第4話 信長のいちばん長い日・その二
善照寺砦の陣屋に集った男どもの顔色は、どれもすぐれぬものばかりだった。
怒りと興奮で破裂しそうなほど赤くなっている者、恐怖と不安で青ざめる者、諦めの境地に達したのか土気色になっている者――。
信長出陣の知らせを受け、ただちに参集した家臣たちである。
その者どもの視線が、板間の上座に腰を下ろした信長に突き刺さっていた。
熱田神宮を発ったのち、伊勢湾沿いの街道を南進した信長らは、ただちに最前線の善照寺砦へと入った。
後を追うように続々と家臣たちも駆けつけ、巳の刻(午前一〇時頃)を迎えようかという今、その軍勢は三〇〇〇に達しようとしていた。
「我らこうして郎党を引き連れ、また戦車、装甲車を走らせ、まかり越しました。しからば――」
森
譜代ではないが、織田家内訌の際には早くから信長を支持し、その家督相続に貢献していた。以来、陰日向に信長を支えている家臣である。
「今川方を討ち果たす、よき手立てをお聞かせ願いたい」
視線こそそらさなかったが、信長は言葉に詰まってしまう。
手立てなどあろうはずがない。
逃げたい一心で突っ走った果てに、ここへ追い込まれたようなものなのだ。そのくせ――
「……むろん、それは、ある」
つい、そんな誤魔化しを口にしてしまう信長である。
「じゃが、その前に、うぬらの胸裡にある策を聞いてみたい」
家臣らを眺めわたしながら、ひとまず胸をなで下ろす。我ながら逃げが上手い。
とはいえ、実際に「これは!」という策があれば、それを実行に移してもいいと思いはじめている。
その時、にわかに陣屋の外が騒がしくなり、使番の武者が走り込んできた。
「申しあげます! 鷲津砦、今川方の攻めにより、落ちましてござります!」
「なんと……」
家臣どもが色めき立つ。中には床を殴りつける者もいた。
さらにもう一人、使番が駆け込んでくる。
「丸根砦陥落、佐久間大学様、御討死!」
「佐久間殿がっ。最後は見届けたのか」
居並ぶ武者どもの中から飛んだ質問に、使番が答える。
「砦が落ちる寸前、御自身の戦車で今川方に乗り入れ、三方から敵戦車に撃たれました由にござります……」
丸根砦の守将であった佐久間盛重は、自弁の八九式中戦車を砦に持ち込んでいた。最後はそれで一矢報いようとしたに違いない。
その奮戦と散り際を聞いた家臣らは、さらに騒がしくなった。
だがやはり、声が大きいのは動揺している者たちではなく、頭に血を上らせた者どもだった。
そこへ、物見に出ていた武者が走り込んできた。
「今川の主勢は谷間の道を進んでおります。その数、二万は下りますまい」
「して、戦車の数は?」
森可成の問いに、その武者は答えにくそうに応じた。
「手下の者どもの見立てを合わせますると、五〇輌はおるように見受けられます」
「ごじゅう、じゃと……っ」
居並ぶ諸将の間に動揺が広がった。
無理もない。こちらの倍以上の戦力だ。今川方は、織田家が所有する戦車の総数を越える戦力を投入していることになる。
歯ぎしり混じりの沈黙が広がる中、さらに別の物見の武者が帰ってきた。
「今川方の物見と思われる手勢が、中島砦の西の小山に見受けられまする」
「なんと!」
「足の速い奴らじゃっ」
諸将がまたも声を荒げる。
中島砦は、善照寺砦のさらに南に築かれた織田方の砦だった。
今川方の鳴海城を南から抑えるのが役目だが、<谷間の道>と伊勢湾に流れ込む川とが交わる位置に築かれているため、周囲の街道と水路を扼する重要な砦である。
現在その砦には、守将である梶川平左衛門の手勢に加え、
「御館様!」
という声が方々から覆い被さってきた。献策というより、どうも何かを怒鳴らなければ気が済まないと言った様子だ。
その中でも一際大きな声の主に、信長の目は向けられた。
髭面の大男――柴田
「申せ」
とは促したが、信長はこの男が苦手だった。
そもそも勝家は、弟の信勝派だったのだ。<うつけ者>の信長を嫌い、信勝を当主に据えようとした。
