第12話動揺と闇の誕生 一

 遂に、あの女は父に「リコントドケ」を叩き付けた。私が田川家来て一ヶ月、以前同級生の山田が言った通り町中の男を漁り、私の予想通りそれに飽きたころだった。

 「さよなら!」


 日曜日の午前中、久々に起きていると思ったら、あの女はパジャマ姿ではなかった。毛先を巻いた長い髪に露出の多い服、そして不機嫌な顔をして旅行用鞄を片手に提げていた。

 これまで何度も目の当たりにした光景であったが、絶望を抱いたのは今回が初めてだった。

 あの女が箱ーー父と私が住んでいる家ーーを出るということは、私も父と別れなければならないということだからだ。


 生まれて初めて親と思えた人と離れたくない! 荷物なんかまとめないから!


 私は興奮のあまり声が出なかった。代わりに、鋭い目であの女を睨んだ。反抗的といえる態度はきっと、最初で最後だろう。

 あの女も私を見たが、その顔はさらなる不機嫌で歪んでいた。

 ヒステリックな声で叫ぼうとする表情は、黒いハリネズミのような睫毛と眼球の白い部分で迫力があった。

 部屋の照明が反射し、無駄に光沢のある唇がゆっくりと動き出す。

 「とりあえず、置いていくわ。両腕がないと不便でしょう? あんたに懐いているみたいだし、私だって鬼じゃないから」

 私に向けられた人差し指は、邪魔な存在を掻き消すためであるかのように爪が長かった。

 確かに、今までの大人は私の存在をあからさまに煙たく思っていた。私は男にとっては都合が悪い子ども。無愛想で無口、家事はするが人目のないところでの接触を拒む。

 あの女もそれに気付いていたのかもしれない。子どもがいなければ男を選ぶ不利な条件が一つ減り、若さを理由に男が目移りすることもなくなる。男は大人の女である自分を見る。

 だから、あの女は私を捨てるのだーー今、この場で。

 「さよなら!」

 一枚の紙が父の胸元を滑り、あの女は玄関に向かった。

 私はその背中を追った。毛先を巻いた長い髪を掴み、あの女の耳元で叫んでやりたかった。父の悲しみ、学校で受けた侮辱、あの女の改善されない素行、言葉は何でも良かった。

 あと少しーーあの女が引き戸を開けると同時に、私は腕を精一杯伸ばし、手を広げた。

 けれど私の手のひらと重なったのはあの女の髪ではなく、見慣れない車だった。

 車窓から男のような影が見えると、反射的に私の体が止まった。喉から出たがっていた言葉も体内に戻ってしまった。

 引き戸が閉まる!

 あの女を田川家に引き留める必要などないはずなのに、私はなぜか腕を引けずにいた。

 あの女は引き戸を開けたまま立ち止まり、振り向いた。

 「ちょっと、あんたにはオトウサンをくれてやったじゃない。それとも何? また私について来て男を横取りしようっていうの? いい加減にしてよね、そういうの!」

 眉間の皺で歪んだこの顔を、私は知っている。男と、それまで住んでいた箱を捨てるとき、より一層醜くなるのだ。

 そして今、あの女は男ではなく自分が産んだ子どもに、その顔を見せている。不自然に長い睫毛が何本もの腕になったようで、私に触れず突き放す。

 実際に捨てられる立場となり、私は初めて正面から見た。

 この醜態を、これまでの男たちはどのように感じたのだろうか。騙された、または化け物に遭遇してしまったという衝撃か。中には、身勝手な子持ちの女と別れることができたと、後で清々しく思う男もいたかもしれない。

 どのみち、男には後悔と悪印象しか残らないだろう。それでもあの女に未練があるとしたら、その男は相当馬鹿な宇宙人だ。

 あの女は多くの男を、子どもを捨て、挙げ句の果てに不満を吐き捨てようと、唇までも歪み動き出す。唇は肌に近いピンク色で分厚く塗られ、照明を離れても光沢が際立ち、やはり醜く不気味だった。

 「富美子はあいつの世話をしなくて良いって言ったくせに、今度は男遊びに度が過ぎるだの、世間体に良くないだの、と文句ばかり! 腕のないあいつにが務まるはずがないじゃない! 他のババアどもは何? 人の噂がないと生きていけないわけ? どこの男と遊ぼうが、私の勝手でしょ! 男だってそう。服を着た猿が、財産自慢や世間話をしても面白くも何ともないわ! だから、こんな田舎は捨ててやるのよ!」

 珍しく、低く唸るような声だった。昨晩までの数日間何度も響いた甲高い声であれば、車の中で待つ影にあの女の本性を知らせることができただろうに。

 そしてあの女は再び私に背を向け、引き戸を閉める。

 手荷物は旅行用鞄一つに収まっているけれど、色気、ありとあらゆる欲が全身から滲み出ていた。

 あの女は二度と振り返らず、やがて車のエンジンがかかりその音も遠くなる。

 田川家を去ったのだ。

 わざとらしい甘い声や甲高い暴言、化粧品のきつい臭いからようやく解放される。以前のように父が悲しみ泣くこともない。

 それでも、私の心は晴れなかった。まるで小さいころ口の中でグラグラしていた乳歯のように、鬱陶しいものを突然失い違和感を抱いたようだった。


 母親と呼べる女など、初めから存在していないはずなのに。

 私の家族は、親はーー。

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