君に捧ぐ。

たかた ちひろ

第1話 12日目の月。

 見慣れた県営球場の質素なグラウンド。地方大会の準決勝、有名高校同士の組み合わせでは無いためか観客はまばら。

 聞こえるマーチングは、相手校の吹奏楽。曲は夏祭り。高校野球、定番の応援歌だ。東京ヤクルトスワローズのチャンステーマでもある。

それまでは、グラウンドレベルの声以外なにも聞こえなかった。いい意味で集中していた。あとひとつ!キャッチャーの西田が声を張り上げる。そうだ、あとひとつ。9回2アウト2ストライクボールは2つ、これを乗り越えれば夢の甲子園への切符に王手をかけることになる。

 自分を応援してくれる誰もがそれを願っている。自分のため、みんなのため、そんな願いを青すぎる空と高すぎる太陽に掛けて、キャッチャーミットを睨み直す。


 途端、だった。

 音がした。それも割れるような大きな音。さっきまでなにも聞こえなかったのが嘘かのように、スタンドで誰かが叫ぶ声や喋る声が全部聞こえた。そして、その全部が自分の右腕に向けられている気がした。

 自分を落ち着け、とただす。散々触ったロージンバックに意味もなく手をやった。深呼吸をして、至るところから伝ってくる汗を拭う。しかし、拭った途端からまた伝ってきた。

 それくらい、暑い暑い夏だった。

 それでも音は拭えない。その中に一際大きく、ある女の子の声が聞こえてきた。

 頑張れ、頑張れ。

 ここにいるはずのない人の声だった。それでも思いがけないほど勇気が出た。ぐっとボールを握る。握りはフォーシーム、キャッチャー西田の要求どおり。そして、自分の意志どおり。球が特筆するほど速いわけじゃなかった。130km中盤が出れば、調子がいい時だ。準決勝までこれば、それくらいの投手はゴロゴロいる。

それでも準決勝までこれたのは、仲間のおかげだった。自分が打たれたら、捕ってくれて、打ってくれた。

 これまで自分が投げたボールは全部、その仲間のためと言ってもよかった。

 でもその球だけは、違った。

 ランナーがいたからセットポジション。左足を大きく前にクロスするよう踏み出して、胸を張り強く腕を振る。

相手は左打者だった。その胸元をえぐるように渾身の一球、クロスファイア。まさに狙い通りにして、これしかないというボール。

 それが僕の投げた高校野球、最後の一球。

 ライトスタンドへと消えていったあの一球。




──あの夏のそのたった一球を、君に捧ぐ。







 赤嶺陽はうんざりしていた。

 まだ6月だが、暑い、暑い、暑い。それも心地の悪い、嫌な暑さだ。

内側からじめっとした汗が噴き出てきて、つい不快感に顔がゆがんでしまう。誰にどこから見られてるとも分からないから本当はこんなことでは、いけないのだけど。

 なぜこんな暑い中、スーツを着なければいけないのか。それもクールビズスタイルではなく、ばっちりジャケット着用である。日本社会の融通の利かなさを、1人嘆く。無論、同じことを思っている人間がこの会場には山ほどいると思う。実際、前の女の子は大胆にも胸元を開けてパタパタとさせている。これが説明会の場じゃなければ、間違いなく覗き込んでいた。可愛い子かどうかは、後ろ姿からでは分からないがスタイルは良さそうだ。それだけで十分な価値がある。隣のやつは、背筋をピンと伸ばして実際に覗き込んでいた。自分に正直な奴である。

 手元の資料を手持ち無沙汰にめくる。なんと、つまらない内容だことか。進行の下手な若手人事のせいで、よりつまらない。そのせいだけで、この会社に入る気を現在進行形で失くした人も3割はいると思う。

 僕はどうかと言われれば、残りの7割の方だ。あれが許されるなら、きっと仕事も緩いに違いない。

 自分の隣の人が持参のノートにぎっしりと会社情報を書き込んでいるのが目に入る。一方の僕ときたら、暇すぎて貰ったパンフの裏にメモを取るふりして人事の似顔絵大会を始める始末。絶望的な絵描き能力では、特徴の一つも捉えきれず、人事全員が歪んだ顔になってしまった。特徴も捉えきれない、というのは就職活動に致命的と言える。これが就職活動に真剣な人間と、そうでない人間との差。

 自分の絵を自分で笑い飛ばして、この後のことを考える。帰って、寝て、ランニングからのバッティングセンター。ここ最近のルーティンだ。少し前までは、これに授業とバイトが加わっていた。

 本気でない者からしたら、就職活動はむしろ暇を持て余す。無駄なトレーニングを再開したのも、その暇さが引き金だ。無駄な、といったのは別に披露する場所もないから。野球部にも入ってなければ、サークルにも同好会にも入っていない。それでも続けているのは、暇があるからだ。時間を潰せて、健康的でもある。

