第9話 眼下の陣・その一

 地表付近には依然として靄が漂っていた。

 だが、丘の中腹あたりの敵陣の乱れは、信長たちのいる位置からもよく見えた。

 どこからか現れた一輌が陣内をかき回し、それを追いかけているのか、はたまた翻弄されているのか、六輌の戦車が右往左往している。


「……同士討ちをはじめたか」

 信長が判じた答えは、それであった。

「あの一輌が何者であれ、これは潮目でございますぞ」

 左隣に戦車を停めた森可成が言う。その声も表情も冷静そのものだが、こちらを見る目の奥に、戦車の装甲さえ射貫きそうな鋭い光があった。

「心得ておるわ――」

 可成の眼光は、圧力を持って注がれる。思わずのけぞりそうになる。

 譜代の家臣ではないが、常に可成は信長の側にあった。

 弟・信勝との内訌の際も、多くの譜代家臣が弟の側に付いたにもかかわらず、可成は寝返ろうとはしなかった。

 戦さとあらば常に信長勢の先頭に立ち、数々の武功を手にしてきた。<攻めの三左>の異名も伊達ではない。

 その可成が奥深い眼差しで、じっと見つめてくる。

 値踏みしているのではないことは、目の彩や表情で判る。ただただ、信じ、待っている者の目だ。

 弟ではなく、なぜわしに付いたのだと、以前に訊ねたことがある。

 その時の答えが、

「必ずや、御館様は大事を成し遂げられるでありましょう。そのこと、この三左は疑っておりませぬ」

 というものであった。


 わしは、うぬが思っているような出来た男ではないぞ。

 そう言いかけて、信長はつばを飲み込んだ。可成の視線と向かい合っていると、背中がむずがゆくなってくる。

 思わず目をそらした信長だったが、そこにはさらなる苦痛が待ち受けていた。

 家臣どもが皆、こちらを見つめていた。その視線が、横なぎにされた太刀の刃のように突き刺さる。

 期待と信頼……信長が一番、重荷に思う感情が、そこには込められていた。


 ああ、どうかその目をわしにではなく、他のモノに向けてくれ。


 そうだ、と信長は、ふいに思いついた。

 陣押し(前進)を命じてしまえば、血気盛んなこいつらのことだ、敵にばかり目が行き、わしのことなど顧みることもないだろう。

 それに、これは確かに潮目だった。

 可成の言うとおりだ。今川方の先鋒を打ち崩す絶好の機会が、向こうから転がり込んできたのだ。

「よ、よし。腹は決まったぞ」

 その一言は、生力炉の音にも負けず、あたりに響き渡った。

「戦車、押し出せぇ!」

 一瞬の静寂。――そして、

「おおぉぉ!」

 天地をどよもす程の声音で、者どもは応えた。


 真っ先に駆け出したのは、柴田勝家の九七式中戦車だった。

「一番弾はこのわしじゃ! 者ども、続けや!」

 勝家車の後方に、柴田家の家臣が乗る九七式軽装甲車が続き、さらに鉄砲足軽どもがそれを追って駆け出してゆく。

「わしらも遅れをとるでないぞ!」

 池田勝三郎恒興つねおきの九七式中戦車が唸りを上げ、その家臣の九七式軽装甲車と九四式軽装甲車が足軽どもを追い立てるように動きはじめる。

 家臣たちは履帯をきしませながら一本道へと殺到し、我先に今川方の陣をめがけて疾駆した。

 それを狙い撃つはずの敵戦車は、乱入者を追い回すことに気を取られたままだった。

 一発の抵抗を受けることもなく、先頭の柴田勝家はすでに、くすぶり続ける千秋四郎車の脇をすり抜けていた。

「なれば、それがしも」

 森可成の九七式中戦車が、一本道へと鼻先を向けた。

「御館様は、ここでご覧あれ」

 速度を上げ、家臣の九四式軽装甲車を引き連れた可成車が、敵陣めがけ走り去った。


 確かに、この場は千載一遇の好機であった。先鋒を完膚無きまでに討ち破ってやれば、今川方も今以上の陣押しはためらうはずだ。

 そのまま模様眺めに持ち込めれば、こちらが有利な和議を結べるかもしれない。


 前方から、立て続けに砲声が轟いた。勝家の手勢が南側の今川陣内に乗り入れ、砲撃を開始したのだ。

 さらに、それに池田恒興の手勢が続き、森可成の手勢は北側の今川陣内へ乱入している。

しておる、圧しておるではないか」

 先ほどまでの劣勢が悪い白昼夢であったかのように、戦さ場の状況は一転していた。

 勝てる、これは勝てるぞ。

 それを思いはじめると、信長の腹の底が、にわかに熱くなった。

「ああ、御館様……また血が騒いでおられまするな」

 天蓋を開いてこちらを見上げていた信長車の鉄砲手、佐脇良之が呆れ顔になっている。

「押し出したいのでございましょう?」