だが、信勝派が敗北してからは一転、赦されたことに感じ入ったのか、信長に忠誠を誓い、何かにつけて盛り立てようと意気込むのだ。
それが暑苦しくてたまらない。
「されば申しあげまする」
勝家の濁声が広間に響く中、信長は目を閉じた。どうせ「打って出ましょう」と言うに違いないのだ。聞くに及ばず……その心境になっていた。
「中島砦の西に見えたという物見の後ろには、今川方の先鋒がおりましょう。さすがに奴らも、まだ戦さ仕度は整ってはおりますまい。ここは打って出てこれを討ち、まずは
ほらきた。と、呆れざるを得ない。打って出て、先鋒を蹴散らし、その後はどうせよというのだ。
その後にはこちらの一〇倍近い今川の主勢(本隊)が待ち受けているというのに。
……とはいえ、勝家の献策にも一理はある。
「それがしも賛同いたしまする」
森可成だ。こちらも勝家と同じく、武勇の士として名高い。
「先鋒に受け入れがたいほどの手傷を負わすことができれば、今川方の歩みも止まりましょう」
そう、それだ。
信長は、わずかにうなずいた。勝家の案を無下に否定できないのも、可成の言うような展開に持ち込めないとも限らないからだ。
「それがしも申しあげまする」
今度は、小柄ではあるが剽悍な男が膝を乗り出した。馬廻衆の一人、服部小平太一忠だ。
「柴田様、森様の企てにそれがしも賛同いたしまする。なれど、それに加えて、さらにもう一押しが肝要かと思われまする」
「もう一押し? 申せ」
「はっ、小勢を送り、沓掛城を襲いまする」
なんと……! との驚きの声が方々から上がった。
尾張と三河の国境に築かれた沓掛城は、現在は今川方の城となっている。
その沓掛城から、両軍が対峙している伊勢湾沿いの最前線までの間には、三本の街道が存在した。
最も北には、主要道である<
最も南には、<大高道>があった。これは沓掛城と、今川方の前線基地である大高城とを直接結ぶ街道である。緒戦の舞台となった丸根砦と鷲津砦は、この街道を扼す位置に築かれていた。
砦を落とした今川の先手衆も、この道を進んできたに違いない。
さらに、この両街道の中間に、丘陵地帯を縫うように伸びる<谷間の道(のちの東海道)>があった。この道の伊勢湾側の出口を塞ぐように築かれているのが、織田方の中島砦である。
今川方の主勢がどの道を進軍路に選ぶにせよ、尾張領内深くへ軍勢を送るとなると、三本の街道の結節点である沓掛城は、重要な拠点となってくる。
それだけに、相応な守備兵が残されていることは想像に難くない。
そのことを、集った武者たちは口々に言い放った。今の我らだけで落とせるわけがない、と。
しかし小平太は動じず、さらに言葉を続けた。
「それがしは落とすとは申しておりませぬ。城攻めの構えを見せれば、今川方も警戒して、さらに多くの兵を割かざるを得なくなるでしょう。当然、主勢の備えは薄くなるものと思われまする」
これには、なるほど……との声が上がった。
しかし信長は、小さく鼻を鳴らしただけだった。
無理に決まっている。こちらはただでさえ劣勢なのだ。それを二手に分けてどうする。どちらの軍勢も、今川の多勢に揉み潰されるに決まっている。
だが、家臣たちは小平太の算段に興奮しはじめていた。勝家を筆頭に猛将連中は、勝てる、これなら勝てるぞ、などと息巻いている。
……阿呆か、こいつら。この程度で勝てるわけがない。
なぜにわしは、こんな阿呆どもを束ね、こんなに苦労せねばならんのだ。
それもこれも、織田家を継いだからに他ならぬ。やはり継ぐべきではなかった。織田家など――。
ふいに、恐ろしい考えが浮かんできて、呼吸が止まりそうになった。鼓動が戦車の生力炉のような速い律動を刻みはじめる。
信長は、思い切ってそれを、脳裏で言葉に表わしてみた。
織田家など、滅んでしまえ。
苦悩の果てに訪れたその一瞬は、とてつもなく甘美で、魅惑的な瞬間だった。
