていた。

「ここで待て!」

 車内の家臣に命じた勝家は物見塔から飛び出し、砲塔後部の鑓をひき抜いた。




「何が起こったのじゃ」

 激しい衝撃に見まわれたと思った途端、戦車が左へ急旋回していた。

 松井宗信が車内に潜り込むと、放手の甚助が頭を押さえつつ答えた。

「元蔵が、やられ申した」

 車体右側前部に位置する操手あやつりての元蔵は、頭から血を流して前のめりになっていた。

 敵弾は車体右側前部に命中したらしい。貫通はしなかったが、ちぎれ飛んだ鋲が元蔵を傷つけたようだ。

 その際、倒れ込んだ元蔵が、左右の履帯の回転を操作する操向槓桿そうこうこうかん(操作レバー)を誤った位置に押し込んだのだろう。

 そのせいで戦車は左回りに旋回し、再び丘を登りはじめたのだ。

「元蔵をかせっ、助三郎、おぬしが操作せぇ!」

 鉄砲手に命じたとき、ふいに視界が暗くなったことに宗信は気づいた。車内に影が落ちている。

 ハッと見上げたそこに、物見塔からこちらを覗く髭面の男がいた。

「織田家臣、柴田権六郎勝家と申す。おぬしは?」

「……今川治部大輔様が家臣、松井左衛門佐」

「おぬしが先備の大将か?」

「いかにも。……鬼柴田、か」

「おう! その名でわしを呼んでくれるのか」

「ふんっ、今どき鑓働きか? 田舎武者に相応しいわ」

「おう、言ぅてくれる。ときに、おぬしの戦車じゃが、この塗りは冬枯れの草地のつもりか? 朽ち行く今川家に相応しいのう」

「なんの、田舎武者が暴れて果てる先は、枯れた草地が相応しかろう!」

 言い終わらぬうちに、宗信は腰帯の短刀をひき抜いていた。

 だが、それより一瞬早く、きらめく鑓の穂先が天より突き出された。

 髭面男のにやけた顔が、赤く染まる視野の中で次第にぼやけていった。




「せい! せやぁ! やぁ!」

 さらに三度ほど鑓を突き入れ、勝家は車内にいた全員の息の根を止めた。

 それでもまだ、戦車はぐるぐると左回りに旋回している。

「こっちじゃ、これに乗り換えるぞ!」

 鑓を振り回し、勝家は擱坐した自車に呼びかけた。

「早う、こっちへ来て中の奴らを引きずり出せ!」

 勝家の目は、遠ざかってゆく生き残りの九五式軽戦車を捉えていた。こちらを襲うよりも、本陣へ向かう脅威の追撃を優先したのだろう。

 一輌、逃してしまった。あいつが御館様を狙うかもしれない。それを想像すると、刃が食いこんだような胸の痛みを感じる。

「早うせぇ!」

 ようやく駆けてきた家臣たちに、勝家は怒鳴り続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る