第2話 野球部じゃない

 次の日、僕は久しぶりに学校へ足を運んだ。

 久しぶりというのも、もう4回生。授業そのものが、週に1回2コマしかない。加えて先週は、企業の説明会が重なって自主休講をした。実に2週間ぶりの学校だった。

今は授業の合間、教室移動の時間。忙しそうに縦に広いキャンパスを動き回る学生をぼんやりロビーの長椅子に座って眺める。僕は次の時間は、空きコマだ。1年前までは彼らの側だったことを思うと、感慨深いような、寂しいようなものを感じる。

学生でいられるのは、もうあと1年もない。

 目の前を通り過ぎた女子学生が、「単位がー」「やばいよね」と口々に言い合う。

 幼さやあどけなさから察するに1回生の子たちだろうか。実はそんなに大変でもない、という事実を伝えてやりたい。テストのほんの数日前から付け焼き刃で勉強を始めても、十分A評価で通る。

 無論、それすらしなかったり、教授が意地悪だったりすると、なんの感触もなくすり抜けていくのもまた単位であるが。

 それで言うなら、僕は優秀だった。3年生までに落とした単位はたった2つ、それも受ける授業を間違えていたというイレギュラー。その他は、すべて通ってきた。胸を張って誇れるようなものでもないが、同回生の人間で今必死になって単位取得にあえいでいるものもいる。就活の気味の悪い大変さを考えると、腐らずにやってきてよかったと思う。

 そもそも大学には、スポーツ推薦で入った。そこそこ名の知れた大学で、就活でも学校の名前を言うだけで一部から「おぉ…」と声が漏れる。

 もちろん野球の、である。高校三年、クラスメートが受験勉強に勤しむ中、秋口まで後輩に混じってトレーニングを続け、推薦入試を受けた。

 テストは無残と言えるほど不出来、スポーツテストでも練習の甲斐なく不調。もう落ちたと思っていたのだが、面接で話した地方大会準決勝まで進んだ話、その試合で1点に泣いた話が、面接担当の教授に涙と拍手を買って無事に合格。

 面白いのが、この話は企業相手の面接でも驚くほどウケがいい。僕の人生は、良くも悪くもあの試合に引っ張られて決まっていく。

 けれど、大学に入ってから野球をしようとは思えなかった。冬の間、不思議な倦怠感に襲われてトレーニングをしなかったせいや諸々の事情があって、その頃には既に野球への情熱ややる気を喪失していた。もうスポーツ自体にうんざりしていた。大学の勉強に身が入ったのも、スポーツをしないなら勉強くらい……という消去法だ。

 部活やサークルが懸命に部員勧誘を行う4月、僕も友達を作らねばと色々勧誘ブースを見て回った。入るなら文化系、そう決めていたのだけれど、声をかけてくるのは、僕の体格のせいか野球やラグビーなど体育会系ばかり。(その頃は今よりずっとガチっとしていた)よくてイベントサークルやテニスサークルだったが、どうにもきな臭い匂いがして受け付けなかった。

 どこにも所属せずスタートした学生生活。元来が陽気な方なので学部にはすぐ友達が出来た。ものの、その友達もサークルやバイトだと忙しくしていて、春学期が始まって1月も経つと1人で暇を持て余す時間も多かった。

 そんな時に、横川がサークルに誘ってくれた。横川は、高校時代の同級生そして野球部、昔から馴染みの友達だった。ポジションは1番センター、左投げ左打ちでセールスポイントは速い脚を生かしたべらぼうに広い守備範囲と内野安打。逆に荒いところもあって幾度もヒヤヒヤさせられたものだが、それ以上に助けられたと記憶している。

 横川は高校ですぱっと野球をやめて、元々優秀だった勉強で僕と同じ大学へ一般募集で合格。そんな彼が野球の他に好きだったのが、文学だった。高校時代は、一部の高校野球評論雑誌で「守る文豪」なんて言われていたことがある。

そんな彼が誘ってきたサークルは文芸部。それまでの僕とは全く無縁のものだった。

 なにをしているのかと聞いたら、既存小説の批評会や新小説の執筆活動。しかも毎週課題図書を読んでくる、というおまけつき。活動内容を聞いて、瞬時に無理だと身体が拒否反応を起こしたが、あんまりに横川が熱心だった。毎日のようにメール、そして面と向かっても誘ってくるので、折角だからとそれまで、文芸の「ぶ」の字も知らなかったが体験入部をしてみることにした。

