第15話動揺と闇の誕生 四
お父さんはどこ……?
その一心で、揺れ動く視界の中で人影を見付け出しじっくりと見据える。
胡座をかいた両脚、中身のない二本の袖、
そこで一度瞼を閉じてグッと持ち上げ、首を垂直に伸ばす。それが精一杯の勇気だった。
「まこと」
二つの視線が交わり、互いの姿が映し出される。一方は他人を拒む子ども。その私を見つめているのはーー。
「その紙、見るのも辛いだろう? こっちに持って来なさい」
無数の皺を刻んだ左右の目尻、両端が上がり猫舌を隠し切れていない唇。そして、持たない手を伸ばす代わりに上下に揺れる両肩を、私は知っている。
父が、帰って来たのだ。
知らない人はもう、この場にいない。
それだけで、私はあっさりと捨ててしまった。血の繋がり、私に対する嫌悪、あの女への未練、今まで抱えていた幾つもの疑惑を。
足取りは軽く流れるように進み、膝は父と向き合う形で、当然のように床の上に舞い落ちる。
腕がしなるように上がり父の目線に辿り着くまで、離婚届はガサガサと音を立てて揺れる。
瞬く間に父の目尻からは皺が減る。涙こそ流していないけれど、表情が影に染まる。
やはりあのとき、私と同じものを見ていたのだーー知らない人の影に隠れて。
帰りがもっと早ければ良かったのに。
「……そんなこと言ったって、持てないじゃない」
「ん? ああ、そうだった。お父さん、うっかり忘れていたよ」
尖った唇はもどかしく動き、可愛げのない言葉しか出てこない。
そんな私の前で、父は上半身を左右に捻る。鯉のぼりのように、中身のない二本の袖が泳ぐ。
影を皺と皺の間に押し込み、父の笑い声は普段よりも大袈裟でトーンが高い。
自分の体を、傷付いたはずの心を誰よりも知っているのに。
どんなときも、父は他の誰かを気にかける。
初めて会った日、他人だった子どものために猫舌を使ったように。
「そうだ、まこと。お昼まで少し早いけれど、お腹空いていないか?」
壁時計を見ると、十一時三十分を過ぎていた。
日曜日、学校が休みの日は、昼食の準備も私の仕事だというのに、すっかり忘れていた。
「……あっ! ご、ごめんなさ……」
今度は私が、子どもらしいキンと響く声を上げてしまう。
父に突き出したままの曲げていた指は、五本ともピンと伸びる。
離婚届が宙に舞うと同時に、台所へと勢い良く駆け出す。
猫舌で両腕がない父のために、料理の熱を冷ましスプーンから
約一ヶ月間毎日繰り返してきた仕事を、たった一枚の紙に狂わされる。
台所にあるエプロンを掴んだものの、メニューが思い浮かばない。
私のお腹は焦りで膨らみ、食べ物など入る隙間がない。
「ああ、そうじゃなくて……待ちなさい!」
震える声が耳に届き、頭と両腕に通しかけていたエプロンを引き剥がしその場に放り投げた。
慌ててリビングに戻ったものの私の予想は外れ、父の両脚は静かに胡座をかいたままだ。
「ごめんね、頼みたいのはトイレじゃなくて……」
父に視線で促され、私はリビングの棚へと手を伸ばす。父はどこかに電話をかけたいようだ。言われるまま子機と町内の電話帳を持って、向かい合うように座る。
「今日のお昼は出前にしよう。この町に餃子が美味しいお店があるんだけれど、まことはまだ食べたことないだろう?」
「うん、でも私、そんな看板なんて見たことないよ」
「あるんだな、それが」
正午まで時刻が迫るこの状況で、父が私のために嘘をつくとは思えなかった。それでも自分の記憶を疑うことができず、渋々電話帳の
あ、か、さ、た、な……と行ごとに目で追うものの、やはり小さな文字がぽつぽつと並ぶばかりで、それらしいものは中々見付からない。
次第に、作るべきメニューを考えるようになる。私の視界では文字が薄れ、黄色みがかった紙そのものが左右に揺れる。紙の右端にある黒丸は親指に向かって徐々に降りてくる。
「や」をくり抜いた黒丸が親指で弾かれると、紙の柄となったはずの文字が一気に色濃く浮かび上がる。
咄嗟に親指の爪が頁に食い込み、それを一つずつ確認できた。
ね? と得意げに笑う父を見上げ、もう一度視線を落とす。
や行の頁に「
文字に重なるよう指先を滑らせると、その横に聞いたことすらない住所が印刷されていた。この町の出身でない私が今まで知らなくて当然だ。
「本当にあった……」
「ここから車で十五分くらいかかるからね。さて餃子と……まことは何が食べたい?」
長袖を着るこの時期、例え吉田屋でなくても、冷やし中華を食べられる店はないだろう。
