第6話 全員揃って。

三池が着いたのは、酒を飲み始めて2時間が経過した頃だった。上がれると思ったところに、落し物をしたと言う老人が現れ、訛りで言葉が分からず手間取ったとか。

三池の一杯目で、彼がかなりの酒豪であることを知る。いきなり日本酒を冷やで頼んで、猪口につぎもせずとっくりからいく。警察は元が体育会系のものが多い。飲み会などでも過度なくらい呑ませ、(酒に)呑まれするらしい。

記憶も意識も失っていたことが何度かあったと三池は顔をアルコールで真っ赤にして語った。甘い酒しか呑まずまともに酔っ払ったこともない僕には隔世の話だ。

飲み空けた冷酒を店員に引き渡し、追加で今度はワインを頼む。さすがの横川もついていけなかったようで、いつもなら「ワイン=紳士」の構図を半ば盲信的に信奉して欠かさず頼むのだけど、今日は「もう俺はいいよ。」と烏龍茶を頼んでいた。

「それにしても偶然っていうのはあるものだな。」

三池が時間の経って萎びたから揚げを自分の皿に移しながら言う。そう、酒だけじゃない。この男は大食漢、大飯食らいでもある。一つあれば3人で十分足りる大盛りから揚げを1人で頼んで食べ干すこと3回。締めに頼むはずの丼を序盤から調子よく注文すること5回。食は身体を表す、まさに言い得ている。

「そうだな。いや、むしろこれまで4年間会わなかったことの方が偶然の賜物かも。」

「それはどうだろう。1年目は研修で学校の中、2年目からはこことは別の勤務先だったから無理はない。」かた苦しい言葉遣いが特徴的な2人だ。話に入りがたさを感じた。別に言うこともなかったので、喋らずに聞く。

「警察学校かー、地獄と聞くが。なぁ陽ちゃん。」それを曲解したのだろう、横川が僕にわざとらしく振る。

「あぁ、うん。らしいな。僕は絶対耐えきれない。」

「そうか?まぁ厳しいものはあったがな。…だが、社会人なんてのはどこでもそういうものさ。」

社会は厳しい荒波だ。先生もマスコミもみなそう吹聴する。だが理解はしても、実感には欠けた。今自分がその荒波へボロ船で漕ぎ出そうという目前になってもだ。準備も何もできていない。

この有様で聞く、同期の言葉はそれまでと重みが違った。重石を頭に叩きつけられた気分だ。

「……お、ナベ。あいつも苦労してるよなぁきっと。」

「ナベ、いい送球じゃないか。」

店の高いところに置いてあるまだ映るのかと思うほど古ぼけたブラウン管テレビで野球の中継をしていた。このあたりでは巨人戦しか放送されない。ヤクルトは東京が本拠地なのに置いてけぼりだ。

ただ今日はたまたまスワローズとの東京マッチだった。ちょうどイニングとイニングの間、ボール回しをしている渡辺が画面にクローズされて映った。球をスローするフォームは鮮やか、その身体能力の高さをうかがわせる。

「プロは、警察よりずっと大変だろう。実力の世界だから、勝負に負けたらいつクビになるか分かったもんじゃない。」

「その中でやれてるんだから、僕らの中でもナベは別格だったね。」プロのレギュラーかつ、ショート。野球少年なら誰もがその華やかさに一度は憧れる。

あのソフトも野球もサッカーも同じところでしていた高校のグラウンドは、渡辺には狭すぎた。

「もっとも、陽ちゃんなら望めば行けたと思うのだが。」

「そうだ、謙遜することはない。ナベの指名会見の時、陽も注目浴びてただろ。なぜ志望届出さなかったのか、って。そしたらコメントは控えますって芸能人か!とついつっこんでまったなぁ。」三池がガハハと大口を開け(口の中に食べかけの唐揚げが見えた)、笑って言う。

「…買いかぶりすぎだよ。僕には、あんな身体が無い。」

「まぁ、俺とてあの身体は羨ましいと思わずにはいられなかったな。」高校の時点での実力が変わらなかったと仮定しても、伸びしろを見たら僕と渡辺では雲と泥ほどの差があった。レベルのようなものに置き換えて考えれば僕の上限は15で、渡辺は100。あの頃で僕はもう上限に辿り着いていた、体力もそれに気力も。

