第3話 信長のいちばん長い日・その一

「今川方の軍勢、丸根、鷲津の両砦に攻め寄せておるとのことにございます」

 その注進(報告)を清洲城の奥の居室で聞いた時、織田上総介信長は夜具を蹴飛ばして立ち上がった。

 神経質そうな細面に、びっしりと汗粒が張りついている。

 一寝入りすれば良い知恵も浮かぶかと思ったが、結局一睡もできなかった。


 逃げよう……!


 まず思ったことが、それである。


 五月十九日の明け方。縁側に面した障子の向こうからは薄らと光がにじみ、外に控える小姓の影をぼんやりと浮かび上がらせていた。

「犬か」

「……いえ、重休にございます」

 ふいに信長は思い出した。

 最も信頼し、いつも傍らに置いていた小姓あがりの若武者――犬千代こと前田又左衛門利家は、誰でもない信長自身が出仕禁止を命じていたのだった。

 不安に押しつぶされそうなこんな時こそ、犬千代に傍らにいて欲しかった。

 ……とはいえ、悪いのはあいつだ。わしの縁者でもある茶坊主・拾阿弥じゅうあみと諍いを起こし、あろう事かわしの面前で拾阿弥を切り捨てたのだから。

 出仕禁止にでもしなければ、家臣らへの示しがつかないではないか。

 そこまで考えて、信長は我に返った。くよくよと過去を振り返っている場合ではない。

「御館様」

 障子の向こうから声がかかる。焦っているような声音だ。小姓の一人、岩室重休いわむろしげやすは、これからどう動くべきか下知を待っているのだ。

「むぅ……」

 信長は我知らず首の後ろをかきむしっていた。

 面倒なことになった。

 今川義元に率いられた今川方の大軍が尾張へと侵攻している。物見の注進によれば、その数は二万に達するという。

 今川家の現当主は氏真であるが、今川家を三国にまたがる勢力にまで育て上げたのは、前当主の義元である。<海道一の車取り>との異名も伊達ではない。

 その義元が、二万の軍勢で尾張へと攻め込んできた。


 今川勢が尾張の国境を侵し、沓掛城へ入ったとの知らせを受けたのは、二日前のことだった。

 織田家の本拠である清洲城に家臣どもが集い、いかに対処すべきか談合したものの、籠城すべきか打って出るべきか結論は出ぬまま、散会となっていた。

 というより、信長が決断できなかったのだ。

 どちらの策を採択するにせよ、信長が「支度せぇ」と命じていれば、今頃は織田の軍勢が一丸となって事に当たっているはずだった。

 しかし、どちらを選んだところで、織田家の勝ち目は薄い。とはいえ、織田家にとって……いや、正直に言えば信長個人にとって、よりよき道がどこかにあるはずなのだ。

 それがどこかが判らない故、どちらの策を支持すべきか、決断できないでいるのだ。

 そのため織田の軍勢は今も、籠城の準備も出撃の仕度も調わぬまま、今川軍が尾張領内を荒らすのを、眺めることしかできないでいる。


 やはり逃げよう。


 どうしても、そこへ帰ってきてしまう。

 だが、無理もないではないか。と、信長は己を弁護する。

 織田家はまだ、尾張一国の支配確立を達成したばかりだ。

 しかも弟・勘十郎信勝とその一党が家督の簒奪を狙って起こした内訌の影響も、未だ完全におさまったとは言い難い。

 信長の家督相続を苦々しく思っている者も、尾張領内には依然として少なくない。家中の人心掌握が未完である現在、今川勢に対抗しうる軍勢を集めることは、まずもって難しい。


「……御館様」

「わかっておる!」

 つい声を荒げてしまう。

 体中をかきむしりながら、信長は居室の中を歩き回った。それで何かの知恵が出るわけではなかったが、そうでもしなければ本当に城から飛び出し、どこかへ逃げ去ってしまいそうだった。

「御館様、何を為されておいでで?」

 苛立ちの混じった足音を聞きつけたのだろう、重休が不審げな声を上げた。

「こ、これは……舞いじゃ、敦盛あつもりを舞っておるのよ。心持ちを沈めるためにのぅ」

「さすがは御館様。かような危急の時にも、落ちついておられる」

「お、おうよ」

 誤魔化した手前、信長は本当に幸若舞こうわかまいの「敦盛」を舞いはじめた。

 こうやって舞い踊って、安寧と暮らしてゆければ、なんと楽しきことか。


 どうしてこんなことになったのか? 


