第5話 遠すぎた丘・その一

 織田方の砦が落ちたという知らせがもたらされてから、ずいぶんと刻が経った。

 西の方角、丘を幾つか越えた先に、陥落した二つの砦がある。

 今そちらからは、薄灰色の煙が立ち上っているのが見えた。


 これまでのところ、野戦において織田方の抵抗はない。万事がうまくいっている。


 今川治部大輔義元は、そのふくよかな頬に満足げな笑みをにじませていた。

「松平勢も、粗相なく車働きをしたようにございますな」

 名門の出で、今川家の重臣でもある朝比奈丹波守たんばのかみ元長は、安堵したような表情を浮かべている。

 彼らは今、<谷間の道>を見下ろす丘の上にいた。周辺で一番標高が高いその丘の頂部には、西の方角以外の三方に幔幕まんまくが張られ、内側に二列、床几しょうぎが並べられている。

 そこが、今川方・尾張侵攻軍の本陣であった。


「丸根砦へ使わした松平の若武者……元康と申しましたか。若輩なれど、なかなかに見所のある武者のようで」

 元長の言葉に、本陣の一番奥の床几に腰を据えた義元は、フンッと鼻を鳴らした。

「じゃが、なかなかの野心も抱いておるようだぞ。三河一国を所望しておる様子もある」

 元長は髭に覆われた頬を揺らして笑った。

「なんの、それほどの心意気がなければ、役にも立ちますまい」

「フンッ……まあ、違いない」


 義元は、尾張平定の先を見ていた。

 足利将軍家を盛り立てるために、京へと打って出てもいい。つまりは上洛だ。

 あるいは、力水ちからみずが豊富に採れる伊勢国へと矛を向けてもいいだろう。

 尾張侵攻は、今後のための単なる足掛かりに過ぎない。今川家はさらに、大きく強くなる。

 そのためにも、松平元康のような戦力になる若武者を囲っておくことは、重要な戦略の一つと言えた。


 その元康率いる松平勢は、丸根砦を落としたのちは、その南側に位置する今川方の大高城へ入城し、防備に努めることになっている。

 鷲津砦を攻略した朝比奈泰朝らの軍勢は、その場に留まって本隊の到着を待つと共に、北側の織田の砦を牽制する手筈となっていた。


 沓掛城を進発した今川軍主勢は現在、<谷間の道>を進軍路に選び、全軍を三手に分けて西へと進軍していた。

 この<谷間の道>を選んだのは、一つには織田方の砦に包囲されている鳴海城を後詰するためである。

 さらには、こちらが砦を攻めることで、その後詰に出陣するであろう織田信長の軍勢を補足し、これを撃滅するためであった。

 軍勢の先頭にあり、先鋒(前衛部隊)を務めるのは、遠江とおとうみの国人・井伊直盛が率いる二〇〇〇。

 これに総大将である今川義元の本陣と旗本(直属部隊)を含む中軍(中央部隊)が続いている。


 今、丘の頂に張られた本陣内には、上級の武者が集まっていた。戦況を確認、整理し、今後の方策を定めるためである。

 そこへ、方々からの注進をたずさえた使番が走り込んでくる。

「申しあげます! 鎌倉往還に織田方の動きは見えませぬ」

「織田の主勢は、善照寺砦に入った模様!」

「して、その数は」

「およそ二〇〇〇とのことにござります」

 ほうっ……と、居並ぶ旗本の諸将から声が漏れる。

「大慌てにしては、ようそれだけの数を集めたものよ」

「戦車はどれほどのものか?」

 朝比奈元長の問いに、ひざまずいた使番が答える。

「二〇輌ほど……なれど、その多くは装甲車に見えたとのことにござります」

「これは重畳ちょうじょう

 諸将は皆、膝を叩き、その相好を崩していた。


 今川の主勢は先鋒、中軍、殿軍でんぐん(後衛部隊)を合わせ、三〇輌以上の戦車を装備している。

 松平勢なども加えると五〇輌近い。これに装甲車を合わせれば、実に八〇輌以上の機甲戦力を投入したことになる。

