第2夜 「母」

 ごきげんよう、皆々様。

 この店の空気が心地良く、今宵も馳せ参じてしまいました。

 さて、今晩の話題は何でしょうか。なに、母。ふむ、少々お待ちを。あの美しい故郷で暮らす肉親を、少しばかり思い返してみることといたしましょう。


 私の家は、陳腐な表現をすれば中の上、と申しましょうか、自負心ばかりが高い家でございます。おかげで私が、愛を言祝ぐ吟遊詩人の道を志したいと申し出たときも……ああ、失敬。話題が逸れてしまいますね。

 母の話、でしたかな。私の母は、さる高貴な血筋から、父の元へと嫁いで参りました。それはなぜか。さて、父と母の出会いの話から始めるといたしましょう。

 生まれ落ちた時から貴人たる運命を背負った母は、しかして少しばかり、やんちゃが過ぎる少女であったと聞いております。ある日は屋敷の中、数百も居並ぶ部屋の扉をすべて開けて回り、ある日は半日かけて庭の隅まで歩いて行き、馬までも駆り出す壮大なかくれんぼを行い。冒険譚は尽きることなく、毎夜のように語り聞かされました。

 さて、広い敷地の片隅には、母の父――私から見た祖父が自慢とする薔薇の庭園がございました。今もなお、花の時期には香り高く咲き誇っているそうですよ。

 女性にとって、薔薇は魅力にあふれた存在。あの鮮やかな色合い、かぐわしき芳香、その存在全てがレディの心をとらえて離しません。……失敬、男性も、でしたね。なにせ祖父も、薔薇の魅力にとり付かれたのですから。

 祖父は裏庭に作らせたその薔薇庭園を、娘たる私の母にはひた隠しにしておりました。あの薄く儚い花びらを摘まれ、手折られ、散らされてしまっては、いくら愛しい娘といえども、笑顔で許すことはできないと思っていたからでしょう。貴人にふさわしい品格を兼ね備えた者でも、中身はただの人間ですからね。

 しかし、とうとうその日は訪れてしまいました。庭で草を食んでいた子ウサギ、小さな足に追いかけられ逃げ込んだのは、ああ、薔薇の咲き誇るバックヤード・ガーデン。追ってきたメイドが抱きかかえて留めなければ、木の扉を潜り抜け、中へと入り込んでいたことでしょう。

 好奇心あふれる幼い娘から、同じくらい愛する薔薇を守りたい祖父は、一計を案じました。屋敷の使用人を集め、ひとつのことを命じます。

 翌日、少女の足は当然のように、裏庭へと向かいます。すると、懇意のメイドたちが洗濯物を干しながら、ぽつり、ぽつり。

 ――あなた、ご存知。あの裏庭に生えている、秘密の薔薇を。

 ――ええ、存じておりますわ。棘は鋭く、指を刺せば一巻の終わり、百年は眠り続けるという、あの。

 ちらり、ちらりと送られる視線にも気づかないほどに、少女の心は揺れ動いておりました。行くか、否か。秘密を暴くか、秘密のままとするか。

 小さな心をころころと手のひらで転がしながら、幼い娘は歩みを進めます。するとその先には、厳格なハウス・スチュワードと、若きフットマン。

 ――お前は何たることをしてくれたのだ。あの薔薇に触れるとは。あの薔薇が手折られれば一巻の終わり、この家に二百年の呪いがかかるというのに。

 ――申し訳ありません、あの薔薇を見つめておりましたら、つい、不思議な心地になりまして。

 ――ああ、それは悪しき魔女の仕業。この家を滅ぼさんとする、恐ろしい力だ。

 少女の歩みは、とうとう止まってしまいました。若きフットマンが、青ざめた頬で近寄ります。

 ――ああ、お嬢様、今こそ今生の別れ。私はあの薔薇の棘で、指を刺してしまいました。半刻の後より、百年の眠りが私を襲うことでしょう。どうぞお嬢様、お幸せに。

 ああ、いたいけな少女は泣き叫び、屋敷へと真っ直ぐに走り帰ります。哀れなフットマンを想い、礼拝堂で泣き濡れながら祈りをささげると、自室にとぼとぼと戻り、半日食事をとらずに閉じこもっていたといいます。翌日、けろりとしたフットマンの姿を見た母の顔は、どんなものだったでしょうね。

