2-a


 まだまだ夕立は止んでいないというのに、どこからか蝉の声が聞こえる。死んじゃうぞ、と思ったけれど、どこに隠れているのかはついぞ見つけられなかった。


「これはまた、酷い驟雨ですね。おかげでぼろぼろです」


 ぼさぼさの髪に手櫛を通して、照れたように笑う少女。


「難しい言葉を知っているね」

「先生の本で使われていました」

「そうだったっけ。……そうだったかな」


 少女は青砥エリーと云った。この近くに住んでいるらしい。今日は祖父母の家に向かう途中で、本屋に立ち寄って、夕立に襲われたという。


「ご自分の作品には詳しくないですか?」

「さすがに一言一句まで覚えていたりしないよ」


 エリーは笑って、そうですか、と淑やかに頷いていた。

 それにしても、このエリーという少女は日本語が上手い。僕も大学では言語を学んでいるゆえ、彼女が積んだであろう研鑽は想像するに易いものだ。

 そう思って問うてみれば、彼女はいいえと首を振った。


「わたし、こう見えても国籍上は日本人なんです」


 エリーは右に、左に、上体を揺らしながら続ける。


「ママがアイルランド人で、パパは日本人。だからわたしはハーフです。わたしはアイルランドで産まれましたが、すぐにこちらに引っ越しました。だから、物心つく頃には鎌倉にいたのです」


 ママ、パパ。――流暢な日本語で綴られたその子どもっぽい呼び方が、なんだか妙に可笑しかった。それから、もしかして、と思い浮かんだ。

 エリーはやはり目敏く気付いて、僕をじっと見つめて首を傾げている。興味津々に見つめるまっ赤な瞳に遠慮はない。羨望なのか敬意なのか、艶やかな煌めきさえ覗かせて。


「何か可笑しかったですか?」

「いいや。失礼。君、齢は?」

「一四歳です。……あら。その顔、嘘だと疑っていますか?」


 僕は首を横に振る。疑ってはいないけれど、それでも驚きは隠せない。

 身長が僕と相違無いせいか、あるいは髪と瞳が見慣れない色をしていたからか。大人びた顔つきだったことも増して、僕はすっかり勘違いをしていた。

 彼女は僕と同い年か、少なくとも前後だと思い込んでいた。けれどそうではなかったのだ。一四歳。僕とは六つも下の、彼女はまだ中学生だった。


 ひとつの納得がいく。僕はまた、すこし笑う。するとエリーはさらに深く首を傾げた。


「何でしょう、先生?」

「いいや、何でもないんだ。ただ、君とは伊豆で会いたかったな」

「ええと、わかりません」

「君の裸が見られたかもしれないって、それだけのことだよ」

「わたしが子供ということですか。恥じらいも知らないくらいに……」


 僕が頷くと、彼女は頬を綻ばせた。それからややして、へくちっ、とかわいらしくくしゃみをすると、頬をほのかに赤く染めた。


「でも恥じらいくらい、わたしも知っていますよ」


 さっきはびしょぬれの身体が透けていても恥ずかしがる素振りもなかったというのに、今度はくしゃみを見られたというだけで顔を真っ赤にしている。彼女にとって、文芸誌がそれほど大事だったということだろうか。

 思わず嬉しいような気持ちになって、僕はことことと笑っていられなくなる。

 ごまかすように咳払いをして、さっさと話題を変えることにした。

 屋根の外側に目を向ける。散弾銃のような雨は未だに衰えを知らず、いつまでも止む気配を見せない。彼女の言っていたとおり、これは酷い驟雨だ。


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