 信長の<うつけ>時代を共に過ごした小姓たちは、こちらが何を求めているか、瞬時に読みとってくれる。


 ニヤリと、信長は笑って見せた。

「むろんじゃ」

 かつて、小姓たちと遊びほうけていた頃、誰よりも「車合戦」を楽しんでいたのが、信長自身だった。

「おい、弥三郎」

 車内に潜り込み、操手あやつりての加藤弥三郎の肩を揺する。

「いつでも押し出せるよう、心しておけ」

 また悪い癖が……とでも言うように、弥三郎は唇を尖らせる。

 目の前で争いごとが起こると、とにかく首を突っ込まずにはいられない。

 勝ち戦であればなおのこと。そうした荒々しい一面が、信長の根っこの部分に確かに存在していた。

「なれど、あれは遊びではございませぬ」

 放手はなちての毛利良勝も困り顔で言う。

「阿呆、さようなことは心得ておるわ。じゃが、見てみよ」

 信長は物見塔に戻り、前方を眺めやった。

「我が勢は圧しておる。今川方は散り散りぞ。これに加わらずしていかにするか」

 興奮気味に、軍配団扇で敵陣を指し示す。


「御館様!」

 黒母衣衆の筆頭である河尻秀隆と、馬廻の一人である佐々内蔵助くらのすけ成政が車を寄せてきた。

 二人とも九五式軽戦車に乗っている。秀隆の車は真っ黒に染められ、成政のそれは青紫色に鈍く光っていた。

「我らも押し出しまする。御下知を」

「ここが好機と心得ますが」

 二人とも、やはり血が騒ぐのだろう。すでにその目は血走っていた。

 それを見た信長も、目を見開いて応じた。

「おう、本陣を押すぞ。うぬらもついて参れ!」

 興奮した様子で顔を見合わせる秀隆と成政を尻目に、信長は軍配団扇を掲げ、勢いよく振り下ろした。

「押し出せ――!」

 叫びつつ、つま先で加藤弥三郎の肩を蹴る。

 信長の本陣ぞなえが、幾旒もの旗幟をたなびかせながら、前進を開始した。


 ――しかし、信長が一本道を東進し、今川方先鋒の陣があった丘の頂部にたどり着いてみると、すでに合戦は終結しつつあった。

 敵の足軽は散り散りになり、その多くが秩序もなく山野へと逃げ込んでいた。

 それでも半数近くは谷筋へ駆け下り、<谷間の道>を東へと潰走している。後方の味方の陣へ逃げ込めば、助かると踏んでのことだろう。

 今川方の九五式軽戦車の内、乱入した勝家らによって五輌が討ち取られ、残る一輌も損傷し、足軽どもの潰走の列に加わっていた。


「追い討ちじゃぁ」

「追い討ちぞ!」

 織田方の将士は口々にわめき立て、逃げ散った今川勢を追って丘を下り、<谷間の道>へと殺到していた。

 その進み行く先の谷間に、集落があった。道はその中央を貫いて、東へと延びている。

 集落には粗末な住居と納屋が点在し、その周辺には畑が広がっていた。

 潰走する今川方の将士は、集落の中を逃げ惑っている。主砲を撃ちながら追う織田方の戦車・装甲車は、そのすぐ後ろにまで迫っていた。


 今川の先鋒がいた丘の頂きから闘争の様子を眺めた信長は、その追撃の危険性をただちに理解した。

「ならぬ、追い討ちを禁じ、退がらせよ!」

「はっ」

 すぐに赤母衣衆の岩室重休、長谷川橋介らの九七式軽装甲車が走り出し、味方の後を追って谷間の集落へと向かってゆく。

「なんたる様じゃ。せっかく拾った勝ちが……」

 これでは意味のないものになってしまう。信長は歯ぎしりしながら、眼下の状況を確認した。


 地表付近には依然として靄が蠢いているが、丘の上に登ると周辺の丘陵を見晴るかすことができる。

 戦いの焦点となっている集落の東の端では、またも小高い丘が道の近くまで両側から迫り、門のように立ちはだかっていた。

 その両側の丘の頂部に、今川方の旗幟がはためいていた。

 しかも、そのさらに向こう、東へおよそ一〇〇〇メートルほどの距離にある、周辺で一番高い丘の上には、仰々しいほどの旗の連なりを見ることができた。

「本陣じゃ。今川義元の本陣が、あれにあるぞ」

 おおぅ……と、側に残っていた馬廻の武者どもが、歓声とも呻きともつかぬ声を上げた。


 ここまでの運びは――予想外の過程を経たとはいえ――これ以上ないほどに、劣勢の織田方が有利な展開を見せている。

 まずは今川の先鋒を討ち破ることができた。

 この後は、陣を築いて守りを固め、対峙したまま模様眺めの状況を作り出す。

 そこまで事態を運ぶことができれば、「手打ち」に持ち込める可能性も高かったのだ。

 だが、さすがに<海道一の車取り>と呼ばれた男。今川義元は、こちらの一手も二手も先を読み、策を練っていた。


「よもや、これほどまでに今川勢の陣押しが早いとは……」