店に実況の声が響く。巨人の6番打者が平凡なゴロを打った。ショートの渡辺が走り込んで来る。しかし、

「ショート取って…あーっと!!これは取れません、エラーが出ました。痛いですねー。」

打球はグラブをかすめただけでセンターへと転がっていった。

「……エラー。滅多に見ないな。」三池の唐揚げをつまむ手が途中で止まる。

実況と解説は語る。

「今日は散々ですね。ノーヒットバント失敗、ワンエラーですか。」

「そうですね。このノーヒットも実は7試合連続でして、26打数0安打と自己最低を更新しています。」

「あー絶不振ですね。替えてあげた方がいいんじゃないかな。」

「毎年、夏場にかけては調子の上がらない渡辺なんですが今年はさらに様子が違います。打率は2割2分代まで落ちてきました。」僕らはそれを聞いて、3人ともなにも言わず画面を見た。首をひねりながら、グラブの紐を整えている渡辺の顔は不満そうだった。それでも切り替えて、投手に頭を下げもう一度定位置で腰を屈めた。

渡辺は実況の言うように夏場はきまって調子を落とす。昔は夏男だったが、春からぶっ続けでやるプロ野球では夏場は体力的に苦しくなる。

それのせいだろう、夏には打率を3割からみるみる落としてしまって秋に少しより戻し2割8分に収束。そんなイメージ。…なのだが、今年は現時点で打率が2割3分以下とかなり深刻である。

「どうしたんだろうな。」

「色々あるんでねぇのかい、プロ野球の世界のことはまともには分からんさ。」

「……そうだな。」

また打球がショートに飛ぶ。今度は無難にセカンドへ送りファースト転送でダブルプレー。

それを見送ってから3人はよかったと顔を合わせる。三池は、食べ過ぎたのかふぅと息を吐き背をふすまにもたれかからせた。破れたら弁償ものになりそうでヒヤヒヤする。

「……俺たちさぁ、完全にバラバラになっちまったよな。今や1人は画面の向こう。」

この前横川が言っていたことと同じようなことをテレビに手を伸ばして、三池が言う。

「だよなぁ。もうそれぞれの場所すら視界の外だ。」

「……そんなもんだろ。僕らが分かっていなかっただけで、あの時からすでにこうなるのは決まっていたんだと思う。」

僕は前回と同じように返す。こう言うほかなかった。

「陽は、運命論者かー?」

「なんだよそれ。」

「運命と自由意思、対をなすものさ。運命は事象の発生が初めから決まっているとするもので、自由意志は逆に個の意思が生み出す偶然とする。」

「……どっちでもないな。」

哲学の話は正直分からない。何度か本を手にとって挫けた。

「おいおい、難しいことは言いっこ無しだ!……とにかくだ。俺はそれが寂しいと思う。」手元のワインをまた一息に飲んで、彼は続ける。

「こんなことを思うのは、学が無いからかもしれないけどな。俺は、出来ればまた9人で集まりたい。全員揃って。元から9人ちょうど。人数少ないってのに、こんなの無いと思うんだ。……色々あったけど、俺たちが離れ離れになることをめぐちゃんが望んだわけじゃないだろ。」そこまで言ってのけて、巨体はふすまごと後ろに倒れる。大きな音が鳴って、店員さんが飛んでやってきた。

「あの、大丈夫ですか…?」

三池は返事をしない。僕は代わりに、大丈夫だとうなづく。横川はふすまを指差し、謝った。安心した、破れてはいないようだ。

短時間での飲みすぎ食べ過ぎで、寝てしまったらしい。1人で気持ちよく喋り散らしてくれて、困った奴。

「全く。言わないように務めていた俺の業が水の泡だ。……どうする、俺らでは両肩かしても運べないと思うのだが。」

「……起きるまで待とう。迷惑だ。放って帰るわけにも行かないよ。」

本当、困った奴。



三池が酒の眠りから覚めたのは、終電も無くなった頃だった。歩いて帰るには遠すぎたし、タクシーを呼ぼうにも遠すぎた。つまる話が、行くアテのない放浪者。

仕方なく今日は非番だから大丈夫と言う三池に連れられ、3人でカラオケに行った。しかし飲み始めたのが早かったし、ほんの数曲で歌うのをやめて部屋の中で眠りこけて朝を迎えた。それもほとんどが横川によるアニソンメドレー。僕はろくに歌わなかった。

