ヴァイオリン弾きはかく語る

轂 冴凪

第1夜 「故郷」

 おや、ご指名とは。これは恐悦至極、猫のように気配を消し、暗がりに身を潜めていたつもりでしたが。皆様に向ける視線に、熱を込めすぎましたでしょうか。

 では、そちらへ。失礼。

 方々、どうぞよろしくお願い致します。語るにはいくぶん不慣れな身、お手柔らかにお願い致しますね。

 私は常日頃、正直で誠実であることを自らに課しております。しかし今宵はこのバーカウンターの末席に座し、そして今、このテーブルにつきました。

 ローマにいるのならばローマ人のように振る舞え。かくも有名な言われ通り、私も今宵は《嘘》に興じるといたしましょう。


 さて、私の故郷、でしたか。

 この長い旅路の中、帰るべき場所などついぞ忘れてしまいました。……などと言えるほど、私の故郷への思いは、軽いものではございません。

 生まれ育った街は、石造りの家々に煉瓦の通り。大通りには馬車が行き交いますが、路地は人がすれ違うのもやっとの道。子供がこの街に生まれ落ちてまずすることは、親の腕の中で街の路地全てを把握すること、とも言われておりましたね。なにせ、洗礼を受ける教会への道のりで、いくつもの入り組んだ路地を通り抜けねばならないのですから。

 街の真中には、石畳の円形広場。中央の噴水は、いつでも天高く水を噴きあげておりました。歩き疲れた馬が水を飲み、陽光に輝く水しぶきは、噴水の縁に腰かける恋人たちに茶々をいれます。あるときはロマンティックなきらめきをもたらし、あるときは片方が飛び上がるよう、首筋に滴を飛び込ませ。かようにいたずら好きな噴水は、街の皆から愛されておりました。

 街のぐるりは高い塀で囲われておりましたが、門は年中開かれておりました。攻め入るものなど、木枯らしと冬将軍くらいしかないものですからね。

 塀の外には、深く広がる森林があります。となり街へと続く土の道は、木々のアーチを潜るように延びており、開けた畑地帯に出るまでは旅人を太陽の熱視線から守ります。手前のほうは木の密度も淡く、川までの獣道も開けております。ああ、その川でとれる小魚は、塩焼きにすると大層美味い。皆様にも是非、召し上がっていただきたいものです。

 さて、森を進むと、次第にうっそうと繁った草木が行く手を塞ごうと、いたずらを仕掛けてきます。樹の幹は太く、枝葉は空を覆い、時おり獣が、我ここにありと声高らかに宣言します。湿り気を帯びた物々しい空気が辺りに立ち込め、慣れぬ者はその雰囲気に身を震わすことでしょう。

 足元の草を掻き分け、よくよく目を凝らせば、古い道が見つかることでしょう。点々と置かれた苔むす石を道しるべに、倒木を越え、沢を渡り、湿気た枯れ葉の積もる中を、ただ真っ直ぐに。

 森の中に何を求め、人々は道なき道を進むのでしょう。

 その答えは、昼前に街を出た旅人が西日を感じ始める頃、唐突に彼の前に現れます。

 遠くに臨む、小高い丘。いえ、小山と言っても良いでしょう。その一部は崩れ落ち、雨風に削られ、切り立った崖のようになっています。

 その上に立つのは、ああ、夕日にその身を染め、佇む古城。尖塔は天を貫かんばかりに威風堂々とそびえ立ち、崩れた城門は、かつての守る主を失ってもなお、ウサギ一匹も通さぬ構えであり続けています。つるばらや蔦が幾重も城壁に絡み付き、季節を迎えると色鮮やかに古びた石を染めるのです。その時期が来ればすぐにわかりますよ、草が踏みしだかれ、古道の上に新たな道が引かれますから。

 さて、この城には、どなたが住んでいたとお思いですか。零落した王家の末裔。いえ、違います。その地を治めた貴族階級。これも違います。では世を儚んだ富豪の令嬢か。病に侵された体を休める官僚の令息か。あるいは隠遁者が集う修道院か、テーマパークの残骸か。

 どれも違うのです。では、何者か。

 農民の息子から、突如としてこの地域一体を治める王となった、とある青年なのです。

 なぜ若き青年が、かような城を手に入れられたか。そこには不思議な言い伝えがあるのです。

 彼の青年王が現れる少し前まで、この地域は、とある脅威に脅かされておりました。街々の門は固く閉ざされ、人々はくらい部屋で怯えながら世を過ごす日々。食う糧だけは得ねばと畑に出ても、その姿が目に入った途端、ああ……一目散に逃げ出す以外、術はありません。見つかれば最後、平穏な生活は終わりを告げるのです。