 学部の友達には、変人が多いからやめとけと口々に言われた。体験入部をしてみると確かに変な人が多かった。1人でに喋り出す人や、紙面と向きあって無言の人、小説の糧にすると出掛けていったきり2ヶ月帰ってこない人。

 一人ひとりのアクの強さは、雑多な具の入った鍋より酷い。

 だが、それが逆に新鮮だった。これまであまり関わったことないタイプの人に囲まれて、それが楽しいと感じ始めた。横川経由で浸っていくうちに、いつしか居心地がよくなって、ついに正式に入部を決めた。

 入ってからも、基礎知識がないため「アパシーが〜」とか「デピクトが〜」なんて連発する批評会には四苦八苦していたが、2年になる頃には慣れた。

 だが、こと執筆活動に関しては、まずどう書き出せば良いかも分からず未だに一度もまともな文章を書いたことがない。

 凡才なのだと思う。人の受け売りの文章ばかりが、浮かんできてしまう。

 一度、「私は、狐になってみたいのである」そんな風なタイトルで文章を書こうとしたことがある。狐になって、戦争ばかり繰り返す人間界を憂う。最後には戦艦作成のために、住処にしていた森を切り倒され、空爆をもろに食らって死んでしまう。

 タイトルから「私は貝になりたい」、と「吾輩は猫である」が混じっただけの超駄作。作者自ら書く気がしないという無惨さだったので、あえなくボツになった。それ以来、書こうともしていない。

 しけたロビーの空気を吸っては、吐き出す。梅雨の時期は晴れた日でも、全体にどこかウェッティだ。朝、服を着るときもどうにも乾燥していないように感じて、一々確かめてしまった。

 なんにせよ、1コマ1時間半の空き時間をこのまま捨ててしまうのはもったいない。

 思い立ったが吉日。サークルの部室に顔を出すことに決める。最近は参加していないので、「たまには」というやつだ。

 部室棟は、学校から少し離れにある。一度キャンパスを出て、東へ歩くこと5分。夕方にはサークルや部活へ向かう学生で道が混むのだが、今は空いていた。

 文芸部の部屋は、部室棟の一番上階である4階の突き当たり。プラモデル部やアイドル研究部、さらにはお遊戯部なんてユニークなサークルが並ぶ一番奥にある。学校の別キャンパスの裏、窓が北向きについていることから、もっとも日の当たらない場所、とまで言われている。

 階段を上り、電球の切れて昼でも暗い廊下を進む。部屋の電気は付いていた。

「久しぶりー……って……」

 重たい鉄の扉を開けて、中へ。

 開くときは重い、閉まるときはうるさい。なんと使い勝手が悪いことか。

「あ、陽ちゃん。珍しいの」

「なんだ、大志しかいないのか」

「あぁ、1人は今席外してる。でも2人だ。今はまだ4限だから、次の時間になったらもう少し増えるんじゃない?」

 横川しかいなかった。こいつはいつ行っても、いる気がする。大学院に進む、と言っていたのに勉強は大丈夫なのだろうか。部屋中が本で溢れかえっている真ん中、やっとのことで作ったスペースで本を枕にして、転がって本を読んでいる。

 この部屋は、とかく本が多い。8畳ほどあるはずの部屋が、実質4畳になるくらいには所狭しと積まれている。

 最初に訪れたときは、オカルト教団の巣窟かと疑ったほどだ。芥川龍之介や、夏目漱石、知った名前の文豪の本がずらりと並ぶ。だがそれが並ぶのは部屋の半分まで。

 棚の最後尾。丸山眞男(政治学専攻の先輩が残していったらしい)、松本清張、と順当に来て、最後が三島由紀夫の『不道徳教育講座』。

 そこで、急に毛色が変わる。次の段の一つ目が、『ああっ女神さまっ』。

 ここからは急にライトノベルや漫画、児童文学が並び出す。

 その様は、背表紙の色の違いや雰囲気の違いもあって一目瞭然の怪奇さ。や行の作家はどこへやら。吉川英治や横山秀夫など名の知れた作家もいるのに。

「そうか、久しぶりに顔を出そうと思ったんだが」

「なかなか殊勝じゃないか。俺は嬉しいぞ。さ、なにについて語らう?」

「僕はその小説知らないよ」

「ほう。なら、説法してやる」

 こんな格好つけたセリフを吐いている横川が手に持つのも、ライトノベル。タイトルは……長すぎて読む気もしない。タイトルで辟易するあたりは、まさに僕が描こうとした小説と合致する。

