第14話動揺と闇の誕生 三
熱が引いたところで、私はようやく顔を上げた。
涙の枯れた目に初めて映ったのは、一部が色濃く湿った膝だった。父が両膝で私を受け入れてくれたのだ。
父は両腕こそ持たないものの、その体には温もりや優しさが詰まっている。私を呼ぶ声にもその心が込められている。
けれど次に目にしたのは、父の険しい表情だった。
「まこと、辛いのは分かる」
父が私の目を覗き込む。戒めるような低い声は初めてだった。
「けれど、涼子さん……お母さんの悪口はこれで終わりにしなさい」
先ほどまで父の膝に響いていた喚き声のことだ。やがて呪いの言葉変わったが、私は抑えきれずひたすら吐き続けた。
父は悪口と指すけれど、私の具現化された気持ちはそれほど生易しいものではない。それを捨てろと言うのだ。
「でも、あの女はお父さんのこと……」
「まこと!」
父はそれ以上の言葉を許さなかった。
あの女やうさぎの富美子にはない、静かでどっしりとした威圧感が私を硬直させる。
私の中で疑惑が沸々と湧き上がる。
怒るのは、血の繋がらない他人だから?
父は私のことが嫌いなのか?
この人はあの女に未練があるのだろうか?
媚びられて結婚し、捨てられたというのに?
私は精一杯の力で、父から目を逸らす。ただの男に見えてしまったのだ。
酷く不愉快だった。あの女は父を穢した上に何処かへ隠し、知らない人をすり替えて置いていったのだ。
それでもこの人は渡しから目を離さない。
呼び捨てで、私の名前を何度も繰り返す。両腕がないこの人は、私の顔を動かすことも肩を揺することもできないのだ。
「お父さんの自慢の娘は……」
私は目を逸らしたまま身構える。その目で私の疑惑を誤魔化されたくなかった。
それでも言葉は続く。
「まことは優しくて賢い子だから、人を恨んでほしくない……あんなもののためにね」
この人の顔が動いたような気がして、私は視線で床を這ってみる。
テーブル、座布団、棚、車椅子。生活に必要最小限のものは、この部屋の定位置にある。
昨夜まであの女のせいで部屋の中が散乱することが多かったけれど、父への攻撃に使われた小物などは私が毎度片付けた。
あの女がこの箱を去った今、部屋には余分なものは床の上にはないはずだった。
ただ一つを除いてーー。
「あっ……!」
思わず声が出た。昨夜までなかったはずのものがこの部屋にあるのだ。
私は四つん這いでゆっくりとそれに近付き、静かに摘み上げる。
一枚の紙には、至るところに無数の皺がある。私の両膝が落ちたときに聞こえたクシャリという音は、空耳ではなかった。
床の上に置き両手を使って皺を伸ばしてみると、それぞれの枠の中に収まるよう二つの名前がボールペンで書かれ、その内の一つには朱色の円が繋がっている。
枠の外、紙の上部分に印刷されている角張った字で、あの女が投げたこれが「離婚届」だと知った。
まさか、と期待と不安が混じった目で床を伝い、人の脚を探る。威圧感のある顔を二度も見たくない。
瞼が、錆びたシャッターのように堅く重い。そっと上げればすぐに閉じてしまう。
それでも、情けない瞼をどうにか持ち上げる。
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