第13話動揺と闇の誕生 二

 力の抜けた脚を引きずり、人の気配を辿りリビングへ入る。

 「まこと」

 父の声は優しく静かで、あの女に出て行かれたばかりとは思えなかった。

 もう一度呼ばれ、私は一歩ずつ父に近付く。

 座っていた父が顔を見上げると、私の膝両がその場に落ちた。その拍子に何かがクシャリと音を立てた。

 「お父さんに手さえあれば、タオルを持ってきてあげられるのに」

 父は胡座の姿勢を崩し、両脚をせわしなく動かす。膝を曲げ、足の裏をお尻と床の間に差し込もうとするけれど、両腕のない父はバランスが取れず、上半身が横に傾いてしまう。

 私が父の体を受け止めると、父は苦笑した。どうやら正座がしたかったらしい。

 「そんなことしたら、脚が痺れるじゃない。後でトイレに行きたくなっても、立ち上がるのが大変だよ」

 父は車椅子に乗るときも移動するときも、常に誰かの手が要る。唯一体の重心を受け止める両脚までも力がなければ、小学生の私は父を支えることができない。

 「おっと、まことに叱られてしまった」

 父はゆっくりと脚を伸ばし、両踵を合わせ正面に突き出した。その間はわたしが上半身を支えたが、言葉にしたほど落ち込んではいないようだった。

 私には責めるつもりはなく、また父もそれを感じ取ってくれたのかもしれない。

 もっとも、父が姿勢を変える度、真剣な表情になる。互いの重心で倒れ怪我をしないようにと必死になり、言葉を交わす余裕すらない。

 父の重心が安定したところで、二人揃って一息つく。

 約一ヶ月間、父はこれまで一度も正座をしなかった。両腕がある人でさえ立ち上がるのに時間がかかる姿勢ではさらに大きな負担になる。まして父は周囲に気を遣うので、精神的にも楽ではないはずだ。

 そんな人が自力で不利な姿勢に変える理由が分からず、私はそのまま言葉にする。

 返ってきた言葉は「ナミダ」だった。

 その意味を知ろうともう一度尋ねると、父は隣に座る私に答える。

 「お父さんはこんな体だから、まことの涙を拭ってやれないけれど……」

 父は上半身を左右に振り、中身のない二本の袖を強調した。一方私は自分の顔に違和感を抱いた。頬の上で二本の線が、乾いたのりのように突っ張っている。目を擦ると、手の甲が僅かに濡れた。

 私はようやく、自分がないていたことに気が付いた。今度はその理由が分からなくなった。

 「辛いときは思い切り泣きなさい。自分の娘に膝を貸すことぐらいはできるから。ほら、誰にも見えないよ」

 目尻に皺を寄せて笑い、父はつま先をピンと立てる。両脚は真っ直ぐ伸びたままだ。

 ーー私の中で、何かが爆発した。

 目の前の膝に顔を埋め、父が履いているジャージのズボンの裾を握り締める。一瞬のことだった。

 それからは父が言うまま涙が絶えず溢れ、自分の顔面と父の膝の間で喚き声が響いた。

 ごめんね、と詫びる小さな声が後頭部に何度も降ってくる。

 かつて父が見せた泣き顔と、田川家を去ったあの女の改善背中が脳裏で交錯する。

 私があの女のために泣くことはあり得ないと思っていたが、今こうして父の膝を濡らしている。

 その事実を受け入れたくない一心で、私は熱くなった顔面を父の膝に擦り付ける。

 涙が枯れるまで、父は姿勢を変えずにいてくれた。

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