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「僕も君も、きっと本当の戦争を知らない。僕たちが生まれた頃には世界大戦は終わっていたんだから当然だ。でも現代日本は兵力を持たないことや、戦争をしないって取り決めをしたことは、君も知っているだろう。戦争なんて無いんだよ。それじゃあ君は一体何と闘っていて、何に殺されようとしているんだ?」

「……いいえ、先生。いつの時代にも闘争はあります。些細なものから、大きなものまで。それは確かに存在しています。そして兵士は、わたしだけじゃありません」


 エリーはゆるりと首を振った。そして続ける。


「先生も学校に通っているのなら、ご存知でしょう。学生運動のこと。熱狂と悲鳴の毎日の中で、彼らは、いいえわたしのお兄ちゃんは、大人たちと闘っています」


 知らないとは言えなかった。そのための避暑旅行だったからだ。

 過ぎた夏の暑さとは別に、学友の熱狂から目を背ける目的が無かったと言えば嘘になる。


「お兄ちゃんは中でもリーダーをしています。勇敢な一派を先導して、対決する、ひとりの革命者です」

「それじゃあ君も、その運動に参加しているの?」

「いいえ、していません。……と言うと、すこし語弊がありますか。正しい言葉にするなら、わたしにはきっと、その権利は許されていないんです」

「権利?」


 鸚鵡返しに問い直すと、エリーは小さく、はい、と頷いた。

 僕は彼女の白い肌を汚すような蚯蚓腫れや、青紫に変色した痣を思い出していた。


「君はやっぱり学生運動の一連で、迫害を受けているってこと?」

「うふふ。間違いです」

「それじゃあ……、」


 続けようと吐き出した息が、障子を破るような雷の音に塗り潰される。

 不意の大きな音に驚いた僕とは対照的に、エリーはぴくりとも動かずに、ただしんと、静まり返ったままでそこに座っていた。


 遠くの方で、誰かがバスに乗り込んでくる音がした。顔を上げると、お坊さんが二人、入り口近くの席に座ろうとしているところだった。

 彼らと顔が合ってしまい、僕とエリーは二人揃って、小さく会釈をする。

 それからというもの、しばらく僕たちは黙りこくっていた。どちらからともなく、話し始めようとするタイミングを探っている。


 ややあってエリーが声を潜めて、ふたたび口を開いた。乗り込んできた彼らに聞かれたくなくて、お互いに声を小さくして、そうしていると僕たちは何だか罪のある話をしているような、奇妙な感慨に包まれていたものだった。


「先生。少し長い話になりますが、聞いて下さい」


 一言だけ断って、エリーは話し始めた。

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