「我らは中軍だけでも戦車二〇輌を持っておりまする。この数を持ってすれば、織田方に勝ち目のあろうはずがない!」

「さようじゃ。先鋒のみでも勝てるのではあるまいか。のう、皆の衆」

 おう、間違いない……と、誰もが己の勝利を疑っていなかった。


 だがその中で、渋い表情の者がいた。

 義元である。

 床几から立ち上がった義元は、幔幕の外に出て、眼光鋭く周囲を見渡した。

 年齢を重ね、頬や腹にも肉はついてきたが、その動きそのものには、武者としての衰えは感じられない。

 義元については、好ましからぬ流言りゅうげんが諸国に広まっている。

 曰く、公家の真似事に熱を入れ、化粧までしている。あるいは、武芸を磨くことを嫌い、戦車にも乗れない――といった具合だ。

 しかし義元は、あえてその類いの流言を放っておいた。むしろ振りまくことを奨励したほどだ。それで敵方がこちらを軽んじ、油断してくれるならありがたい。

 実際に戦さ場で対面した敵は驚くだろう。自ら戦車に乗り、浅黒く太い手で采配を振り、眼光鋭く下知を飛ばす義元を目撃するのだから――。


「……間延びし過ぎではあるまいか」

 ぽつりと漏らした義元に、後に続いていた元長が眉をひそめた。

「いかがなされました?」

「見よ」

 義元は谷筋に伸びる街道を、手にした軍配団扇ぐんばいうちわで指し示した。施条銃を手にした足軽どもが隊列を組み、西へと攻め上っている。

 だが、中軍だけでも一万の兵がいるため、その行軍隊列は長く伸びていた。

 さらには、中軍自体がいくつかの小勢に別れているため、義元本陣には旗本を主力とした二〇〇〇ほどの士卒がいるのみだ。

 しかも使番の注進によれば、侵攻軍の最後尾を受けもつ殿軍は、まだ沓掛城の近くでもたついているという。

 二万の数を誇るとはいえ、今川軍全体が街道上で長く伸びきっている。義元には、それが危険をはらんでいるように思えてならない。


「織田方が、横合いから攻めかかってくると、そうお思いなのですな」

 元長の言葉に義元はうなずく。

「わしが上総介信長なら、こちらが勝ちに浮かれているところを攻めかかる。それも敵の本陣めがけてな」

 むぅ……と背後の諸将が一斉に顔をしかめた。

「ここは国境くにざかいとはいえ、尾張の国には違いない。我らの知らぬ間道も、奴らなら知っておろう。それを利用し、我らの側背に回ることがないとは言い切れぬ」

 義元の推察に、諸将は色の変わった顔を見合わせた。

 振り返った義元は、どこか面白がるように言葉を継ぐ。

「長く伸びた隊列は、容易く断ち割られようて。さすれば、わしの本陣まで遮るものは何もない」

「何と仰せか! さような時は、わしがこの身を盾に御館様をお守りいたす!」

 一人が声を上げると、諸将は我先に身を乗り出した。

「わしもじゃ。それが我ら旗本の役目」

「むろん、わしもじゃ」

「それがしも身を挺しますぞ!」

「そろいも揃って、阿呆か、おぬしら!」

 声を荒げたのは義元だった。

「さような事にならぬよう手立てを講ずるのが、おぬしらの仕事であろうが!」

「……」

 ぐうの音も出ないとはこのことで、ばつが悪そうに諸将は肩をすくめ合った。


「丹波」

「はっ」

 諸将の列に加わっていなかった元長が、嬉しそうに頭を垂れる。

「手勢を谷筋ではなく、尾根筋で進ませろ。よしんば織田方が横合いから攻め寄せてきたならば、初手しょてにぶつかった手勢は強くは当たらず、谷筋へ退き下がるよう伝えよ」

「……なるほど。敵を谷へと誘い込み、そこを周りの尾根にいる手勢で取り囲むという算段でありますな」

 義元がニヤリと歯を見せた時、また一人の使番が走り寄ってきた。

「先鋒大将の井伊様よりご注進! 中島砦の織田勢、戦車を前にして攻め寄せてきたとのことにございます」

