第5話 三池憲春

田丸との一打席勝負に負けたあの日以来、僕はイップスになった。早い話、ボールがまともに投げられない。

身体の感覚が特別変わったわけじゃない。意識していることも、普段どおりを心がけていたし実践したはずだった。けれど、球を思ったように繰ることができない。低めを狙ったつもりが、打者がいたなら頭の遥か上を過ぎていくような球になってしまう。

だからと言って、指先の感覚の問題かといえばそうでもない。球を抑えるために強く握ったら、今度は叩きつける。

投手になってから、こんなことははじめてだった。両端の閉じられた抜け出せない袋小路にいよいよ迷い込んだわけだ。いろんな試行錯誤が全て裏目に出る。暴れれば暴れるだけ袋は破けるどころか、さらに締めつけてくるよう。出方を探して惑うのだけれど、果たしてあるのかどうかすら。いっそこのままやめてしまえば、きっと楽だろうと思う。

それでも、僕はなぜか投げるのをやめられなかった。死ぬといういわば運命的な未来に抗う川に溺れるねずみのごとく。

狂気に身を委ねたように、ひたすら球を放った。腕を振った。坂田さんの制止も聞かない。その一球さえも、頭上を越えていったのだけど。


まともに投げられなくなって、もう1週間が経つ。やめなかった、とはいえ思ったように投げられないというのはストレスが溜まる。

高校の頃、一度だけ大きい怪我をしたことがあった。肩に強い痛みが走ったから病院に行ってみると投げ込みのしすぎで関節が損傷しており、その場で言い渡されたのは全治1ヶ月。

勉強で溜まるストレスの捌け口を失った僕だったが、不貞腐れることはなかった。同じく怪我をしていた西田に付き合ってもらって基礎トレーニングに没頭し、結果それが復帰後の球速アップに繋がった。

だが今回は話が違う。どこが悪いわけでもないのに、ただ上手く投げられない。腹が立って適当に投げつけた空のペットボトルだけは、魔法にかかったごとく綺麗にゴミ箱に吸い込まれていくのが、なおのこと僕の気分を害した。

だから、僕は捌け口を求めていた。薄暗い廊下をひた歩いて、思い扉をこじ開け部室へと入る。ここにはとっておきの「捌け口」がある。

「おぉ。誰かと思ったら、陽か。可愛い女の子でも来るかと思ったんだがな。こんな時間に部室なんてどうした?もしかして、就職先が決まったかい。」

「いや、それはまだ。まだまだだな。最終面接すら未だ遠いよ。今日は、大志だけ?」

「……凛か?凛なら今日は授業だからいない。他の部員も然りだ。」

「そう。それはちょうど良かった。」

あまり他人にベラベラと口外するものではないと思っていたところだった。分かってくれる人間もままいない。

となると、相談や話を聞いてもらえる人間だって限られてくる。極端な話、僕の周りでは唯一横川しかいない。

「なんだ、この前は俺しかいないとがっかりして帰っていこうとしたのにどういう風の吹き回しだ。」

「今回はわざわざ大志に会いに来たんだ。」

「そうか、そうかー………って、な、なに?俺は男だからな?」

「なにを言ってるの。ちょっと大志にしかできない話があるから来た。」

「……もう一度言おう、俺は男だぞ!?」

横川は本を積み重ねて、僕の前に壁を作り始める。意味不明な行動に、しびれを切らした僕は作られ始めた本の壁を横によけてから言う。

「よくわからないけど、お前を男と見込んだ上でさ。」

「な、なに?」

「実はーー」

ここ最近で起こっていたことの顛末を全て、赤裸々に話す。田丸に就活の折に会っていたこと、一打席勝負をして敗れたこと、今やイップス気味だということ。

はじめは懸命にまだ本の壁を築こうとしていた横川だったが、途中からは僕の話し声の真剣なことに気がついたのか眉間にしわを寄せつつ、1つ1つ重い頷きを交えて聞いてくれた。そして、話を終えた僕に定番の一言添える。

「……ごめんな。」

聞き飽きたくらい。もう何回目だろう、そのたびに僕は言ってきた。横川のせいじゃない、もちろん「君」のせいでもない、と。

「謝るなよ。大志はいつもそうだ、勝手に背負いこんでさ。」

「でもさ……あー……いや、そうだな。俺が悪かった。もう言わないから。悪かった分の償いをさせてくれはしないか。」

「…いらないよ。僕がこんな話を持ち込んだのが悪かった。」横川を捌け口として愚痴を言ってしまったのが、今となってはなんとも情けない。こうなることは、分かっていたのに、自分に精一杯でそこまで頭が回らなかった。