 わしは、ただ自儘じままに、自らにって生きたいだけであるのに――。

 父・信秀が健在であった頃は、そうした生き方も許された……というより、それを押し通した。

 それ故<うつけ者>などと呼ばれたこともある。

 だがその屈辱の日々も、御家を背負って立つ事に比べれば、なんと気軽なものであったことか。

 織田家など、弟の信勝にくれてやればよかった。若い身空で隠居して、城の一つももらって、小姓たちと気ままな暮らしができればそれでよい。

 本気でそう考えることが、しばしばある。

 ……いや、待てまて。もし家督を譲っても、あの高慢ちきなくせに小心者の信勝のこと、必ずやわしの命を奪ったに違いないのだ。

 そう、わしが信勝の命をこの手で奪ったように――。

 当主として織田家を背負うことは苦痛だが、死を受け入れるのは耐えがたい。

 どちらを選ぶかと言われたら――不承不承だが、前者を選ばざるを得なかったのだ。


 その時、ドタドタと縁側を踏みならす足音が障子の前で止まった。

「御館様」

 この声は小姓の一人、加藤弥三郎だ。

「申しあげます。今川方、砦攻めに一〇輌ほどの戦車を使ぅておるとの由にございます」

「なんと……!」

 信長は思わず、障子を勢いよく開け放った。

「たかが砦二つに、それだけの数を当てておるじゃと?」

「はっ、物見が申すには、その音から判じるに、各々五輌ほどは出張っておるのでは、と」

 むぅ……と信長は呻いた。

「今川のやつら、いったいどれほどの戦車を引き連れておるのじゃ」

 砦攻めを任されているのは、先手さきて(先鋒部隊)の軍である「他国衆」であろう。それが一〇輌もの戦車を備えているとなると、今川の本隊はその倍以上、おそらくは四倍の戦車を備えている公算が高い。

「御館様」

 ずいっと、膝を進めたのは重休だ。

「我らも急ぎ車を集めてはいかがでしょう。方々に号令をかければ、一〇や二〇はすぐに集まりましょう」

 そうだ。籠城にしても打って出るにしても、相手が戦車であるならば、こちらも戦車をかき集めねばならない。

 肝心なことを忘れていた。信長は改めて、己の混乱ぶりを自覚した。

「弥三郎、使番を走らせよ。者どもに車を率いて参じるよう、伝えて回るのじゃ」

「はっ。して、どちらへ参じるようお伝えすれば……」

 信長は言葉に詰まった。


 ついに決断の時がきた。


 清洲だ。籠城だ……と言いかけた瞬間、ふいに脳裏に、戦車の砲撃で火の海となる清洲城と、その城下が浮かんできた。

「ろ、ろぅ……うぅ……」

「はい?」

 この地を今川の輩に荒らされるのは癪に障る。

 では、どうする……手立てを間違っては織田家の破滅だ、安穏とした暮らしも夢幻のごとくなり、だ。

 なんとか善処せねば――。

「ぜん、ぜ……そう、善照寺砦じゃ!」

 善照寺砦は今川方の鳴海城を囲んでいる砦の一つで、丸根・鷲津の両砦とは、小山を挟んで北側に位置している。後詰に赴くとなれば、そこが最前線の拠点となろう。

 信長の決断を聞いて、弥三郎は気色ばんだ顔を上げた。

「では、城より打って出るのでございますね!」

 こうなっては引き返せない。

「しょ、初手からその腹づもりよ! わしの戦車を大手へ回せ。出陣じゃ!」

 勢いに任せて叫んではみたものの、やはり何の手立ても浮かんではいなかった。


 ――信長の長く苦しい一日は、このときに始まったのだった。



 払暁、信長は五人の小姓を引き連れ、清洲城を出立した。それと同時に、自分の居館や近傍の城へ帰還していた家臣たちに対し、善照寺砦へ参集するよう下知が飛ばされた。

 街道を南へとひた走った信長の手勢は、辰の刻(午前8時頃)には熱田神宮へ至り、戦勝祈願を執り行った。熱田神宮は、今川方が攻め寄せている最前線と、信長の居城である清洲城との、ほぼ中間に位置している。

