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それにしても先生は、随分とこの傷のことを気になさるんですね? いえいえ、いいんです。きっと逆の立場だったなら、わたしもそうしていると思います。
それではもう、結論から話してしまいます。わたしを傷つけたのは、他の誰でもありません。お兄ちゃんです。
違います、違います。そういうことじゃありません。さっきから何度も話に出ている、血の繋がった実の兄です。先生に似ていて、顔かたちの美しい、わたしのお兄ちゃんですよ。
忘れません、三年前のことです。きっかけは当時に飼っていた犬でした。名前ですか? ミロっていいました。え、犬種? 何でもいいじゃないですか。フレンチ・ブルドックですよ。さっきの子と一緒です。
ある日の晩に、ミロが逃げてしまったんです。今日のように強い雨の降っていた一日でした。わたしは雨の中、駆けずり回って探しました。でもわたしには門限というか、外出制限のようなものが定められていて、一人で鎌倉市よりも外に出かけることを許されていませんでした。
結局みつけることはできずに、わたしは泣きながら家に帰りました。風邪をひいてしまったみたいで酷い寒気を感じていたのを今でも覚えています。それでもわたしは、悲しくて悲しくて、年甲斐もなくわんわん泣いてしまいました。
そのうちお兄ちゃんが心配して、一向にお風呂から出てこないわたしを迎えにきました、えぇ勿論、ガラス戸越しにですよ。覗いたりなんてあるわけありません、兄妹ですから。
お兄ちゃんはわたしに「大丈夫か」と尋ねました。わたしは「大丈夫じゃない」と答えました。それから、お兄ちゃんはわたしに対して、諭すような声で続けました。
「ミロは旅に出たんだよ。それは短いかもしれないし、ずっと長い旅かもしれない。だけどそれは決して悲しいことではないんだ」
そう語るお兄ちゃんはきっと泰然としていて、ガラス戸越しに聞こえる落ち着いた声は、もわもわとお風呂の湯気に反射して響いているようでした。
お兄ちゃんは続けました。
「人の人生は長い。犬の生涯は僕たちと比べたら短いかもしれないけれど、でもきっと彼らの等尺では、同じようにとても長いものじゃないかと僕は考えているよ。そして彼らの生涯では、旅に出ることは必要なことだったんだよ。大人になるための儀式のようなものさ。旅先で何かを見つけて、ミロは大人になるんだ」
「じゃあミロはわたしたちと離ればなれになってまで、大人になりたかったの?」
「そうかもしれない」
「帰ってこないの?」
「どうだろう」
「それじゃあ、いつかお兄ちゃんも大人になるために、どこかに行ってしまうの?」
「きっとね」
大人になるために旅に出る。……なんて空虚な妄想なんだと、わたしは思いました。
でもわたしはあまりにも多くのことを知りません。身体の中にどれだけのアイルランドの血が流れていても、わたし自身は鎌倉の町より外に出たこともありませんから、その〝旅〟というものにも実感がなかったんですね。
理解できなかったんです。あるいは、したくなかったのかもしれません。
だからわたしはお兄ちゃんに酷いことを言いました。悲しくて、寂しくて、誰かに強く当たりたくて、ガラスの向こうにお兄ちゃんがいたから、たくさんの酷い言葉を吐きました。
悲しくはないのかと。寂しくはないのかと。
どうしてそんな悟ったような言葉で、わたしを慰められるんだと。
それともあなたには感情が無いのかと。わたしはそんなことを怒鳴りました。
わたしにとっては旅なんて知らないことだから、ええ、その時にも身近な実感ばかりを頼りにして、たとえばミロは誰かに虐げられていて、そのことが辛くてどこかに逃げたのだと、そのように思っていたのです。
お兄ちゃんは何も言いませんでした。ただ無言のまま、気が付けばガラスの向こうにその姿はありませんでした。
それから数日して、お兄ちゃんはわたしに乱暴をするようになりました。
今にしてみれば、その頃からお兄ちゃんは何かに祀り上げられることが多くなったような気がします。きっとお兄ちゃんは民衆の上に立つ、王や神のように、力を持ち始めたのですね。
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