[41]

 リュトヴィッツは車をグリボイェードフ運河沿いに走らせた。助手席のギレリスは押し黙ったままだった。ネフスキー大通りに出て、後ろ足で立つ馬のブロンズ像をあるアニチコフ橋に差しかかる。リュトヴィッツはスピードを緩めた。前方に青いライトが点滅しているのが見えてくる。

 車を停める。ギレリスとリュトヴィッツが野次馬を押し返している警官の列をすり抜けた時、ゲオルギー・ベルマンと取材班の姿が眼に入った。ベルマンの叫び声が追いかけてきたが、ギレリスは無視した。

 赤いジグリの周りを科学技術部の技官たちが取り囲み、メジャーを持って凶器となった銃と被害者の間の距離を測っている。管轄は59分署。ペトロヴァ少尉が報告する。

「顔面に3発。直射です。停車中のジグリから発射されました。一部始終を見ていたという目撃者がおります」

 ペトロヴァは2人の警官の間に不安そうに立っている小さな少年を指差す。ギレリスとリュトヴィッツは開いた車の窓に首を突っ込んだ。ドゥダロフはシフトレバーの上にかぶさるように倒れ、血だらけの助手席に顔を埋めていた。助手席側のドアが開けられており、技官の1人が流れ弾を探して、床やドア・パットを入念に調べている。

 リュトヴィッツは身体を起こし、ちょうど現場に到着したラザレフがギレリスを捜しているのを見た。ギレリスは少年の前にしゃがみこんでいた。

「名前は?」ギレリスは言った。

 少年はギレリスの喉元を見据えた。汚れたデニムのジャケットと、二まわりくらい大きいタートルネックのセーターを着ている。坊主に近い丸刈り頭を掻き、それから暗くどんよりとした眼をこすった。せいぜい12歳というところか。疥癬に罹った犬よりひどい臭いがする。

「このガキ」警官の1人ががなり声で言った。「施設に入れられたいのか?」

「おい、おい」ギレリスが言った。「大事な目撃者だぞ」

 ギレリスは少年にタバコを1本勧めた。少年は受け取り、ギレリスのライターに上体をかがめて、慣れた動作でタバコを吹かした。それから、ようやく口を開いた。

「ミハイルだよ。ミハイル・チヴィソフ」

「なぁ、ミハイル。君は勇敢な子だ。同じ年の子どもなら、大抵こんな事件を目撃したら逃げてしまうだろうからな」

 少年はわずかに肩をすくめた。「ちっとも怖くなかったよ」鼻をふくらませる。

「ああ、そうだ。で、何を見たんだ?」

 ギレリスは残ったタバコを少年の汚れた上着のポケットに押し込んだ。

「撃たれた人はちょうど信号で車を停めたとこだった。何秒かしてから、横に別の車が停まったんだ。その車の助手席の人がタバコを持った手を窓から出して、火を貸してくれっていうみたいに何度か振った。それで、相手の人が窓を下ろして、マッチを渡そうとしたら、タバコを持ってた人がその腕をつかんで、銃を撃ち始めた」

 少年は興奮ぎみに首を振りながら、ヒットマンの動作をまねる。

「バン、バン、バンって。こういう感じ。あんな音を聞いたのは初めてだったな」

「それで、その車はどうした?」

「すごいスピードで走り出した。ネフスキーを旧海軍省の方にちょっと走った後、タイヤをキーッといわせてUターンしたよ。映画みたいにさ」

「どんな車だったんだ、ミハイル?」

「ジグリ。薄茶色。ペテルのナンバー」

「何人、乗ってた?」

「3人。でも、後ろに乗ってたのは、女の人だと思うよ」少年は首を振った。「はっきりとは分からない。もう一方の車が間にいたし、銃の音がしたもんで。ぼく、映画館の入口で身をかがめてたんだ」

「それでよかったんだよ」ギレリスが言った。「ところで、ミハイル。君の住所は?」

「プーシキンスカヤ通り77番地。1号棟の25号室」

 少年は自分のトレーナーに眼をおとした。

「父さんが休みで海軍から帰ってきてるんだ。帰ってくると、必ず酒を飲んでぼくを殴る。だから、なるべく家にいないようにしてるのさ」

 ギレリスはうなづいた。プーシキンスカヤ通りは、ここからほんの数ブロックほどの距離にある。それに、酔っ払いの父親はロシアの家庭につきものだ。

「よし、ミハイル。もう行っていいぞ。気をつけてな」

 少年はニヤッと笑った。それから、慎重な足取りで去っていった。

「うそつき小僧め」ギレリスが呟いた。「どこかの施設から抜け出してきたんだろう。あの頭は、どうやってもごまかせん」

 リュトヴィッツは車の向こう側を回って、ビニール袋の上に並べられたドゥダロフの遺留品を見に行った。ドゥダロフのリボルバーを手に取る。薬室を開いて、銃身を調べる。

「ヴィシネフスキーを撃ったのは、オートマチックでしたね」

 ラザレフはタバコの箱を点検していた。1本のフィルター部分を引っ張り上げる。

「ロシア製です。箱の上のほうをちゃんと開けてあります」

 ギレリスはドゥダロフの財布を開いた。ドル紙幣の束を袋の上に投げ出す。それから何枚かの食券、コンドーム1個、鉄道乗車許可証、ヴィシネフスキーの死を報じた新聞の切り抜き。ゴム印の押された公文書ふうの小さな紙切れを手に取る。

「これだ、これだ」ギレリスが興奮を抑えた声で言った。

「何です?」リュトヴィッツが言った。

「ドゥダロフのアリバイだ。このことを話したかったんだろうな。釈放証明書だよ。ペトログラードスキー地区の民警が発行してる。これによると、ヴィシネフスキーが殺された夜、ドゥダロフは泥酔してトラ箱に入られてる。だから、自信たっぷりに私に会いたがったわけだ。これが本物なら、ヤツは完全にシロになる」

 ギレリスはラザレフに証明書を渡した。

「明日の朝、確認しておいてくれ。念のためにな」

「よいニュースがあるんですが」ペトロヴァ少尉が告げた。

「もったいぶらずに、聞かせてくれるか?」

「窃盗犯が見つかりました。昨日の夕方、分署の者がアウトーヴォ市場で逮捕しました。ヴィシネフスキー氏の《金の子牛》を売ろうとしてました」

「何者だ?」

「名前はイワン・アキモフ。未成年者です。両親と一緒に、ヴィシネフスキー氏と同じアパートに住んでます」

 ギレリスが労をねぎらうようにうなづいた。

「よくやったな、少尉。それから・・・」

 その頃には、ベルマンの取材班が民警の非常線を突破していた。カメラマンがドゥダロフの死体に近づき、その隣にベルマンが立ち、手にしたマイクに向かって状況を説明している。再びベルマンがギレリスを呼び、追いかけてきた。

「何がここで起こったのか、お聞かせ願えませんか?」

 ベルマンはマイクに掌をかぶせた。

「ギレリス、この前のことをまだ根に持ってるじゃないだろうな。ぼくは自分の仕事をしてるだけだ。今だって同じだ。ここで何があったのか話してくれないか。これはマフィアの殺し合いなのか?」

 ギレリスは足を止める。あからさまな憎悪の眼差しをベルマンに向けた。拳がくり出されるのではないか。リュトヴィッツは一瞬、そう思った。ギレリスは赤いジグリとドゥダロフの死体を顎で示しただけだった。

「本人に聞いてみたらどうだ?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る