第27話まことの妊娠 三
妊娠六ヶ月に入り、腹部がだいぶ目立ってきた。産婦人科医によると、胎児は男の子だそうだ。
それを聞いて人間の私が宇宙人を産むことになる、と心底驚いた。
けれど不思議なことに、この子に対する愛情は萎えない。私にとって、田川姓を名乗るたった一人の家族になるのだ。
約四ヶ月後の出産を楽しみに、鼻歌交じりにあの女の施設に向かう途中、長年の知己に遭遇した。
「やはり、あなたは……」
それが、第一声だった。
かつて私の保護監督者であった吉田清仁は、私の腹部とそこに重ねる左手に目をやった。
左手の薬指に指輪をはめていないことを、吉田さんは逃さなかった。
「とりあえず、そこにある喫茶店に入りましょう。今回は僕がご馳走しますから」
「え、でもお仕事の途中では? それに私は面会に……」
「入りましょう」
私の目を見ず、こげ茶色の扉を開けたので、私は仕方がなく彼についていくことにした。
私が店に入るまで、吉田さんは扉を押さえていてくれた。身重の私を焦らせることもなかった。あと二年もすれば私は三十歳になけれど、いまだに彼に保護監督されている子どものようだった。紳士的で、十二歳の私を性的対象として見ない。
店員に案内され禁煙席に辿り着くと、吉田さんは店員に聞かれるより先に、ホットレモンティーを二人分注文した。身重の女性の扱いを心得ているようだ。
「あなたもご存じだと思いますが、依頼人は一人だけではありません。さまざまな事情を抱えたさまざまな人が大勢いらっしゃいます。あなたのお父さんも、その一人でした」
彼の話し方によると、妊婦の離婚問題も扱った経験があるということになる。それにより、結婚こそしていない私の事情をも察したのだろう。
「新しい命を否定するつもりはありません。むしろ歓迎するべきです。ですが、あなたの場合、それだけではない」
積み重ねた歳と経験で鋭くなる視線に、私は両腕で膨らんだ腹部を、わが子を庇った。
「どうしてそんな風に言うのですか? 私が子どもを産んではいけないみたいに……」
吉田さんの両腕が、私から奪おうとしているように見えた。かつての初対面以来、久しぶりに彼自身に違和感を抱いた。
「あなたが母親になることは本来、喜ばしいことです。しかし……」
ホットレモンティーが運ばれ、彼はいったん言葉を絶った。店員がカウンターに入るのを見計らい、低い声が再び私の心を突き始める。
「あなたがなぜ、血縁のない秀丸さんへの警戒心がなかったのか、ご自覚がおありですか?」
喫茶店に入って初めて、父の名が出た。それも、意外な質問で。
私はつい、未婚での出産を父が嘆く、とでも言うかと思っていたのだ。
「父は素晴らしい有徳者でした。なぜ、警戒しなければならないのですか?」
「確かに、秀丸さんはあなたにとって、最高のお父さんでしょう。けれど、僕が言いたいのは、一人の男性としての場合です。思い当たりませんか?」
私は首を傾げた。彼の意図がまったく想像できなかった。
父は血縁のない私を受け入れ、不自由な体で精一杯、うさぎの富美子から守ってくれた。己の死期を悟ると、私が将来経済的にも精神的にも苦労しないで済むよう、吉田さん通して手配してくれた。そんな人をなぜ、警戒することも、一人の男性として見る必要があるのだろうか。相手が父だから、心を開き
心の温もりを知ったというのに。
「あなたほど賢い人でも、本当に気付きませんか? 秀丸さんと、僕を含め他の男性と明らかに異なる点が」
「……それで差別するというのであれば、私はあなたを本気で軽蔑します。私の保護監督者になってくれたことも、こうして一緒にお茶していることも、後悔します」
私の答えは、彼だけに放ったものではない。私自身もが知ってしまったからだ。
どれほど優れた徳を持っていても、人である限り、欲が潜んでいる。
女性である私が、性的に触れられないとも限らない。
けれど父には、慈しむことも辱めることもできなかった。
私はそのことに安堵し、献身的な介護ができた。
職場で入居者とは心の距離を置いても、父とはその距離を縮められた。
最期まで、父には両腕がなかったからだ。
無自覚とはいえ、父を軽蔑していたのだと悔しく、憎むべき存在が一つ増えたーー私自身だ。
あの女が地位や財産で男を選んできたように、私は両腕の有無で男性を見てきたのだ。
実際、私が男性と肌を重ねた日、相手のことが人の形をした種にしか見えなかった。復讐のためとはいえ、本心では行為そのものが恐ろしくてたまらなかった。
そうでない男性であっても、両腕があるというだけで警戒し続けた。この二十八年間の人生で、ずっと。
男を見る基準は違えても、いつの間にか私はあの女のような生き方を、果てにはあの女と同じ妊娠をしてしまった。
このままでは、いつか私のように、私生児として生まれるわが子が、母親の私を憎む日が来るだろう。
胎児のまま闇に侵されないよう、私は今ここで己の憎しみを捨てるべきだろうか。
父の死をただの不幸な事故とみなして。
「お父さんのご遺言をも、無きものにしないでください。本来の聡明さと優しいお心でお子さんをお育てください……これが、僕の最後のアドバイスです」
吉田さんは伝票を手に、レジへと向かい、そのまま姿を消した。
一人残された私は、冷めたレモンティーを一口飲み、深呼吸した。
私の思いを、どちらも叶えるために。
ティーカップの中に凝縮されたレモンの酸味が、私の目を覚ましてくれた。
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