第8話父娘になった日 一

 「ただいま」

 「……ずいぶん遅かったじゃないか。一体何やっていたんだい?」

 私が背中に腕を回しガラスの引き戸を閉めると、うさぎのアップリケが目に留まった。

 顔を上げると、玄関ではかわいらしい装飾に似合わない雰囲気が漂っている。

 うさぎの富美子は日毎ひごとにあからさまに不機嫌な表情をするようになった。けれど私はいまさら特に驚くこともなかった。

 「日直」

 ただ一言そう答え、自分の足元にあるものをちらりと見た。黄色のクロックスが一組あるだけで、それはうさぎの富美子のものだ。

 「相変わらずだよ、お前の母親は!」

 もう一度顔を上げると、うさぎの富美子はそこにないものを見ていた。やはりあの女は不在のようだ。

 「何もの世話をしろとは言っていない」

 「……え……?」

 その言葉はこの日二度目の驚きだった。うさぎの富美子があの女の本性を見抜いていたとは思わなかったからだ。

 「だけどあんな調子じゃあ、こっちが話を持ちかけた意味がないよ」

 舌打ちしたうさぎの富美子は黄色のクロックスを履き、肩で私を横切った。八つ当たりのつもりか、乱暴に閉められた反動で引き戸が横に跳ねた。

 コッチガハナシヲモチカケタ、モチカケタ、モチカケターー。

 最後に吐き捨てられた言葉が頭の中で繰り返し響いたからだろうか、見届けた背中にあの女の姿が重なって見えた。幻覚に囚われ、私の右手は引き戸の前で止まったままだ。

 「……ちゃん、まことちゃん!」

 すると奥から名前を呼ばれ、慌てて引き戸の施錠をした。私を現実に引き戻してくれたのは父の声だった。

 私が知る限り、父は尿便意ですら誰かを急かすような荒い声を上げない人だった。その瞬間までは。

 きっと、両腕のない父に何かあったに違いない!

 「……ーーさんっ!」

 口を脱ぎ捨て片足を段差に上げると、玄関から廊下まで一気に駆け出した。

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