「ここに祀られておるヤマトタケルノミコトは、国中を成敗して回ったそうでありまするが……」

 祈願を終え、戦車のところへ戻る道すがら、黒母衣衆くろほろしゅう 筆頭の河尻与兵衛秀隆が感慨深げに話しはじめた。

 黒母衣衆とは、身辺警護の親衛隊とも言うべき馬廻衆の中から、さらに選りすぐられた武者によって編成された精鋭中の精鋭である。

 その精鋭部隊の筆頭である秀隆は、「御館様、御出陣」の報を受けて押っ取り刀で駆けつけ、熱田神宮で追いついたのである。

 この危急の事態にも動じた様子はなく、いかめしい相貌には笑みさえ浮かんでいた。

「あの時代に戦車があれば、わしの成敗の旅も楽であったろうに……などと思われておるやもしれませんな」

「……さようであるかもな」

 生返事をしながら、信長は前方の草地に停めた自らの戦車を見やった。

 装甲板を複雑に張り合わせて形作った車体に、平べったい円筒形の砲塔が乗り、そこから短めの主砲が突き出している。


 九七式中戦車だ。


 皇紀二一九七年に山城国の戦車鍛冶、来派によって初めて打たれたその戦車は、九五式軽戦車よりも一回り大きく、倍ほども重い。「中戦車」に分類されるのもそのためだ。

 操手あやつりて、鉄砲手、込手こめてを兼ねる放手はなちて、そして車頭くるまがしらの四人乗りで、砲塔には短砲身の五七粍戦車砲を備える。最厚部で二五粍厚の装甲は、一五〇米の距離から放たれた早打砲の三七粍徹甲弾にも耐えた実績があった。

 その九七式中戦車は信長の好みにより、外板を黒色と二種類の茶色で雲形に塗り分け、その上から稲妻のような黄色い帯を書き込んでいた。

 砲身基部には織田家の家紋をあしらい、金箔が押された鍬形くわがた前立まえだてが備わっている。

 見る者によっては「汚い」と感じる塗色が施された車体上には、二人の武者があぐらをかいていた。信長の姿を見るとあわてて立ち上がり、転がるように降りてくる。

「ただいま出立の備えをしておりまする。しばしお待ちくだされ」

 操手の加藤弥三郎が胸を叩かんばかりの勢いで言う。

「大砲は支障ござりません」

 冷静な顔つきでうなずくのは毛利新助良勝、優秀な放手だ。

「腕が鳴りまするぞ、御館様」

 鉄砲手の佐脇良之が、車体上面の天蓋から顔を出し、不敵に笑って見せている。

 この三人が、信長車の乗員であった。

 信長の九七式中戦車は山城国の長谷部派によって模倣されたもので、車体前面と砲塔前面部分に二〇粍厚の増加装甲が張りつけられていた。

 それにしても――と、信長は愛車を見やりながら考えた。

 伝来当初は<鉄甲車>とも呼ばれた自走する鋼鉄の甲冑。

 戦車とは、なんと不可思議なものなのだろう、と。




 十五世紀末葉にイングランドで発明された戦車の生産技術は、瞬く間にヨーロッパ全土に伝播した。

 後装式ライフル銃の実用化から戦車が各国に普及するまでの約一〇〇年は、奇跡と呼ぶしかないその劇的な発展度合いから、兵器史、そして人類史においても「チート(イカサマ)な世紀」と呼ばれることになる。

 戦車が普及したヨーロッパでは、戦車全部を作れずとも、生力炉のみ、あるいは戦車砲のみを生産する工房も現れ、生産国が違うにもかかわらず、同じ部品を用いているという車種も珍しくなくなった。

 各国間で度量衡の統一が図られたのも、その過程においてであった。

 戦車は概して高価であったため、多くは王家や貴族によって所有された。それゆえ必然的に、戦車の乗員は貴族階級、あるいは騎士階級の者に限られた。

 その結果、ライフル銃の登場によって時代遅れとなっていた騎士たちが、再び脚光を浴びることになった。彼らは金属の鎧を脱ぎ捨て、新たに戦車に乗って戦場へと舞い戻ってきたのである。



 さらにこの時期、大量の戦車を装備したスペイン、ポルトガルが旧態依然としたイスラム教勢力を打破し、奪われていた国土の奪還政策――レコンキスタを成功させた。

 それにより、イスラム文化圏の技術がヨーロッパにも流れ込み、医術や航海術を発展させることとなった。

 いち早く新しい航海術を会得したスペイン、ポルトガル両国は、世界各地へと植民の手を伸ばしはじめる。そしてその触手の一端が触れた中に、日本という国も含まれていた。

 西暦1513年――永正十年、マレー半島のマラッカを拠点としたポルトガル人によって、後装式ライフル銃が日本へと伝えられた。その翌年には各地で鉄砲鍛冶が生まれ、ライフル銃は瞬く間に日本中へと広まっていった。

 そして西暦1522年――大永二年。

 その年は、ポルトガル船によって日本に初めて戦車が持ち込まれた、戦車伝来の年として記録されている。

 そのポルトガル船に積み込まれていた戦車は、イングランド製のガーデン・ロイド――正しくは装甲車で、日本では頭文字を取って賀式と呼ばれる――であったが、数年の内に同じくイングランド製のホイペット(保式)、フランス製のルノー(留式)なども輸入され、各地の大名たちがこぞって買い求めた。