「ほう。中島砦の手勢は五、六〇〇との読みであったな」

「はっ、戦車、装甲車の類いは、たかだか二、三輌とのことですが」

 元長が答えると、義元は不敵な笑みを見せた。

「それだけの手勢をわしが率いれば、こちらの先鋒程度の軍勢など、一ひねりであろうがな」

「油断は禁物……ということですな。さように全軍に伝えましょうぞ」


「御館様!」

 義元の前に勢いよくひざまずいたのは、松井左衛門佐さえもんのすけ宗信であった。家中でも勇壮の士として知られる男だ。

「それがしを先鋒にお加えくだされ! 必ずや織田勢を粉みじんにしてくれましょう」

「今よりか? ならぬ。先鋒の井伊直盛は、すでに迎え撃つ手筈を整えておろう。そこへおぬしが出張れば無用な混乱を招くだけじゃ」

「なれど……」

「中軍の前備まえぞなえへ向かえ、左衛門佐」

 前備とは、一個の軍勢の前方を任される部隊である。中軍内の前備となると――つまりは先鋒のすぐ後方につけ、と命じたのである。

「もしや織田方が井伊勢を追い散らすようなことがあれば、おぬしが頼りじゃ」

 宗信は感極まったように目を見張り、勢いよく頭を垂れた。

「必ずや、ご期待に副ってごらん入れまする!」

「前備には早打砲も配してある。それも用いて、守りを密にせよ」

「はっ」


 走り去る宗信を見送った義元は、北西の方角に目をやった。<谷間の道>の終点であり、織田方の中島砦がある方だ。

 しかし、幾重にも重なる丘陵の斜面に邪魔され、街道の先を見通すことはできなかった。戦さの様子が判らないというのは、なんとも落ちつかぬ心持ちだった。

「……ん?」

 額にかすかな冷たさを感じ、天を見上げた。

 ヒュッと生温かい風が吹いたかと思うと、にわかに大粒の雨が落ちはじめた。

「丹波! 見張りを厳しくせよ。この雨に身を隠し、織田勢が攻めくるとも限らぬぞ」

「はっ」

 そうだ、油断さえしなければ、我らが織田に負けるはずがないのだ。

 今一度、谷筋の彼方に目をやった。ますます激しくなる雨は、辺りの景色を灰色の霞の中に塗り込めてしまっている。

 遠くの丘は、もはや輪郭さえつかめない。

「やはり見えぬか」

 なぜかそれが、不安に思えてならない義元だった。



          ※          ※



「おぬしのせいじゃ! 道に迷ってしもうたではないかっ」

 赤母衣衆の一員であることを示す赤茶色に染め上げられた九七式軽装甲車の砲塔内で、前田又左衛門またざえもん利家は吠えていた。

「この辺りの山道は勝手知ったるものでございます故、お任せくだされ……などと申したのはおぬしじゃぞ!」

 若い、張りのある頬が、真っ赤に染まっている。眉間に深々と皺を寄せて歯をむく様は、<犬合わせ>の闘犬のようだ。

「面目次第もござりませぬ。この辺りの山で遊んでおったのは、又左様にお仕えする以前のことでして……」

 すまなそうには言うが、その表情に緊張感がない男は、利家の従者、森野小助である。

 従者は日常の世話のみならず、戦さ場にあっては主人を助けて働く。かつては主人の死角となる位置を護ってやりを振るったため、「脇鑓わきやり」などとも称される。

 だが現在の小助の役目は、利家が所有する九七式軽装甲車の操手あやつりてであった。


 二人の乗る軽装甲車は今、緑が匂い立つ小山に囲まれた、深閑とする谷間にいた。

「どうするのじゃ、間に合わぬときはいかがいたすのじゃ!」

 怒鳴りつつ、砲塔上面の天蓋を弾き開け、利家は身を乗り出した。

 途端に、ザッと雨が被さってくる。

 雨の音、自車の生力炉の音しか聞こえない。

「なんたることか……」

 利家は頭を抱えた。

「御館様――! どちらにおられましょうや!」

 叫びは空しく、雨音にかき消された。


「御館様、御出陣!」

