第6話新しい生活 二
田川家での日常は、三日とかからず定着した。
午前六時三十分ころに父の着替えを介助し、車椅子に乗せてテーブルまで移動させる。
食事は私が手の代わりとなり、父の口に運ぶ。もちろん、猫舌である父に合わせて、料理はあらかじめ冷ましておく。
父がストローで食後のお茶を飲む間に自分の朝食を済ませ、後片付けをする。
もう一人分の朝食は用意しておくけれど、あの女が私の登校時間までに起きることはないので、小さな紙切れを添える。ただ一言、温めるように、と。
午前八時、うさぎの富美子と入れ替わるように、私は徒歩で小学校へ向かう。
夕方、授業が終わると帰宅し、夕食の用意と父の介護。そしてまた朝が来る。その繰り返し。
家事はあの女が再婚する前から私の仕事だったので、初日から無難にこなした。けれどそれ以外のことでは戸惑うことが多かった。
転校初日、ギリギリ遅刻せずに登校する生徒くらいいるだろうと周りを見渡すと、私一人だけが、田んぼに囲まれた土の道路にぽつんと立っているだけだった。
そのときはきっと必死だったと思う。交番やシャッターの開いた店を探しては通学路を尋ね回る間、目が乾燥したように痛痒かった。
結局、田川家から目的地まで徒歩二十分もかかってしまった。けれど実際は半分の十分程度だという。同時に、この時間帯はほとんどの生徒が各教室に着いているころだと知った。
ある店の老婦人によると、部落ーー地区のことらしいーーによっては三十分もかけてバス通学し、それも二時間に一本しかないという。
田川家がその部落に存在していれば、私は確実に遅刻していた。そのことをうさぎの富美子が配慮してくれるはずもなかっただろう。
チャイムが鳴るのと同時に小学校に到着すると、生徒用下駄箱を背に大柄の男が立っていた。ジャージ姿だった。
私は初対面の挨拶よりも先に、遅刻したことに対して頭を下げた。
ゆっくりと頭を上げると大山が説教を始めようと口を開閉させていたので、両手を素早く差し出した。私が持っていたのは、転校手続きの書類が入った大きめの封筒だった。
大山はそれを受け取り、無言で私を職員室へ誘導した。大人ばかりの部屋に入ると自分の席で初めて書類に目を通し、そして私の肩に手を置いた。
「田川、家の事情は分かる。だがお前にはお袋さんが、お隣にはご親戚がいらっしゃるだろう? それに、お前の親父さんは良い人だから分かってくださるはずだ」
地元出身だという大山の言葉は父の気持ちを代弁しているように聞こえた。
実際私が水色のランドセルを背負うまで、父は申し訳なさそうに眉を八の字にしていた。
自分のことは気にするな。
せめて朝だけは、両腕のない自分の世話をあの女やうさぎの富美子に任せ、子どもは学校を優先しろ、と。
「……はい」
私が意味を理解した上で返事をしたのは、その一言だけだった。
大山を苦手に思ったのではない。この男には期待も口答えもする気にはなれなかったからだ。
厚かましくも自分を親切な人だと自負するような教師は、生徒のため、と家の事情とやらに無闇に首を突っ込むかもしれない。
日ごろから小学生に囲まれた大山が、あの女の色気とやらにやり込められるのは目に見えていた。
ロリコンであればあの女の手段は効果がないけれど、そうなれば別の意味でこちらの身に危険が及ぶ。
目の前の生徒にそんなことを思われているとは知らず、大山は私を教室に案内した。
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