ここは父に任せようと首を傾げてみせたが、結局私の希望で、餃子と炒飯を一皿ずつ注文することにした。
父は数日前から食欲が落ちているので、一人前を私と二人で分ければ食べきれると思ったからだ。
早速、子機の番号ボタンを押してみる。
呼び出し音が三回ほど鳴った後、威勢のある女の声が突風のように響く。
咄嗟に耳から離した子機をマイクのように唇に近付け、父の名前と住所、そして注文のメニューをぶつけると、より甲高く弾けるような声が返ってきた。
「おや、久しぶりの出前だね! 秀さんのところなら、両方とも少し冷ました方が良いだろう?」
きっと、父が猫舌だと知るほどの顔馴染みなのだろう。
その心遣いが、手に持つ子機の振動からも伝わる。
「は、はい」
「うん! じゃあ、毎度!」
女は私の返事が当然だと思ったのか、子機は突然静かになった。それでも最後の声はしばらく響き、すでに電話帳を手放していた中指で耳を塞ぐしかなかった。
同時に、もう片方の手で子機を持ったまま、熱くなった腹筋を服の上から
大きな声を出し慣れていない私は、音楽の授業で何度も言われた「腹の底から」というものを初めて実感した。
その様子を見て、父の背中は丸くなり、声を押し殺している。
「クックク……女将さんの、声は、あ、相変わらずだね……ククッ」
「お父さん、先に言ってよ! もう、他人事だと思って!」
両手で耳と腹筋を庇ったまま、痛いと訴えるも、父はごめん、ごめん、と軽々しく言うばかりだ。
顔は上がらず、声が漏れる度に、丸まった背中は起伏するように揺れる。
床に着いた袖口が支えているが、中身のない二本の長袖は前後左右に傾く円柱のようだ。
父は「腹を抱える」ことができない。
それでも「腹の底から」可笑しそうに悶える様子を見て、私はあっさり耳鳴りや腹筋の痛みがどうでも良くなり、庇う手指が自然と離れていった。
私が立ち上がり、子機と電話帳を片付けようとすると、父はゆっくりと顔を上げた。
落ち着きを取り戻したのかと思ったが、父の目尻には無数の皺が刻まれ、頬はさくらんぼのような色に染まっている。
「ククッ……と、いけない! まこと、実はもう一件電話をかけたいんだ」
「……え?」
私は耳を疑った。
一度大目に見たとはいえ、吉田屋ラーメン店の女将のように威勢のある声を二度も体験するのかと、その場に立ったまま視線だけで尋ねた。
そんな私を見上げても、父は可笑しそうに吹き出すばかりだった。
「大丈夫、今度は耳が痛くならないから。ね!」
父は私の目をじっと見つめたまま、声に合わせて顔を上下に揺らす。
小学六年生の娘を幼稚園児とでも思っているのだろうか。まるでニンジンやピーマンを美味しいものだと刷り込み、食べさせるまで一歩も引かない大人のようだ。
それだけではない。父の言葉には、普段とは大きな違いがあった。
毎日繰り返す食事や排泄の介助であっても、その度に父は申し訳なさそうに頼む。常に誰かの手が必要であるため、自分が迷惑をかけていると思っているのだ。
そんな父が私に「お願い」するのではなく、自力で行うという正反対の意味を口にした。
おそらく、よほど重要なことなのだろう。私と、リビングと玄関を繋ぐ廊下を、それぞれ別の生き物のような両目で父が見ている。
出前の人の到着が壁時計の秒針とともに迫り、遂に私のため息と両膝がゆっくりと床へ降りる。
「……本当に、耳、大丈夫なんだよね?」
父が首を上下に激しく振る。なかったことにしていた痛みで焦らしてみるが、私の返事は既に決まっていた。
「それで、どこにかけるの? 名前は?」
私は子機を膝元に置き、両手で電話帳を持った。片手で全体を支え、もう片方の手で頁の端が階段のようになるようずらし、親指と人差し指で固定しておく。
そうすればより早く相手の名前を探し出せるだろう。
けれど父は電話帳に見向きもせず、ただ数字が流れるだけだった。
電話帳には載っていないのか、あるいは暗記している番号は確認する必要がないということだろうか。
どちらにしても、私はその内の二つ、零と九しか聞き取れず、両手を広げ慌てて子機を掴んだ。
今度は、私がボタンを押すタイミングに合わせて十一桁の数字を繰り返してくれた。それでも父は明いての名前を教えなかった。
私が最後の番号を押すと同時に、父は子機を自分の耳に当てさせ、腕のない肩で器用に挟んだ。
顔を極限まで傾けたことで、反対側の首の皮は縦に引っ張られ、横線のような皺がわずかに薄くなった。
「お父さん、無理していない? 本当に落とさない?」
