猿と戯れる冒険者

 ある日、俺はけたたましい半鐘の音にたたき起こされた。

 とにかく最低限の服を羽織り、ロッデンベリー・タブひとつを口に放り込んで表に飛び出した。慌ただしく駆け回っている衛士の一人を捕まえて話を聞くと、馬車で半日程度のところに町へは滅多に来ない高レベル、森の主クラスの魔獣が接近中とのことらしい。

 この地域は駆け出し冒険者ならともかく熟練者にとっては目を引く稼ぎ所――つまり探索ポイントがほとんど無く、高レベルの冒険者パーティーがほとんど定着しない。町の広場ではケツの青い剣士が震え上がる身を抑えつつパーティーの戦意を煽っているが、見たところ効果は皆無だった。

 ――俺が行くしかないか。

 俺の見知った範囲で、俺に匹敵する冒険者、あるいは元冒険者の類いはこの町には居ない。駆け出しの剣士や盗賊なんて俺にとっては邪魔でしかないし、同様にひよっこの僧侶の回復量なんて俺にとっては雀の涙、盾役も兼任するとなるとデメリットの方が大きい。ということは……。

 ――ソロで主狩りか。

 全盛期の俺でも逃げ出すところだ。多少目端が利くようになった程度で勝てる相手だとは到底思えない。

 だが、それでも良いと思った。俺はこの町で新たな自分を見つけることが出来た。この気持ちで、この町の防衛に一役買えれば本望というものだ。出来ることなら魔獣に一太刀でも浴びせ、可能なら動きを止める程度でも出来れば。そう思いながら携えた銅剣の柄を握った。

 そこへ、俺の踏み出した足を留める声があった。

 何となく見覚えのある老人二人。……そうだ、彼等は俺の剣を預かって貰っている質屋の親父、そして今の家を売ってくれたこの町の資産家だ。彼等は抱えてきた大きな包みを俺の目の前にドン、と置いた。

 ――今はあんたが使ってくれ。お代はその後の話だ。

 鎧の方は既に売りに出されていると思っていたが、俺と取引した老人は骨董趣味があるとのことで俺の鎧をコレクションのひとつにしておいてくれたらしい。予想外に手入れの行き届いた鎧を纏い、手の馴染んだ剣を携えて、町の広場を後にした。

 ソロ狩りなんてものじゃない。俺は何人もの人とともに戦っている。


 徒歩で半日。最初に聞いた距離と比べれば随分町に近い場所で、俺は件の魔獣と遭遇した。

 俺の引退を決定的にしたのと同じ大猿タイプ、それもさらに巨大でパワーを手に入れつつ敏捷性も失っていない。現役時代の俺が苦手にし、盗賊の支援を請うタイプの敵だ。援軍のいない俺には厳しいと思う、それでも今は進むしかない。剣を抜き放ち、奴に向けて構える。

 大猿がニィ、と口の端を上げ。そして――咆吼。それが戦闘開始の合図になった。


 猿が吼える程度で引き下がる俺じゃないが、大猿は攻撃が多角的だ。どこから攻撃が飛んでくるか分からない、それこそが俺が大猿を苦手にしている理由のひとつだ。何よりこいつは雑魚とは違いリーチが長い、近付く前に剣の大振りで蹴散らすということが出来ない。

 予想の通り、大猿が片手を背後に回した。横から出るか、上から振り下ろすか。どちらにしろ俺の死角から拳を飛ばそうとするのだろう。かといって俺も奴の間合いの外にばかり居ては攻撃が当てられない。さて、どうしたものか。

 戦闘を組み立てようとする俺の視界に、わずかな変化があった。

 ぐん、と奴の大胸筋が膨らむ。同時に前に踏み出した足が、ねじるように踏み込まれる。

 ――あ。

 そんな感嘆とも取れないような小さな心の動きとともに、俺は横から回り込むように飛んでくる拳に剣を合わせ。

 大猿の拳を、浅く薙いだ。

 驚きとともに絶叫を上げる大猿。恐らく奴にとって、この初撃が必殺のパターンだったのだろう。

 だが驚いたのは俺も同じだ。まさか俺が攻撃を予測し、その攻撃に合わせて剣を振るうことが出来たなんて。

 いや、一番重要だったのは最初の攻撃のサインを見逃さなかったことだ。俺はかつて敵の攻撃予測を直観に頼っていた。けれど、相手を観察できればこんな手法もあったのか。そんな驚きに心が満たされた。

 俺には攻撃が見える。俺には、怖いものは無い。

 一方で大猿は痛みに我を忘れている。俺がいることすら忘れたように、地に身体を投げ出してジタバタと暴れていた。しばらくしてようやく起き上がった奴の目には、怒りと恐怖が満ちていた。

 再び大猿が咆哮を上げる。その声色にも恐れがにじみ出ているように感じたのは気のせいではないだろう。

 奴の拳があらゆる方向から飛んでくる。左、右、上、あるいはそれぞれの斜め方向から。地を這うように繰り出して俺のアゴを殴り飛ばそうとした拳もあり、また蹴りなども絡めてきた。

 けれど、俺は大した恐怖を感じない。俺は奴を相手にした攻撃予測に自信を得ていた。面白いように奴の攻撃は空を切る。その度に俺が刻む浅い傷は、それでも奴を追い込み、ますます攻撃が読みやすくなっていった。奴がぐん、と身体を縮めたときも、どんな攻撃が分からなくても「全身のバネを活かした直線的な技」という読みは出来た。軽く横へかわした俺の脇を、投石器の石のように暴力的な大猿の跳び蹴りが飛んでいった。

 別にこんな殺戮を楽しんでやるタイプの人間じゃない。俺は焦らず気を抜かず、さらに一歩、奴に踏み込んだ。

 振り下ろされる拳を避けつつさらに間合いを詰め、ヒジの、腋の腱を切断する。奴は苦しみもがき、動かなくなった腕を繰り出そうと身体を揺する。強烈な腕力を骨格に伝えられない筋肉が傷口をさらに大きく広げつつ、腕はダラリと垂れ下がったままだった。

 ――もう、終りだよ。

 語りかけるように、大猿の首を刎ねた。

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