 たぶん向いていないのだ、この類の文学が。

「……うーん、大志しかいないなら帰っていいか」

「なんだなんだ、薄情すぎないか?同じ部活、同じサークルの好はどうした。それに俺だけじゃないと言っただろう。もう少しゆっくりして行こうじゃないか。今度、キャッチボール付き合ってやるから」

「……まぁ、じゃあそのもう一人に挨拶するまではいることにするよ」

 横川がこう言って、実際にキャッチボールに付き合ってくれたことはない。誘ってみても忙しいから、とはぐらかされる。

 その度に、暇じゃねぇかと思う。

「うん、懸命な判断だな」

「ちなみにその……もう1人は、何回生だ?」

「あぁ1回生の女の子だ。見たら驚くぞ、たぶん」横川が頷き言う。

絶世、傾城の美女なのだろうか。それとも、その逆か。平凡な僕の頭は、煩悩な答えを導き出す。

「大志、いかがわしいことしてないだろうな?」

「はっははっ、するわけないだろ。万に一つも、そんな気には…うーん、ならんな」

 世にも醜い……不整形な女説が僕の中で浮上したところで、鉄の扉がギシッと音を立てる。いよいよ噂のお出ましだろうか。女の子1人じゃ開けられないようなので、中から引っ張ってやる。

「あ、ありがとうございます!…………先輩?」

「あぁ、いいよ。あれ……どこかで見たことある?」記憶のどこかに、かろうじて引っかかる。糸一本引っ張り出せば、思い出せそうなところ、

「どこかもなにも!!私、凛です。西田凛。」

「……。あー、タカの……」

「そのレベルですか!? ショックです。」

 その糸を無理に引っ張り出された。元・僕の女房役、西田孝典の妹だった。

「ほら、驚いただろ」

 横川はどうだ、と言わん顔。

「変わりすぎて分からなかった……」

 前に会ったのは、まだ僕が高校生、凛ちゃんが中学生の時だった。とんだおてんば娘で、授業を抜け出して試合を観戦、応援しに来てくれることもあった。

西田はその度に困り顔で叱っていたが、それでもやっぱり嬉しそうだった。僕にも同じように大きな声援を送ってくれて、僕の登板前には必ず大声で激励してくれた。

 実に4年ぶり、大きくそして綺麗になった。年の分だけ、清適さが発現していた。黒髪に、雲母の結晶のごとく清冽した瞳、それにほんのり塗った化粧が映える。

 高校卒業以来、まさか西田に会うより先に、その妹と再会するとは思わなかった。

「それは褒め言葉ですかね」

「うん、褒めてる。元気にしてたか?」

「はい。受験勉強で多少やつれましたけど、今はすっかり元気です」拳を握って、ニカッと笑う。笑うと西田の面影がある。

「文芸、興味あったの?」

「正直言うとあんまり。でも、今は興味ありますよ。……大志さんの「おかげ」で」

「皮肉か?凛も染まってきたなぁ、文芸部に」本当、仲がいい。たしか横川家と西田家は家族ぐるみの付き合いをしているんだったか。忘れていた思い出が、ゆらゆら甦ってくる。

「不服だけど、そうみたい。あー、この大学入ったの間違えだったかなぁ」

「そこまでなの?」

「いえいえ、冗談です。元々目指して入ったので。あっ、赤嶺先輩にも会えましたし!」

「そりゃどうも」すぐに否定する、つまり本当には思っていない証だ。僕に会えてよかった、というのも同じく定型句の世辞。

「そうだ。記念に3人で写真でも撮りませんか?いい感じに編集して、野球部バリバリだった人と仲良しなの、って友達に自慢するので」凛ちゃんはそういうと、小洒落た淡いピンクの鞄をごった返して探り始める。雑だ。

「自慢になるほどのもんかねぇコレが」

 横川の頬をぐりっと指で2度3度押す。

「お前こそ、そのやる気のない面構えはなんだ〜?陽こそラノベの主人公気取り?やめとけ〜、大抵ダサいから」

「……大志、あんまり同じジャンルばっかり読むのはよくないんじゃないか?」

「上手い書き手の文なら、そんな主人公でも面白いんだよ。」泥かけ仕合の様相を呈してきたけなしあい(?)がひと段落したところで、凛ちゃんが低頭してアンダートーンに切り出す。