「まぁまぁ、遠慮するなよ。いいところに連れて行ってやろう。」

横川が、僕の肩を捕まえる。一応投手であることに気を遣ったのだろう、掴んだのは左肩。少し痛いと思わせる加減、さすが野球で鳴らした力は衰えたとはいえまずもって常人のそれの上をゆく。

こうは言っているが、要は横川が行きたいだけだ。この後の予定もなかったし、付き合ってやるだけ掃いて捨てるほど暇はあった。

「…痛い。どこにいくんだ?」

「まぁしばし待て。まだ昼だからな、盛り上がりに欠ける。部室で小説でも読んで時間を潰そう。」

「…大志、僕はその本は読まないから。」

掲げてきたこの前と同タイトルであろうラノベを受け取って、すぐ床に置く。

「なっ、これはこの前のとは違う。作者も絵師も違うぞ?よく見ろ!」

タイトルが長い時点で、僕には全部同じものに映るのだけど。


結局、今度も文学賞に見放されたあのお方の本を読んで時間を潰し、大志の言う盛り上がる頃合になって部室を出る。

もう夏がそこまで迫っている。空には時間が遅くなっても太陽の残光、それが街に薄暗い蒼さを演出する。

昼間は猛威を振るっていた都会の砂漠ことコンクリート灼熱は和らぎ、肌にシルクを撫でるような柔らかい夜風が吹く。

それも昼間の熱いビル風と同じとは思えず、心地よさまで感じてしまう。

明々と光るネオンを除いては。

「おいおい、お前はどこに向かってるんだよ。ここって、……いわゆる歓楽街だろ。」

見渡す限りだけで5,6こ確認できるキャバクラや風俗案内所だったり、ガールズバーだったり。アウトローぎりぎりあやふやな店が袋に詰められたビー玉のように乱雑に狭しと並ぶ。

「あぁ、そうだ。ほら、あの角見てみろ。あぁいう女の人が接待してくれるんだと。」立っているのは、もう下着と変わらないくらい短いショーパンに長く細い足を投げ出した眉も睫毛も濃ゆいギャル。通りすがりの男を待ち受け捕まえるかのように、4人同じような背格好の人間が並んでいる。

「待て待て!!普段はプラトニックこそ恋愛の極み、とおっしゃっていた心清い大志くんは一体どこへ?」

「陽ちゃん、それはそれこれはこれだ。当たり前な話、現実は虚構よりも現実味があるんだ。文学者でも、こういう店に通った人は少なくないと聞く。」

「…言い訳だ、そんなもん。」

「まぁものは経験さ。」

ずんずんと歩んでいく横川の隣で、僕は怯える。ネオン街などこれまで全く縁がなかった。その方面の欲求もなくはなかったが、行動に移そうと思いたちはせず。

もう一度だいぶ距離の近づいてきた派手系4人を見て、僕は尻込みする。暗さが災いしてか、同じ顔のクローン4人にしか見えないのがより怖く思う。

「…はっはは、やっぱり陽ちゃんは面白いな。行かないよ。この先にコストパフォーマンスのいい飲み屋があるから通り抜けるんだ。」

「なんだ脅かしやがって。」

「そう怒るなよ。軽い冗談さ。…もっとも、陽ちゃんが行きたいと言うなら行ってもいいけど?」

「いいや、遠慮だな。」

少なくともあの人たちの接待を受ける気にはなれない。目をそらしつつ通り抜ける。

「おっ、と言ってたらその奥には公権様か。やっぱこの辺は、派手だなぁ。」

「警察か……なにか強盗でもあったのかな。」

「いんや、単にこの辺りの警備だろう。問題が起こりやすいんだ、こういう場所は。それに、ちょっとでも法に触れることをやってしまえばこの辺りの店は全部アウトだからな。」へぇと生返事をする。

赤く光る警棒を片手に、向かってくる警察官の男を見た。荒地の警備をさせられているだけあって、身体つきはがっしりと鎧のように大きく如何にも武道家という身体。紋章のついた帽子を深く被っていてその奥の瞳が映らないおかげで威圧感、風格さえを感じる。

「警察って見るだけでちょっと怖気づいちまうよな。悪事に身に覚えはないのに。」

「分かるよ。逃げたくなる。罪があるとしたらなんだろうかって考える。」

「大志の罪はさしずめ、ラノベ推奨罪だな。」あのあとも面倒になるほどラノベを勧めてきた。別に読んでいた難しい表現が頭を弾いていくぐらいに。

そんな会話が聞こえていたのだろう。

「おっと!そこの2人、ちょっと止まってくれい。」いかつい警察官に制止を食らう。

「おいおい、下手な話はするもんじゃないな。本当に止められてしまったじゃないか。」

「はぁ……大志はほんと。あの、怪しいものじゃないんです。」大志のしゃちほこばった言葉遣いは確かに怪しいけれど。実際は、ラノベを拗らせただけのしがない学生だ。

ポケットに入れた財布に手をやる。これまでも何回か職質と言って止められたことがあったけれど学生証を見せれば、大抵ものの数秒で放してくれた。警察官だって税金稼ぎに忙しい。金を持っていない学生などは相手にするだけ無益と分かっている。