「大丈夫! だからまこと、玄関で待っていなさい。ああ、でも出前の人に、料理をリビングまで運んでもらおうね」
自信のある返事が忙しく弾む。
やはり父は、私に聞かせたくないのだ。それほど重要な用件というものを。
両腕がなく不安定な体勢のため心配ではあるが、私は父の強い意志に逆らうことができなかった。
子機の位置をずらさないよう片手で押さえ、父の肩に挟まれていたもう片方の手をそっと抜いた。
そのまま後ろ歩きで離れ、片方の踵がリビング廊下の境目を越えると、靴下を履いていても冷たく感じる。
リビングに留まっているもう片方の踵は、床に敷いてあるカーペットおかげで比較的温かい。
頭上で空を切る暖簾のように、私の心は未だに落ち着かない。どちらの温度も選べず、浮き沈みを繰り返す踵や強張るつま先で、かろうじて両脚を支えている。
そんな子どもは、ほとんどの大人に疎まれる。
しかし、まことは静かなリビングから笑顔で見送られるだけだった。
人として、秀丸は「ほとんどの大人」の部類に入ってはいない。それは私の父としても同じことだった。
うろたえていた両脚が、私の意志を待たずに玄関へと向かう。靴下の底で廊下を磨き、蹴り上げるように踵が軽くなる。
リビングに重く静かな空気が漂い始めたころ、玄関の段差に腰をかけた。
敷いているマットが、これ以上踵を冷やさないようにしてくれた。
一方お尻からは、木製床の冷たさが一気に伝わった。
父の会話を盗み聞きしないよう両耳を塞いでいると、手の甲から指先まで、氷を掴んだ素手のようだった。
間もなく吉田屋ラーメン店の男性配達人がやって来て、私はその場から解放された。
注文した料理はどちらも人肌に近く冷めていた。父にとっては最適な温度だ。
配達人と一緒にリビングに戻ると、父は頬と肩で子機をしっかりと挟んだままだった。
どうやら、一人での電話は成功したようだ。
私は早速台所に向かい、小皿やレンゲを用意した。リビングに戻ると、テーブルに配膳している配達人に、父が今日の私に対するように、気取らず明るく労っていた。
「おお、助かるよ。いつもありがとう。いやあ、どうしても娘に一度は食べさせたくてね」
「えっ? じゃあ、もう少し熱い料理が良かったですか? これは気が利かなくてすみません」
「おっと、謝らないでくれ。実は娘も猫舌、私とお揃いだからね。ハハハ! そうそう、女将さんによろしく伝えておいてくれるかい?」
父は本当に私までもが猫舌だと信じているのだろうか。その答えは気になるが、私は父の隣に座って頷いた。
配達人は私たちが猫舌父娘だとすっかり信じ込んだようで、軽い足取りで田川家を離れた。
リビングが静かになると、私はそれを小皿に二人分ずつ小分けして食べた。
焦げ目の付いた皮で野菜を小さめに包んだ餃子。小エビys卵の味がしっかりと効いた炒飯は、口に入れて初めてふわりと崩れる。
私の舌は比較的熱に強い方なので、常温保存食がそのまま口に入っている感じだった。
それでも美味しいのは、声量が大きい女将が料理に込めた細やかな心遣いのおかげだ。
「ね? お父さんの言う通りだっただろう?」
父は自分で料理の腕を振るったように自慢し、私は炒飯が口から零れないように手で抑えて頷いた。
それまで硬いはずだった筋肉が、私の顔面下でぎこちなく多方面に動いているのを感じると、誇らしそうな父の言葉が続いた。
「まことの笑顔は世界一だ! その表情を見ているだけで、お父さんも嬉しい」
父は口に触れていない料理を私に勧め、私は人のものに手を付けることに抵抗を感じた。
けれど影のある目の下と頬で顔中に皺を寄せて笑うので、ありがたく父の分を受け取った。料理だけではない。娘に、体が弱った姿を見ながらの食事をさせたくないという、父の優しさが込められている。一人分の、わずか四分の一しか減っていない皿がそう語っていた。
朝の騒動で始まり、昼は出前の電話で耳が痛くなり、一時はリビングが男性二人の声で響き、田川家では一番、騒がしい一日だった。
また父の深い愛情と、複数の人の心が込められた料理の美味しさに感動した日でもあった。
だからこそ、私は一つだけ、父に逆らった。
「捨てろ」と言われたものーー膨らんだ憎しみを心の中に留め、父の膝にぶつけた言葉ーーをそのまま繰り返した。
あの女はお父さんを苦しませた。
涼子も同じように苦しめ! 苦しめ! 苦しめ!
いっそのこと、腕をなくしてしまえ!
私は、絶対に許さない! 許すもんか!
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