第7話新しい生活 三

 転校初日の授業が終わると、あとは同じことの繰り返しだ。

 午後四時ごろ、放課後のチャイムが鳴るのと同時に、私は急いで教室を出る。

 田川家にて手荷物をランドセルから財布に替えると、スーパーに向かう。

 そこも田川家から徒歩十分ほどの距離だった。近くの大人に教えられた通りに進むと、小学校とは逆方向だった。

 スーパーの入り口ではランドセルを背負った生徒が四、五人ほど固まっていた。その姿を見て、買い食いだと分かった。

 口元がお菓子のカスで汚れた集団を避け、私は夕食と翌日の朝食分の食材を購入しスーパーを出る。その間、私は無言だ。夕食の時間を待つ子どもとの会話は時間の無駄だからだ。

 二度目の帰宅と同時にうさぎの富美子と入れ替わり、慣れた手つきで夕食の用意に取りかかる。

 ちらりと背後に目をやると、あの女は父と並んでテーブルに座り、テレビを見て笑っている。

 本当にそれだけで、父の湯呑みにお茶を淹れることすらしない。一方隣では、自分に両腕がないから、と気を遣い喉の渇きや空腹、尿意をも堪える。

 そんな父の表情を見てしまった以上、私は調理に必要以上の時間をかけられなくなってしまった。煮物でも作ろうものなら、猫舌の父のために料理を冷ます手間もかかる。出来上がるころには生理現象が限界に達してしまう。

 私は台所に目を向け直し生の食材を使おうとしたけれど、断念した。サラダでは介護に慣れていない私では父に食べさせる自信がなかった。不規則なカーブを描くレタスなどからドレッシングが伝ってこぼれるかもしれない。

 結局夕食は野菜炒めとご飯具が小さめの味噌汁にし、父の分だけ盛り付け方を変えた。

 野菜炒めは食材同士で隙間を作るように大きな平皿の上に並べ、味噌汁は食べさせやすいように汁の量をお玉の半分以下にする。

 テーブルに料理が揃ったところで、あの女は我先に、と箸を進める。その間、私は父の口にスプーンや箸で料理を運ぶ。

 女は平均十分で完食する。けれど父の食事は一時間もかかった。つい先日まで赤の他人だったので、要領が分からなくても仕方がないのかしれない。それに加えて、相手は猫舌なのだ。

 私の食事は父が完食した後、つまり調理後一時間以上も経ってから。それも、喉に料理をかき流すという一種の作業。

 それからすぐに後片付け、そして父の排泄や入浴介助に至るまで私の一日は長くハードだ。

 生まれて初めて介護の中でも、特に排泄にはそれなりに抵抗を感じた。最近迎えたばかりの初潮ですら独特の赤みや臭いが不気味だというのに、他人の下半身やそこから出るものを見るのに耐えられるはずがなかった。

 けれど実践してみると、羞恥は予想以下だった。慣れた手つきではないものの、初めての割りには上出来だったと思う。

 父の人柄がそうさせたのかしれない。単純に考えると、人間であれば出るものも臭いも誰だって同じなのだと、割り切れば良いだけのことだ。

 むしろ幼いころから知るマニキュアの臭いの方が不快だった。嗅覚が麻痺していればこの部屋がどれほど快適だろう、と何度強く思ったことか。香水にしても同じだ。

 そのせいか、化粧品に興味を持つ同級生の女子とは気が合わない。無理に話や趣味を合わせる必要もない。

 相手もまた同じように考えているだろう。

 どこへ行ってもよそ者は弾かれやすく、周囲に受け入れられにくい。特にその傾向が強いのが、この田舎町だ。よそ者の中でもであればなおさらのことだと、転校から一週間で実感した。

 「お前の母ちゃん、尻軽! 男たらしだー!」

 これが、私への登下校の挨拶だった。

 それを面と向かって言うのは、大抵の場合男子だった。

 女子は私を前にしてひそひそ話をするだけで、決して目を合わせようとすらしなかった。

 男子も女子も、排他は正義だと信じて疑わず鼻高々としていた。

 その理由はある程度把握していた。だからと言って、私まであの女と同一人物のように言われることに納得できなかった。

 それでも担任の大山に告げるという発想は微塵もなかった。あの男の性格では事態を大きくするばかりだ。陰口だけでは済まなくなる。

 そもそも「チクる」というのは、心の壁で自ら大人を遠ざける今どきの小学生にとってあるまじき行為なのだ。

 だからと言って煉瓦れんがのように頑丈な壁を壊さずに解決できる問題ではない。

 ある日、無力な私は独りよがりな考えで、次に飛び交うであろうを待った。

 この日は、帰路の景色を観る余裕があった。前日特売日だったスーパーで食材の買い出しを済ませていたからだ。

 けれど両腕のない父と、そそくさと帰りたがるうさぎの富美子が私を待っていることには変わりない。それを理解した上で、すぐには玄関に向かわなかった。

 私は自宅と父の従兄夫婦が住むもう一つの田川家を隔てる垣根の前で止まり、背伸びをした。それでも目線が届かなかったので、視界を阻む垣根を利用する方法に切り替えた。

 私が覗こうとしているのは、変化を知らぬ長閑のどかな風景ではない。隣家の庭だ。

 父の従兄、田川英男の声もテレビの音も聞こえないのは、まだ帰宅していないからだろう。うさぎの富美子は義従弟の家で痺れを切らしているはずだ。現在夫婦とも不在だと確信した。

 周囲に近所の住人もいないことを確認し、私は片方の目を瞑った。もう片方の目で覗いた垣根の隙間は、緑色の生地に白色のドット柄のカーペットのようだった。

 さらによく見ると、それは家の縁側を彩っていた。綺麗というよりは意外な印象だった。

 英男は爪こそ飾り立てないけれど、従弟の代わりになろうとしない手はあの女と同じだ。

 うさぎの富美子は自分がお茶を飲みたくなって初めて、義従弟の分も淹れる。排泄の介助ではホースでお尻を水洗いしてからタオルで拭う。私がするように、ゴム手袋を着用してでもティッシュでは拭かない。

 そんな夫婦の手が土で汚れるなど想像もつかなかった。

 そのせいか私はさらに奥の景色を求めたところで、何か鋭い衝撃を感じた。枝の先が額や頬に刺さるまで、垣根に深く顔を埋めていたことに気付かなかった。

 思わず小さう声が漏れてしまった。誰も聞いていないことを願い周囲を見渡すと、幸い近くには人影はなかった。

 ほっとした私は髪に付いた葉や小枝を指先で払い、自宅の玄関に向かった。

 それからしばらくの間ドット柄のカーペットの存在が遠退いたことで、私は後に悔やむことになる。

 カウントダウンは残り二ヶ月を切っていたーー。

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