「そうかい?なら、身分証を見せてもらえねぇか。」

「大志、身分証持ってるか。」

「あぁ、免許証なら。」

僕らが素直に差し出した身分証をどちらも蜂の子ひとつ通さぬと言うように見て、大柄な警察官は、

「やっぱり。お前らだったかぁ。」

大志と僕の肩をがっちりと大根のように太い腕でホールドする。

「は、え?大志、実は犯罪に手を染めてたのか。」

「なにを言う!俺はどこまでも善良な市民さ。陽ちゃんこそ、幼い顔して泥に両足突っ込んで……」

「おいおい、なにを言っている2人とも。」

警察官が僕らから手を離す。順序で言えば手錠かとよぎったがそうではないようだ。持っていたハンカチで唐突に顔を拭いて、帽子を取る。

「俺だー、三池だ。忘れたなんて言ったらタダじゃおかねぇかんなぁ。」

「もしかして、みっけ!!?!」

大志と声が揃う。よく知った顔だった。

三池憲春、僕らの同級生で左投げ左打ちファーストを守っていた男だ。普段はフリースインガーで、凡退やヘマも多いバッターだったがツボに入ればどこまでも飛ばす力を持った6番バッターだった。

容姿が暗闇の中で見えづらかったことや声の変化で、よく見るまでは気付けなかった。

「もしかしなくても、そう!三池。かなーり久しぶりだな!」

「そうだな、何年ぶりだ。」

「やっぱり卒業して以来じゃなかろうか。」

「おう、そうだ。それ以来だな。」

三池は、ガハハと笑う。高校の頃は、声変わりが例外的にかなり遅く身体に似つかわず可愛い声をしていたのが、いまやすっかり身体に似合いの重低音声だ。

「変わらないなぁ、おめぇら。」

昔は合わなかった爺じみた渋い口調も、すっかり似合うようになっている。

「お前が変わりすぎなんだよ、みっけー。すっかり公権力の犬に成り下がったか?わざわざ身分証まで出させてくれて。」

「はっはっは。おまえらかどうか確信が持てず、確かめたかったんだ。すまなかった。」

「職権乱用だ…。」

僕は、身分証を財布に戻す。

「これぐらい許されるはずだ。実際、ちとばかし怪しかったしなぁ。ちょっとでも悪事を働いたら、しょっぴいてやるからな。覚悟しとけぃ!」

「……よくいうよ。僕覚えてるからな、花火してぇと興奮して真っ先に警察に見つかったみっけのこと。」

「はっは。そりゃまたえらく昔の話だな。」高校2年の頃だった。練習終わりに花火をしようと、三池がエナメルバッグに隠してまで持参した。近くの河原まで行って花火をしようとしたのだが、ろうそくに火をつけた段階であえなく警察に止められた。そんな主犯格が今や巡回なんて、時の流れは人を変える。

「で、なんでい。お前らも風俗浸りかい?いただけねぇな。」

「違うさ、通りすがり。これから飲みに行く道中でね。」

「そうか、それはよかった。この辺は荒れてるからな、おまけに……病気も蔓延してるとか。」三池が耳打ちして囁く。思いあたって振り返ってみると、さっきの女4人の姿はなかった。日ごと日ごとその日暮らしで、世間や法から逃れ隠れ営業をしているのだろう。

「危険な轍は踏まないに限るな。1つ聞こう。俺らがこれからいく『鉄砲屋』はどうだ?」

「うむ、あそこは良い店だ。俺もよく行く。もうすぐ俺も非番になるのだが、あとから行ってもいいかい?久しぶりだし、積もる話もあるしな。」

「あぁ、歓迎するよ。陽ちゃん?」

「僕もいいよ。先に行って待ってる。」

「そうかいそうかい、ならよろしく!」

三池と一旦別れて、僕らはネオン街を抜ける。目当ての居酒屋にたどり着いて、それぞれチューハイとビールを頼んで三池が着くより先に酌を始めた。

ビールを美味しいとどうにも思えない。酒は好きだが、飲むのは決まって甘い果実酒のみ。わさびも苦手な子供舌だ。

大志もビールは得意ではないと言う。それでも酒を飲むときは、決まってビールから入る。

酔っているのだ、一杯目にビールを飲むという社会人紛いの行動に。酒だけに。

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