「…ちょっと、おい! 聞いてるか」

「ん?」考えごとに耽って気づかなかったが、隣の男が執拗に声をかけてきていた。申し訳ないと瞬時に思ったが、謝りはしなかった。さっきの変態覗き野郎だ。なんなら、こいつが謝るべきだ。前の彼女と、理性に抑えられて見ることのできなかった僕に。

「早くアンケート回せ」

「……あぁ、そういう」

 白紙のアンケート用紙を上に重ねる。名前も書いていないから、誰かと詮索されて目をつけられることもないだろう。心配することはない。

僕が回すと、そこからはもう準備万端だったのだろう。とんとん回って、人事にアンケートの束が渡る。

「以上で終了となります、本日はお暑い中ですが、ご来場並びにご静聴ありがとうございました」形式的な挨拶がなされて、人事が後ろへ引いていく。あの若い職員は、この後きっと夜まで怒られるだろう。そして、同じようなことを次の説明会でも繰り返し、また怒られる。それでも雇ってもらえているだけマシ、と言おうか。伝統の家族的経営の旨みであり、会社の弱み。

 ちらほらと席を立つ人が現れる。

 ともかくにも終わった。僕も席を立とうとすると、

「すごいですねー、よくあんな堂々とサボれる」

 横の変態が声をかけてきた。スーツの襟やタイをただす。なにかと同化したがる日本人には珍しく、ラインの入った紺のスーツに派手な赤いタイをしていた。

「えと……むしろすごいですね。派手、というか」

「あぁ、そう見える? 昔から赤色が好きで。」

「赤ですか、刺激的ですね」

 女ならまだしもぽっと出の知り合った男と会話を続けることほど、生産性に欠けるものはない。適当に答える。しかし、相手の受け取り方は違った。

「そうなんです! 燃え上がってくるというか、やる気ってのが滾ってくるんです。就活もこれなら乗り切れるか、と思って。たまに赤信号でもふつふつと意欲が湧いてきたりして困ります。好きなチームは、広島カープとACミラン!」自分に興味を示してくれたと思ったらしい。見ているだけでお腹いっぱいな濃い顔立ちで、にかっと歯を見せて笑う。

「そうですか、それは大変だ。」

「でしょう? 他にも赤いものに目がない。担々麺とか見かけたらすぐに入っちゃう、それで次の日はお腹痛くなるんですけどね。非効率的でしょう。あなたは、なにか好きな色とかありますか?」

 このままでは話を終わってくれそうにもない。この後の予定を滞りなく進行させるため、反則行為に出る。

「……何色でしたか」

「? なにがですか、僕の好きな色なら赤で……」

「違います。さっきあなたが覗き込んでいたブラ」

「あーっと!!!」

 これでこの男との会話は終わり。勝った勝った、変態男に勝った。これで、予定も乱れることなく帰ることができる。僕がいよいよ会場外へと足を踏み出したところで、肩をガシッと掴まれる。またさっきの変態男だった。

「白だった」

「別に知りたくねぇよ、その情報」

「あなたが聞いたんじゃないですか、最初に」

面白い奴だと思った。この変態にちょっとだけ興味を持ってしまっている自分がいた。

「赤じゃなくて、がっくりした?」

「あぁ燃えなくてよかった。ってなんの話だよ」

 そのあと、実りのない下らない話をしながら駅まで一緒に帰った。流れで始まったパンツやブラジャーの話、それからどこに住んでるのというような初対面定番の話、なに系を志望しているのかという就活生定番の話。出身地は、同じ県だけどその男は最北端、僕は最南端だった。都会な南と田舎な北、環境の違いについて盛り上がった。

 名前は、田丸。下の名前は聞いたけど、忘れた。熱い男だったから、熱男としておく。ただもう呼ぶこともないだろう。会うこともないと思う。



 家に帰って、スーツを脱ぐ。最近この時間が、もっとも人間的な時間ではないかと思う。それを学べるという面では、就職活動は立派に社会人へのステップアップとしての側面を持っていると思う。大して重くもないジャケットなのに、脱いだらすっかり肩の荷が降りた気がした。明日は休みだけど、明後日にはまた別の企業の就職説明会がある。ファブリーズだけ吹っかけておいて、吊るし直す。夏場まで続くことになってしまうなら、もう一着くらい買えばよかった。最近は、ジャケットでも風を通しやすく軽い夏用があるという。値段も上下セットにタイやベルトをつけて1万円弱というお手頃さ。ただ買いに行く暇と気力とがない。

 しばし、夕方のニュースで「最近気になるニュースは?」という定番の質問に答えるための情報を得てから、半パンにアンダーシャツという極めてラフな格好でグラブと水筒だけを持ってランニングに出た。いつも集合住宅の周りを10周ほど回ったら、その足でバッティングセンターまで走る。だいたい4,5kmくらいはあるだろうか。平坦な道だけでなく、起伏の激しい道もあって走ると中々いい運動になる。物足りないと言われるかもしれないが、1日10km以上をも平然と走っていた高校時代は、昔の話である。今はこれでもしんどい。バッティングセンターは、街からも住宅地からも少し外れたところにある。少し名の知れたところで、オフにはプロ野球選手もその感触を確かめるために訪れる。何度かあったことがあるが、身体の大きさや初対面の僕に指導までしてくれたその肝っ玉の大きさには驚いたものだ。

