最期を覚悟する元冒険者
これを手にとってくれた貴方が奇麗で豊富な湧き水に恵まれる地域に生まれた人だとしたら、俺が葡萄酒を買ったことに疑問を覚えるのかも知れない。いきなり酒を買うなんて、家で飲んだくれるつもりなんじゃないか、と。
だが、そういうわけではない。これは「安全な水分の摂取方法」なのだ。
湧き水のない地域で得られる水源と言えば、朽ちた木が沈んだ湖沼、野生動物がところ構わず排泄あるいはその亡骸を浮かべる川などしか存在しない。けれどそんな水を飲めば病床に伏すのは目に見えている。人が生きるためには、その代わりになる水分摂取が必要となる。
一番簡単な方法は、果実を食べることだ。けれどそれにしたところで地域によって採れる採れないの違いがあるし、採れたとしても時期が限られてしまう。実がなっている期間などたかが知れているし、そんな水分を含んだ果実は長期間の保管にも向いていない。
そこで果汁を瓶に詰めて保存することが考えられたのだ。果汁は発酵して甘味が酒精になり、それ自体の保存性を高める。
こういう苦労を経ることで、先人達は安全に水を飲むことが出来るようになったのだ。その酒を飲まないということは、即ち人としての死を意味する。生きるために酔うか、渇いて死ぬか。俺達はその選択を日々行っているに過ぎないのだ。
そう考えれば、銘水の地が知識人や著名人を輩出していることにも納得が行く。彼等には「酔わずに生きる」という特権が与えられているのだから、そもそも人としてのスタートラインが並外れて有利なのだ。日々酒を飲む俺達が不用意に劣っているわけじゃない。
――いや、そんな言い訳をしたところで俺の日常が正当化されるわけじゃない。
結局俺が酒場に入り浸り、あるいは家に持ち込んだ酒瓶を抱え、朝から晩まで飲んだくれていることは事実なのだから。
酒場で俺をおだてて昔話を引き出そうとする輩は時々いるが、そんな連中は相手にしない。
けれど勝負を挑まれ、ナイフ投げを披露することがある。
酔っ払いのナイフ投げなど、人に見せられるものじゃない。投げたナイフは明後日の方向へ飛び、男が大股を開けて座るスツールの股下に刺さったりというのも日常茶飯事だ。
そんなもの、まともな勝負になろう筈もない。的のある方向へナイフが飛ぶことすら奇跡に近いのだ。
挑戦者達も……そして、俺自身も。隻眼不幸付きの男が泥酔して出来る行為ではなかったのだ。
昨晩になってようやくと言うべきか。酒場の主人から、ナイフ投げ禁止令が下された。恐らく俺にとって、かつて冒険者だった証、その最後のひとつが奪われたのだ。
一体俺の人生とは何だったのか。
剣を質に入れる代償に得た金貨の山は俺の余生を賄うには少し足りないと思っていたが、今の生活を続けていると少なからず寿命は早まりそうだ。恐らく今の金貨の半分ほどは手付かずのまま、俺の方が一足先にこの世を去るだろう。
この家と金貨の山が、俺の人生の成果か。そしてそれを引き継ぐ者は居ない。
ハッ、と俺は嘲笑のようなため息をひとつついた。
涙は、出なかった。
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