第16話新たな出会い 一

 田川家の住人が一人減った。

 その翌日から、代わりに新しいお客さんが毎日訪ねてきた。

 初対面の日、学校から戻った私は、玄関で両脚が重くなった。

 黒い革靴が一足、それも靴底に二十七センチと書かれていた。このサイズだと、間違いなく男性用だ。それに飲食店の配達人が履くようなものでもない。

 自分が特に成人男性に対して警戒心が強いことは良く理解している。

 得体が知れず、もしも両腕がある相手であれば、私自身が何をされるか分からない。

 もちろん、父にとっても危険な状況である。両腕のない姿で、私の帰りを待っているだけで、抵抗など不可能だ。

 水鉄砲のように、靴を脱ぎ捨ててリビングに駆け付けたかったが、両脚が震え始めたので叶わなかった。

 それでも父と私は、互いが唯一の家族だ。

 両脚の自由が利かない現状の中、私は見えない圧力に耐えて限界まで声を震わせた。

 父の無事を確認するには、この方法しかなかったからだ。

 心臓の激しい鼓動が聴力を遮るが、私は遠く離れた声を拾おうと、瞼を強く閉じ、集中した。

 不安に私自身が支配される中、父と知らない男性が交互にささやく声を確認できた。

 その後リビングから、ドスッと重い音が聞こえ、車椅子に乗った父が姿を見せてくれた。

 「おお、まこと、おかえり。学校はどうだったかい?」

 目尻に皺を寄せ、普段と変わらない穏やかな声で玄関まで出迎えてくれた。

 父は自分の車椅子を押している背後の男性に対して、警戒心を抱いていないのだろうか。

 私は父から視線を逸らした。

 「……フツーだったよ」

 「そうじゃなくて、もっといろんなことを聞きたいな。友だちや授業のことなど。うーん、でも仕方ないか。の存在で、娘がすっかり緊張してしまったようだからね」

 私と同じく、父も己の背後に目をやった。二人分の視線を浴びた男性は、車椅子の取っ手を握ったまま、両肩を上下に揺らした。呆れたように唇で「へ」の字ができると黒縁のメガネは男性の鼻を滑ろうとした。

 「やれやれ、昨日電話がかかってきたと思ったら、僕は悪者になるためにここへ呼ばれたのですか? 秀丸おじさん」

 男性は父を馴れ馴れしく呼び、車椅子の取っ手から片方の手を離し、メガネを指先で押し上げた。

 「まあ、そう言うな。娘は少々人見知りだから、大目に見てやってくれ」

 「分かりましたよ、親バカな秀丸おじさん……いや、『お父さん』でしょうか?」

 二人の間に険悪な雰囲気はなかった。比較的若い男性が、年上の子どもを甘やかしているといったところだろう。つまりーー。

 「まこと、この人を怖がることは、何もないよ。吉田よしだ清仁きよひと君と言ってね、彼が小さいころからの付き合いなんだ」

 父は狭い車椅子に腰を固定され、上半身を私に向けて二本の袖が揺れた。

 「ただ、見た目通り、いかにも真面目で堅物って感じだろう? まことが固まっちゃうのも、無理もないよ」

 父は自分の背後に立つ清仁に聞こえるように、わざと私に向かって声を潜めた。

 清仁は何かを吐き出すように激しく咳払いをして、父を乗せた車椅子を後進させた。

 「まことさん、こんなところで突っ立っていないで、上がりましょう。ここは、あなたのお家なのですから」

 当然のように言った清仁には、父が必要以上に気を遣うことがない。うさぎの富美子たちとは正反対の人間ということだ。

 私はこの人を「吉田さん」と呼ぶことにした。

 父との会話、私に投げかけた言葉で、彼について二つの情報を得た。

 先日、私を遠ざけた父の電話の相手であること。

 黒いスーツの襟に、金色の小さな菊が咲いていること。


 そのせいか、この日うさぎの富美子が愛用しているクロックスが玄関に見当たらなかった。


 明日も、それから何日経っても、私がその女の姿を見ることは二度となかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る