 先鋒の敗残兵を追撃したとしても、すぐに取って返して守りを固めるだけの時間的余裕はあると、信長は考えていた。

 その読みがあればこそ、勝家たちが追撃に移るのを止めなかったのである。

 それに、義元は馬にも乗れず、戦さは家臣に任せきりで、自身は武勇の人ではないとの風説もあった。

 それが事実なら、義元の本陣は沓掛城付近から動かないのではないか、そうした読みも働いていた。

 ところが実際はどうだ。

 今川の本陣は、戦さ場に近いところにまで進出していた。しかも<谷間の道>を扼する位置に陣を構えている。

 追撃の手勢がそちらにまで深く踏み込めば、丘の上からの攻撃により、たちまち粉砕されてしまうだろう。

 そうなれば、ようやく均衡しかけた戦況が、再び今川方有利に大きく傾いてしまう。

 とにかく、今は一刻も早く兵をまとめ、こちらも堅陣を築かねばならない。

「早う、早う退がってこい」

 イライラと軍配団扇で物見塔を叩き、母衣衆が使番として走り回る様子を、ただ眺めることしか信長には出来なかった。



「おぅやぁかぁたぁさまぁ――!」

 どこか懐かしく感じるその声は、右手方向の斜面から聞こえてきた。見ると、一輌の九七式軽装甲車が駆け上がってくるところだった。外板のあちこちがへこみ、砲塔後部に挿していたと思われる旗は中程から折れ、竿だけが残っている。

「お退がりあれ」

 信長の後方にいた佐々成政が、自身の青紫色の九五式軽戦車を進ませ、信長車の右側面の位置につく。

「……ん?」

 しかし成政は、そして信長も、それが先ほどまで敵陣をかき回していた一輌であることに気がついた。

 しかも、砲塔から半身を出して手を振る武者は、よく見知った男だった。

「犬ではないか!」

「御館様、御館様、御館さぁまぁ――!」

 赤茶けた装甲車から飛び降りた前田利家は、転がるように信長車に駆け寄り、その前にひざまずいた。

「勝手なる振る舞い、抜け駆けの段、お赦しくださりませ。なれどそれがし――」

「もうよい」

 信長は、うわずった声で利家の言葉を制した。

「赦すも赦さぬもない。おぬしがおらねば今川の陣を破れたかどうかわからぬ」

 我知らず、信長は笑みを浮かべていた。

「ようきた、犬よ」

 利家は感極まったように震え、勢いよく頭を垂れた。

「ははっ――!」


「じゃがのぅ」

 ふいに表情を曇らせた信長は、眼下の様子を指し示した。

「おぬしの働きで拾った勝ちも、あやつら次第でこの手からこぼれてしまいかねぬ」

 集落のほうを振り返った利家は、しばし思案顔になった。が、すぐに弾かれたように立ち上がり、ドンッと胸を叩いた。

「お任せくださりませ御館様、それがしが参りまする!」

 すぐさま自車へと取って返し、「御館様、ご覧あれぇ!」と叫びつつ、利家は集落のほうへと駆け下りていった。


「……なれど御館様」

 車を寄せた佐々成政は、不安そうな表情を浮かべていた。

「よもやとは思いまするが、又左のやつ、追い討ちの列に加わるつもりでは?」

「さようなことは……」

 言いかけ、信長は思い出す。

 追い討ちしている奴らを連れ戻してこい、という下知を与えたわけではないことを。

 そして、犬千代と呼ばれていた幼い頃より、勢い任せで周りが見えぬのが、利家の欠点であることを。

「あやつの性分から判ずるに、なにやら怪しき心持ちがいたしまするぞ」

 背筋から一瞬にして血の気が引く感覚を、信長は味わっていた。

「……まずい、かの?」

「なれば、それがしが参り、又左も含め、皆を連れ戻して参りましょう」

 険しい顔のまま嘆息し、成政が言う。

 しかし成政は、一本道での戦いで討死した佐々政次の弟である。もしや、自分も追い討ちに加わって、敵討ちを果たそうというのか。

 いや……と、信長は己の勘ぐりをすぐに否定した。

 今は馬廻の一人として信長の身辺を守っている成政だが、彼ももとは小姓である。昔から、主人の命に反した行動はとらぬ堅物であることを、信長は知っていた。

「任せる、内蔵助」

 主人から頼まれ、成政は驚いたように目を見張ったが、すぐに嬉しそうに微笑むと、一礼して自車を発進させた。


 すべては、陣を素早く立て直すことが出来るか否か。それが不可能なら、この戦さは負ける。

 安寧とした暮らしも、夢幻と消える。

 信長は、わめき散らしたい感情を抑え、遠ざかる青紫色の九五式軽戦車を見つめていた。

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