ゆっくりと鼓動が落ち着きを取り戻し、遮断されていた周りの音がやかましく聞こえはじめる。
くよくよと悩むことが馬鹿らしくなった。諦観とも捨て鉢とも違う、不思議な境地に浸っていた。
そうした心境で小平太の献策を思い返してみると、なるほどどうして、なかなかに面白い手立てであるように思えてくる。
はなから今川に勝てないのだ。
それは判っている。だが、ただひとつの目的を完遂するだけなら、手の打ちようはある。
そこに考えが至ると、立て続けに幾つかの算段を思いついた。……どうせなら、面白い仕掛けをしてやろうとまで思ってしまう。
信長は、思わずニヤつく自分を意識した。
「よかろう」
その一言は、自分でも驚くほどに大きく、かつ落ちついていた。
「小平太、おぬしに軽戦車二輌と装甲車三輌を預ける。沓掛城を攻めてみよ。誰を寄騎とするかはわしが決める」
一瞬にして静まりかえった板間に、平伏した服部小平太の声が響いた。
「ははっ、お任せくださりませ!」
「あとの者どもは、わしに続け。中島砦まで陣を進め、今川の先鋒に食らいついてやるわ!」
おお――! と大音声を上げ、床板を踏みならして家臣どもが一斉に立ち上がる光景を、信長は冷ややかに見つめていた。
※ ※
「なんと、ついに御館様がその気になられたか!」
善照寺砦の南方に位置する中島砦では、佐々政次が鼻息を荒くしていた。
「はっ、さようにございます」
使番として中島砦へと派遣された小姓の岩室重休の前には、砦の守将である梶川平左衛門と、主勢に先行した佐々政次、そしてその同格の武者である千秋四郎の三人がいた。
「なれど、戦車の仕度に今しばらくの刻がかかりますれば、お三方におかれましては砦の守りを――」
しっかり固めて本隊の到着を待て、という言葉は、千秋四郎の濁声にかき消された。
「ならば我らも打って出るぞ! 西の丘に迫っておるのは今川方の先鋒であろう。御館様がお着きになる前に奴らを追い散らしてくれるわ!」
「おうよ、これまで鬱々としておった憂さ晴らしよ。我が戦車の砲のサビにしてくれる」
「いや、待て。御館様の御着陣まで砦を守ることが、我らの役目であろう」
守将の梶川平左衛門が言うが、立ち上がった政次と四郎は小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「それはおぬしの役目であろう。我らは征くぞ!」
「お待ちくださりませ!」
二人は引き留める重休の言葉には耳も貸さず、いやそればかりかその存在さえ無視して、大股で陣屋から出て行った。
「戦車を引け――!」
「わしの戦車を持てぇ!」
「お、お待ちくだされ!」
重休はあわてて追うが、政次と四郎のみならず、その従者や足軽までもが気勢を上げており、重休の声はその喧噪の中で揉み潰された。
にわか造りの
下知あればすぐに飛び出さんとかまえていたのか、佐々家と千秋家の郎党は、たちまちの内に出陣準備を整えた。
「押し出せ――!」
戸惑う重休の目の前で、佐々政次の九五式軽戦車が走り出し、木戸をくぐってゆく。
千秋四郎の九五式軽戦車もそれに続き、その後を施条銃を抱えて列をなした足軽どもが追いかけていった。
こうなっては、もはや押しとどめることは不可能。
重休も武者である。二人の逸る気持ちや意気込みは理解できた。
実のところ、使番という役目を仰せつかっていなければ、重休自身も飛び出していただろう。
しかし重休には、御館様より仰せつかった重い役目があった。
「しばしお待ちくださりませ!」
叫びつつ重休は、赤茶色に染められた自分の九七式軽装甲車に駆け戻った。車体後部には赤い
御館様から頂いたこの母衣に賭けて、使番の役目は果たす。重休は、その決意に突き動かされていた。
「抜け駆けはなりませぬぞ、お戻りくだされ!」
重休は操手の腰を蹴り、軽装甲車を駆け出させた。
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