「あの………盛り上がってきたところで、悪いんですが」

「ん、どうしたの?」

「……あー、携帯置いてきちゃいました。取ってきます。」靴を履き直して、扉を開けて駆け足に出ていく凛ちゃん。見目は変わっても、大雑把でうわすべりしがちなのは変わらないみたいだ。

「あーいうところも、タカに似てるよなぁ。そう思わないか、陽ちゃん」

「思う」

 キャッチャーとしては大物の傷。4試合したら、1回は大きくやらかす。加えてポロポロ後ろに逸らすものだから、当時の監督にも散々言われて、後輩の控えキャッチャーと「代える、代える」といつも脅されていた。それでも結局、僕の女房役が西田から代わったことはなかった。大抵、ミスをしたあと打撃でそれ以上を取り返すのだ。好機絶好、4番強打の右打者だった。

 それに、なによりリードと投球の息が合うのが西田だった。壁に対して投げるよりは当然のこととして、後輩が受けるよりずっといい球が放れた。

「でも、まさかタカより先にその妹と会うとはなぁ」

「…そうだったの。陽ちゃん、まだ会ってなかったのか」

「…あぁ、なんていうか………その、会いづらくてさ」

「…ごめん」

「なんで大志が謝るんだよ」

 僕が西田と会っていないことに、横川は無関係だ。2人の個別的な事情。

西田が謝る理由も分かるが、それを認めるほど自分を守ろうとは思えない。

「あぁいや、雰囲気だよ。本気と書いて、マジになるな。そりゃ仕方ないよな。わざわざ会おうとは思わないか」

「うん」

「俺ら野球部、卒業以来集まってないしな。あの頃は『一蓮托生、運命共同、護送船団方式』なんてカッコ悪い言葉、みんなで帽子の裏に書いてたのに。」

「発案したのって、ナベだっけ」

「そうだな。今や夢のようだけど。あいつの言葉選びのセンス、本当にダサいよな。未だにあいつのヒロイン、見てるこっちが怖くなっちまう。」渡辺南。左打ち、ショートを守り、3番を打つ。これぞ、という華型内野手。全てにおいて才能があって、誰かが怪我したら、そのポジションを緊急で守る。僕が降りたマウンドに上る2番手も渡辺だった。

 その才能はたしかなスカウトの眼に止まり、ドラフト5巡目で入団。指名会見にも居合わせたから、はっきり覚えている。今や東京ヤクルト不動のショート。打順は層の厚い野手陣に押されて7番だが、好打者の基準とされる3割近辺をコンスタントに打っている。

「……たしかに」

「……なぁ、いつから俺たちこんなに道を違ったんだろうな」読んでいたラノベを閉じて、横川が僕を真剣味のある目で見つめる。

「そりゃあ違うさ。あの頃だって考えてること、やりたいことはみんな別だった。たまたまあの頃やることが一緒だっただけだ。1人1人それぞれの今があるんだろ……と、僕は思う」

「なるほど。言い分はわかったよ」

 言いながら、横川はまたラノベを開く。栞をはさみ忘れていた。だいたいその辺り、というページをペラペラめくっている。

「適当に言ってるだろ」

「いいやまぁ、あの頃と変わったのはたしかだな。陽ちゃんは、そんなクサい台詞がさらっと言えるようになったしな。もう君は野球部じゃない、立派な文芸部だ」

「……そう、なのかもな」

 横川の言った最後の言葉が、頭に妙に響いた。暫時、離れてくれなさそうだ。

「そうと分かったら、卒業制作の小説くらい参加しろよな」

「書けたら書いてるよ」

「そうだな。……おっと、そろそろ凛が帰ってくる。この話はやめよう。一応、秘密裏にって話だ」僕は、あぁと気のない返事をした。

 その後すぐに凛ちゃんは戻ってきた。撮った写真の写りは、光の加減のせいもあって微妙。編集技術に期待することにして、授業の時間が始まる直前だったので、本キャンパスに戻った。

 4限は卒業論文のゼミ。「卒業したけりゃもっとしっかり研究しろ」、と教授にどやされたがくだんの横川の発言が頭にこびりついて、全く入ってこなかった。

経済の論文なんて僕が書くより、偉い教授が書けばいい。目下のテーマにしていたタックスヘイブンの経済効果も、正直言えば興味がない。

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