下手な体勢で寝たせい、だるい身体を鞭打って帰り道を大きな朝焼けに照らされながら歩く。

そういえば試合の日の朝もこんな光景だったっけ。プロテクターや用具でいっぱいの鞄を抱えて、水平線がまさに平らにどこまでも広がっていくのを見た、1人を除いて部員全員揃って。

三池は全員揃って、と言った。でもずっと前から僕らは欠けている。欠けた大きすぎるピースを埋めようとした僕らは、結局その埋まらないことに気づいて一層散り散りになった。

時間が埋めていく溝もあれば、時間が深くしていく溝もある。今や僕らの溝は大きい。場所、時間、心、全て。だからこのパズルはもう完成しない。僕はそう思う。

家に帰って、ユニットバスの狭い風呂でシャワーを浴びたら気まぐれで爪だけやすって、吸い込まれるごとく布団に入って寝た。それまでが嘘のよう、なにも考えず寝ることができた。

そうして起きてみたら、すっかり昼下がりである。さすがに焦った僕は就活用のビジネスバッグに入れてあった手帳を掴み取って、今日の日付を開く。

『10時から合同説明会in代々木』そんな記述を見つけて、僕はため息をつく。

時計をわざとらしく見ずとも、とっくにタイムオーバーだ。大して興味のある企業が来ているわけでもなかった(そもそも就活に興味がないとも言う)から、結果的には別によかったのだけど、これでこういった予定をすっぽかすのは何回目だろうかと考えたら憂さくもなる。

時間ひとつを守れないんじゃ、社会人不適合。いっそ就職をやめて今からでも真剣にトレーニングして、独立リーグのトライアウトを受けにいこうか。そんなことを考えたくもなって、右肩を見やる。

まずまともにボールを投げられないのだった。

もし投げられたとして、今や野球に対する情熱の火は風前の灯火状態、灰になりゆく線香のようにくすぶっているだけだ。考えるだけ仕方のないことを考えてしまった。

このまま1日を捨ててしまうと、本当に駄目になっていく気がして僕は日が落ち着くのを待って夕方からランニングに出かけた。普段と違うコース、5km弱家から離れた運動場まで走る。計画ではシャトルランや短距離ダッシュを運動場で行おうと思っていたのだけど、

「…声出てるなぁ。」

ファイトー、ローローとまだ変声期前の甲高い声が少しずつずれながら重なって聞こえる。

運動場では全面を使って、少年野球が繰り広げられていた。学校終わりに集められたのだろうか。ランドセルが白線の外にいくつか端に放り投げてあった。

試合形式の紅白試合。ホームベース横に得点ボードがあった。まだ2回の表で、始まったばかり。6回までしかボードの表記がないから、6回延長無しの形式だろう。

少年野球というのはプロ野球に比べたらもちろん、高校野球よりさらにテンポが速い。エラーや失投は多いが、とにかくストライクに来た球はほとんど打っていく。

少しだけ見てもし引き上げるようなら練習して行こうと考え、見ていくことにする。あつらえたように小高くなったところにベンチがあったので、そこに腰を落ち着けた。

別にどちらを贔屓するような要素も無いので、同じピッチャーの子をじっと見つめる。

低めにビシバシというわけでも無いけど、大方低めに小さな身体で力のある球を放っていた。投げられる分、今や僕にとってはお手本だ。しかし、なにも掴めずにいる内に攻守交代。

「おーい!!ライトもっとサッとはよ動けー!!」

監督の檄が飛ぶ。見ると、少しライト君の足取りが鈍かった。少年野球において交代の全力疾走は当たり前だ。

監督と言ったが、コーチだろう。立ち上がった姿はいかにも若々しく、腕組みをして立つ姿は隆々としている。僕はもしやと思って、眼を凝らす。

都会近郊とは言え郊外。狭い地域だ。ここらで野球をしている同年代は顔見知りがほとんどだ。

「おっしゃー!ドーンと決めてこい!!」

結局顔はよく見えなかった。しかしその喋り口調で分かった。

元チームメイト、岡森俊朗だった。

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