 空を覆うほどの黒い影、歩くたびに地は震え、猛った声は人々の鼓膜を震わせ、心臓を絞り上げます。――なに、ガッズィ……いえ、寡聞にして、さような名前は存じ上げませんな。その正体を聞いて、倒れてはなりませんよ。――城の半分ほども背丈がある巨人です。ああ、口にするにも恐ろしい。我々は恐怖を込めて、オグルと呼んでおりました。

 ある日突如として現れたその巨人は、毛むくじゃらの顔面に、森一番の大樹よりも太い肢体。人間や動物を見つけ次第、太い指でつまみ上げ、八つ裂きにして食らうのです。やがて知恵をつけたか、人の言葉を使いこなし、丘の近くに住む人々を脅し上げました。オグルのために城を作らせ、畑を耕し、毎日テーブルに山積みの食糧を持ってこさせるようにしたのです。

 永遠に続くかと思われた暗い日々は、数年続いたと言われております。ああ、わが故郷の陰惨たる過去。方々が知らぬも無理はありません、我々の祖先が必死に隠し通していたのですから。しかし今や情報は積極的に開示していく時代、私もその流れに沿って、この話を伝え歩くこととしたのです。願わくば、我々の故郷が人口を膾炙し、もっと有名にならんことを。そのためなら、私はオグルだって操って見せましょう。

 ああ、そういえば青年王の話が途中でしたね。彼には心強い味方がいたと言われています。腕の立つ騎士か。友のためならば命を惜しまぬ朋友か。いえいえ、彼を守るはただ一人――いや、一匹、二本足で歩く勇敢な猫だったと伝わっております。

 ……皆さま、そのお顔はいったい何事か。かの有名な物語は、我が愛しき故郷を舞台として描かれた物語ですぞ。そう、あの物語も、我々の先祖の一人がこっそりと情報を流したもの。ひとつの作品として成り立てば独り歩きを始め、面白おかしく伝わるその力を生かし、遠回しに故郷を世に広めようとしたのです。

 さて、なんやかんやとありまして、その青年王は王となり、その城に住み着いたのです。傍らには勇敢な猫と、麗しい隣国の姫。かつてオグルに脅かされていた人々もこぞって彼のもとに仕え、城の暗く重い影は少しずつ払われていきました。

一時は、かの城は金銀宝石で飾り立てられ、各地の領主や王族がこぞって招かれるほどの栄華を極めたと伝え聞きます。私の生まれた街も、どうやらその恩恵を受けたようでして。そのころは石畳に金箔が張られ、噴水からは水でなくワインが噴き出ていたと、老婆が懐かしそうに語るのを、街の子供たちは聞かされて育ちます。

 しかし、今やその城も、丘の上で静かに時を止め佇むのみ。青年王の一族はやがて不幸が相次ぎ、没落し、城と土地を捨てて逃げ延びていったのです。何が起きたかなど、街の者には知る由もありません。やれ、忠臣たる猫を邪険に扱ったため呪われただの、やれ、死に際のオグルの呪いがじわりじわりと効いてきただの。オグルは呪う暇などなく、猫の腹の中に――おっと、これは著名な物語が伝え語るものでしたでしょうか。いくら人々が空想を働かせ、盛んに噂をするも、真実を知るはかの城のみ。

かつて魔物が住んでいたことは、既に近隣諸国どころか、新大陸にさえ知れ渡っております。好き好んで入ろうとする血気盛んな新領主もおりません。次第に我が故郷は歴史の陰にうずもれ、今や穏やかな空気をまとう平凡な街のひとつになっております。

 おや、興味がおありですかな。それはわが生まれの街についてか、それともかの城にまつわる出来事か。

 どちらにせよ、楽しいお話をお教えすることができると請け合いましょう。特にかの青年王と猫にまつわる物語は、一晩語り明かしても足りないほどの物語がございます。

 なぜ、と言いたげなそこのレディ。私、どうにも前世の記憶があるようでして。幼いころから、体験した出来事のように脳裏に焼き付いているのです。その視点はとても地に近く、視界は広く、身軽で、俊敏で、――ぱたりと尻尾を動かす感覚を覚えておりましてね。

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