 という報を受けた時、利家は出陣をためらった。

 出仕停止処分という謹慎の身だったからだ。

 出陣すれば、それは「出仕」ということになる。主君からの赦しなくそれを行えば、さらなる厳罰を受けることになりかねない。

 しかし織田家存亡のこの危機に、じっとしていることなど利家にはできなかった。

 それに、背中を押してくれる者もいた。森可成である。

「手勢を率いて参じよ。敵戦車の一つも討ち取れば、御館様の勘気も薄れようて」

 そう言って参陣することを勧めてくれたのである。

 御館様からの下知を優先すべきか、それとも森殿の計らいを受け入れるべきか。

 迷いに迷った末、ついに利家は出陣を決意したのであった。

 手勢を率いて……とは言われても、御館様の命で付けられた寄騎衆(配下となる武者)を引き連れてゆくわけにはいかなかった。

 命令違反を彼らにも押しつけることになるからである。

 そこで利家は、自弁の九七式軽装甲車一輌と、従者の小助のみで出陣することを選んだ。

 しかし迷っている間に、織田の主勢はすでに清洲城を発ったという。そこで利家は、街道をそれて近道をすることで主勢に追いつこうとした。

 その際、

「それがしは童の頃、国境のこの辺りの城にあずけられておった故、山道には詳しゅうございます。お任せくだされ」

 と言う小助の言葉を信じ、緑深い山道へと装甲車を進ませたのだった。


「それがどうじゃ、このざまよ!」

 腹立ちまぎれに小助の背中を蹴る。蹴る。蹴りつける。

「おやめくだされ、痛ぅございます」

「なんの、わしの胸裡の痛さに比べれば、これしき蚊に刺されたようなものじゃ」

 さらに蹴る。

「ご容赦をっ。お赦しくだされ犬千代様」

「黙れ、その幼名でわしを呼んでいいのは御館様だけじゃ! 痴れ者め」

 ついには後ろから手をかけ、首を絞めはじめる。

「ぐぇ、ごよぅじゃぼぅ……」

 小姓として長年にわたり信長に仕え、その寵愛を受けてきた利家は、主君のこととなると見境をなくすところがある。

 茶坊主を手にかけたのも、信長の眼前でその坊主に恥をかかされたことに、いたたまれなくなったからだ。

 今にして思えば何と馬鹿なことを……と思いはすれど、振り返って嘆くことは利家の性に合わなかった。

 とにかく突き進む。進むことでしか変えられぬものがある。

 武者の家に生まれたからにはなおさらだ。


 狭い車内で小助を突き飛ばして解放した利家は、もう一度、天蓋を開いて顔を出した。

 雨脚は、先ほどよりは弱まっているようだ。

 げほげほ……とむせていた小助が、少しでも空気を吸い込もうとしたのか、車体前面の装甲化された小窓を開けた。

「……あ!」

 その声に気づいて車内に潜り込んだ利家に、小助はニコリと笑って見せた。

「あの向かいの山は見覚えがございます。もはや迷いはいたしませぬよ」

 小助は意気揚々と変速機の槓桿こうかん(レバー)を「常歩なみあし」に入れ、軽装甲車を前進させはじめた。

「相違はないのだな?」

 疑わしげに訊ねる利家に、小助はドンッと胸を叩いた。

「お任せくださりませ!」

 先ほどもそう言ぅたではないか……との言葉を呑み込み、苛立ちを込めた蹴りを食らわせる。

 それでも小助は怯まず、変速機を「速歩はやあし(時速約一三キロ)」に叩き込んだ。

 利家は開いたままの天蓋に手をかけて砲塔から身を乗り出し、前方から降りかかる雨に目を細めながら、彼方の谷間をにらみ据えた。

「待っていてくだされ、御館様」

 高まる生力炉の轟音、そして車速に併せて、気持ちが昂ぶってくる。

「おぅやぁかたぁさま――!」

 感情をはき出すため、吠えずにはいられない利家だった。

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