 ああ、お飽きになってしまわれましたか。もう少しですよ、父と母の出会いは。

 その日から数年もの間、母は裏庭のことなど、記憶の片隅へと追いやっておりました。美しく聡明に成長した娘は、――身内のことながらお恥ずかしくも、若かりし頃の母の写真は、今の女優に勝るとも劣らないものでしたね――その娘は、その齢になってもなお、かつての「呪い」を信じていたのです。

 しかし、誘惑にはあらがえないもの。ある月の綺麗な初夏の晩、部屋の窓を開けていると、甘い香りが風に乗ってどこからともなく届きました。はて、どこからだろう。身を乗り出して――ああ、そこは三階だというに!――花の場所を探ります。

 どうやら風は、屋敷の裏手で花の香りを拾ってくる様子。社交界のレディが身に纏う好奇な香りに、いつしか母も魅入られておりました。ナイトドレスの裾をつまみ、足音を立てぬようそろり、そろりと屋敷を出。居眠りをする馬番の横を抜け、いつしか足はあの裏庭の、木戸の前へとたどり着いておりました。

 甘い香りはいよいよ高まり、まるで体を薔薇の香りで包まれているかのよう。見えない腕に招かれるように、母は木戸を開け、先へと進みます。

 月夜に咲き誇るは、世にも美しき薔薇の小道。祖父が世界中から集めた、色も形も様々の薔薇が、我こそ至高と娘をいざないます。

 庭園の奥に咲くは、ひときわ大ぶりな一本の薔薇。冴え冴えとした月光を浴び、その色はなおも鮮やかに、光り輝かんばかりに主張します。吸い寄せられるように、母はその一輪へと手を伸ばしました。

 手折ろうとしたその瞬間、柔らかな指先に、かすかな痛み。弾かれたように手を引けば、指先に薔薇と同じ色が、じわりとにじみ咲き始めます。ぽとりと花が、地面へと落ちました。

 途端に我に返った母は、ついで血の気が引いていくのを感じました。ああ、私はもうすぐ、百年の眠りについてしまう。二百年の呪いが、この家を襲ってしまう。

 ――誰か、誰かおりませんか。誰か助けて頂戴。

 夜更けの闇に叫ぶも、返事はありません。永久の眠りについたかのように、屋敷全体が、暗い静けさに沈んでおりました。

 娘はいよいよ色を失います。心を引き裂かれるような悲しみ、怖れ――ああ、哀れな娘はただ一人、宵闇の中で崩れ落ち、涙を落とすしかありません。

 ――お嬢さん、このような夜更けに、いかがなさいましたか。

 突然耳に届いた若い男の声に、母は弾かれたように顔を上げました。目の前にいたのは、さして歳の違わぬ青年。なぜそこに男性がいたのか――はて、これは父も母も、語ることは決してございません。果たして父の客人か、盗人か、吸血鬼か。そのようなことを考えている暇は、若き日の母にはございませんでした。伸ばされた手に手を重ね、立ち上がると、涙ながらに呪いの事を青年に話します。

 ――ああ、麗しきレディ、どうぞ泣かないでください。そのような呪いなど、私が打ち払ってみせましょう。どうぞ、私の側においでなさい。永久にあなたを守ると、この薔薇の木に誓います。

 こうして父と母は出会ったと、子供のころのベッドタイム・ストーリーに聞かされたものです。

 その後の母、ですか。私をここまで育て上げ、今は父と二人、私の生まれ育った街で悠々自適の生活を送っております。生家のような豪邸も広い敷地もありませぬが、小さな花壇で薔薇を育てているようでして、毎年、見事な花を咲かせたと手紙を寄越してきますよ。

 そうそう、私も幼い頃、母の実家に行ったことがありましてね。裏庭の薔薇は、使用人によって丁寧に管理され、色も形も様々に私の目を引き付けたものです。

 母が指を刺し、その色を指ににじませた薔薇も、もちろん、庭園の奥にありました。明るい日差しに輝く”黄色”の薔薇は、それは見事なものでしたよ。



(2016.9.8 初稿)

(2016.9.13 最終行に加筆)

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