 たばこを吸う親父、少年野球のコーチだろうか、の横を通って、取って付けたような鈴を揺らし、店内に入る。

「おっ、今日も来たかい。どうだったい、就職活動って奴はよ」

「どうもないですよ。時間を潰してきたなぁって感じです」

早速遠慮もなく話しかけてきたオーナーの坂田さんとは、もう長い付き合いだ。

「最後は、うちで雇ってやるからの。いつでも言うてくれ」

「……本当の最後の手段にしたいですね」

 楽そうだし悪くないのだが、月給が心配だ。総額で20万は絶対行かないし、手取りで10万あるのかすら怪しい。

 サイン色紙や写真がいたるところに貼られたよく訪れる著名なプロ野球選手のおかげか、週末には並ぶくらい混んでいて、売り上げは悪くないはずなのだが。

「今日はバッティングもしていくか?150km以上の球出るように設定してあるからな」

「……いや、いいです。バットも持ってないですし」

「うちのバットじゃさすがに不満か、ははっ」

「そりゃあまぁ」タンクトップにヒゲを豪快に蓄えた坂田さんの姿を見る限り、決して裕福ではないのだろう。

「……今日はお客さん少ないですね」

「まぁ、そんな日もある。おかげで今日は、陽ちゃんのボールを目張って見られるから偶にはいいってもんよ」

「そんないいものじゃないですよ」

 扉を開けて、ゲージに入る。バッティングゲージが並ぶ一番端に、ピッチング練習場とキャッチボールスペースがある。

 本当は1回ごとにお金がかかるのだけど、坂田さんが特別に、ということでタダでやらせてもらっている。商売上がったりだ、と愚痴られることもあるがそれは冗談のイヤミ。僕が投げるとなると、後ろのゲージからしがみつくように見ている。

本当にそんないいものじゃないのだけど。

「キャッチボール付き合おうか」

「お願いします」

 肩をぐるぐる回して、肩甲骨まわりのストレッチ。足もぐるぐる回して、腰回りを捻って、下半身のストレッチ。股割りを繰り返して、安定感を確認する。

それが終わったら、ようやくグラブをはめる。指のかかり具合を確認しながら、慎重に腕を振っていく。キャッチボールをしていきながら、徐々にハードさを上げていくイメージだ。坂田さんが捕っていて、痛いと言い始めたら終わり。肩もあったまったところで、次は遠投に入る。

 球当てゲーム用の的があるその遥か向こう、ネットのかかる一番上を目指して投げる。100m弱ぐらい先、届けばやっとそこから本格的なスローに移っていく。キャッチャーはいないから、目がける先はもちろん的。1〜12まで的があって、その全てをストラックアウトするのが目標のゲームだ。

 坂田さんの熱い視線を感じつつ、大きく深呼吸をする。身体のバランスを整えるのが目的だ。ワインドアップモーションから大きく振りかぶって、的に対して少し斜めに体をひねる。昔から変わらないフォーム、トルネード投法なんて言われたこともある。踏み出す足はできるだけ遠めに、的に向かうようにインステップ気味に踏み出す。邪道と言われて矯正されることの多いこのフォームだが、170cmと身体の小さい僕には力を最大に出し切るぴったりのフォームだった。

 上体を突っ込みすぎないよう意識しながら、肩のバランスを保つ。力を0から100へぐっと引き上げる。弓でも打つかのように鋭く決まった一点で、そしてできるだけ遠くでボールを離す。

 左隅、左バッターならインロー、右ならアウトローいっぱい。9の的を抜いた。狙い通りだった。球速は、

「……130……………!」

 一応大台は乗った。

 しかし昔と比べたら、順調に遅くなっている。それでも、

「やっぱりいいもんだねぇ、もう一回野球始めたらどうだい。全面バックアップするよ?」坂田さんはこうして褒めてくれる。世辞なのだろうが、

「プロ野球いけるよ、絶対。」

 うんうんと頷きながら言う。

 それは絶対にありえないし、不可能だ。そう思うのだけど、申し訳ないから口には出さない。ストレートのみ2球、3球と投げ込んでいって、合計50球。この時期に派手に動いたら、夜とはいえ汗だくになる。だが昼間とは違う爽やかな汗だ。

「お疲れさま、今日も良かったよ。キレキレだったね」

「ありがとうございます」

 これで1日のやることほぼ全てが終わる。あとは帰って色々片付けて寝るだけだ。

家路につきながら、いつもやっているのは今日の投球の反省会。

 相手が的だから、駆け引きなどない分如実に自分との勝負。

 今日もまたダメだった。中途半端に欠けた12日目くらいの月を見ながら、ため息をつく。決して褒められたものではない。あの日からずっとこうだ。

 越えられない、あの一球を。

 綺麗にスタンドへ運ばれたあの一球、僕が投げた最後の一球。

 今はもう届かない、君に捧げたあの一球。


 僕は、未だにそれを越えられない。

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