 さらにそれより数年の内には、戦車の構造を正しく理解し、模倣することを生業とする者たちが国内にも出現しはじめる。いわゆる戦車鍛冶の集団である。

 彼らはただ模倣するだけでなく、そのうちに日本の武者好みの戦車を打ちはじめた。日本の戦車鍛冶が設計した国産初の戦車は、山城国の三条派が打ち、天皇家へと献上された。

 皇紀二一八九年・享禄二年(西暦1529年)製で、三条派によって「八九式」と名づけられたその戦車は、瞬く間に各地の戦車鍛冶によって模倣され、全国へと広まっていった。

 とはいえ、これらの戦車は高価であったため、ヨーロッパと同じく、経済力のある大名家でなければ数を揃えることができなかった。戦車の乗員が武者であるのも、それが騎馬に取って代わったというだけでなく、武者にしか所有できず、また高度な教養がなければ操作もできないからであった。

 今や戦車の保有数――それすなわち、その大名家の精強さを計る物差しとなっていた。

 戦車の台数の多寡が、勝敗を決める時代となりつつあるのである。




 信長は愛車に乗り込み、左右に目を走らせた。

 九七式中戦車は信長の一輌のみである。黒母衣衆の河尻秀隆は九五式軽戦車に乗っている。

 他には小型の九七式軽装甲車が五輌と、旧式の九二式重装甲車が付きしたがっているだけだ。

 織田家が保有する戦車は、譜代家臣の所有戦車を含めても、八九式中戦車五輌、九五式軽戦車九輌、九七式中戦車四輌にすぎない。

 後は、信長の小姓衆が用いる九七式軽装甲車七輌と、戦車を自弁できぬ家臣らが持つ九二式重装甲車や九四式軽装甲車が一〇数輌あるのみだ。

 果たしてこの戦力で、今川勢相手に何ができるというのだ? またも、鬱々とした気持ちが首をもたげてくる。


 保有戦車のうち最も旧式で、低速なうえ故障しがちで機動戦には不向きな八九式は、拠点の防衛戦力に活用されている。

 二輌は清洲城の防備に留め置かれ、残りの三輌は丸根砦、鷲津砦、丹下砦に一輌ずつを入れていた。


 九七式軽装甲車は、その名の通り大砲を備えない、鉄砲のみを装備した軽便な装甲戦闘車両である。九四式軽装甲車を大きくしたような楔形の車体に、物見塔を持たない円筒形の砲塔が乗っている。

 しかし織田家のそれは、戦車の保有数を補う目的の特注品で、砲塔に九五式軽戦車と同じ三七粍砲を備えていた。装甲は最厚部で一二粍と薄いが、砲撃力のみなら中戦車とも張り合える。それが救いと言えば救いだった。


 馬廻衆である魚住隼人と佐久間弥太郎が持ち込んだ九二式重装甲車は、それよりも古く、すでに旧式化しつつある物だ。簡素な箱組の車体に鉄砲を備えた小さな砲塔が乗っており、車体前面右側には口径一三粍の大鉄砲おおでっぽうの銃身が突き出している。

 大きさは九七式軽装甲車とさほど変わらないが、装甲は最厚部でも六粍しかない。それでも<重>装甲車と呼ばれるのは、鉄砲を二挺装備し、うち一挺が大鉄砲であるからだ。

 軽戦車や装甲車が相手なら戦力に数えられるが、中戦車が相手では荷が重い。


「申しあげます」

 小姓の加藤弥三郎が信長車の側にひざまずいた。

「全車、力水ちからみずの付け足し、終わりましてございます」

「うむ」

 力水とは、戦車の動力である生力炉を動かすことのできる、燃える水のことである。

 西洋では「フューエル」と呼ばれ、太古の昔から神社仏閣などの神仏と縁の深い場所に湧き出るこの水は、火をつけると派手に燃えすぎるため使い勝手が悪く、戦さ場以外ではあまり使用されてこなかった。

 それが戦車の伝来以降、生力炉を動かす原料として大いに用いられているのである。

 またこの力水は、天日干しすることで粉状となるが、これは鉄砲や大砲に不可欠の火薬の原料ともなった。

 つまりはこの力水なくして、当世の戦さは遂行し得ないのである。

 この度の今川勢の尾張侵攻も、一つには熱田神宮の力水を狙ってのことであろうと、信長は推察していた。

 戦車も重要であるが、それと同様に、燃料となる力水、そして大砲や施条銃に欠かせぬ火薬、これらの産出地を領内に抱え込むことが、大名家の命運を左右した。

 逃げたいと思いつつも、信長がその行動に踏み切れぬのも、尾張南部を失うことが織田家の衰亡に直結していることを知るからに他ならない。

 御家を護るのは面倒だが、滅されるのも御免こうむる。その狭間で苦悩する信長なのであった。

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