[40]

 リュトヴィッツはパンツと靴下の恰好で、ベッドにじっと横になっていた。

 頭までシーツをかぶり、眼を閉じる。頭の中でチェスのコマが命じられもしないのに盤上に並んだ。自称カスパロフが残したチェス盤。リュトヴィッツは棋譜を脳裏から消し去ろうとした。コマを全部払い落して盤の白いマスを黒く塗りつぶそうとした。コマやプレーヤーに汚されず、テンポだの戦術だの戦力差だのに煩わされない、ウラル山脈のような黒いチェス盤。

 頭の中のチェス盤が全て黒に塗りつぶされた時、ドアにかすかなノックがあった。半身を起こし、壁と向き合った。こめかみで脈がずきずきと打った。頭からかぶったシーツがぴんと張った山になっている。自分がお化けに扮して誰かを脅かそうとしている子どものように思える。テーブルの上の電話から柔らかな囀りが聞こえる。深い泥の中に埋まっていたような感じで、電話が夢の中で鳴っているように思えた。枕は酒や汗、唾の汚らしい混合液で湿っていた。腕時計を見る。午後10時20分。

「サーシャ?」

 しばらくすると錠が音を立てる。ドアが開く音。

「まったく・・・まさに糞の山だな」

 ギレリスはリュトヴィッツの背広やバスタオルの浅瀬を渡り、ベッドの裾に立った。ピンクの地に赤ワイン色の花輪模様を配した壁紙、焦げ跡や染みが不規則に散る緑色のフラシ天のカーペット、割れたガラス、空き瓶、表面が剥げたり欠けたりしているベニヤ板張りの家具などを見回す。

 リュトヴィッツはベッドの裾からギレリスの顔を見上げた。相手の嫌悪をあらわにした表情を愉しんだ。愉しまなければ、恥辱の念が襲ってくるからだ。

「何があったんです?」

「私は待つのが好きじゃない。特に君を待つのは」

 ギレリスはタバコに火を付ける。

「気つけにどうだ?」

 ギレリスが箱をよこした。リュトヴィッツは身体を起こし、シーツを巻きつけた。

「パンツと靴下だけで寝る。君の場合はいつも悪い兆候だ」

「たぶん憂鬱症のせいですよ」

 ギレリスは灰皿の代用品を眼で探した。

「刑事部長に電話があった。ルージンとかいうグルジア・マフィアの顧問弁護士から。君がオレグのご母堂にどうたらこうたら」

「すいません。ちょっと失礼します。もう我慢できない」

 リュトヴィッツが下着姿で立ち上がる。シーツが身体からずり落ちた。洗面台とスチール製の鏡とシャワーのある狭いトイレ兼バスルームに入る。ドアを閉めて長い小便をし、純粋な快感を味わった。ドアのフックに掛かっていたバスローブを着て、ベルトを締める。便器の水を流して部屋に戻り、リュトヴィッツは口を開いた。

「息子が死んだことを知らせなきゃならなかったんです」

「息子?」ギレリスが顔をしかめる。

「このホテルの206号室で、宿泊客が撃ち殺されたんです。被害者は若いロシア人。カスパロフという偽名を使ってた。偽名の通りチェスが趣味のヤク中で、チェス仲間にはニコライと名乗っていた。だが、カスパロフことニコライこと206号室の被害者の本名はヴァレリー・サカシュヴィリ」

「噂で聞いたことがある。ヴィクトル・サカシュヴィリの消えた長男」

「オレグ・サカシュヴィリの兄でもある」

 ギレリスは口を開き、また閉じた。驚きよりは関心を強く示すしぐさだ。ヴィシネフスキーの事件との関連を探り出そうとしているかのようだった。

「オレグとヴァレリーの母親は何と答えた?」

「ちょっと冷淡な印象を受けました」

「驚いた様子は?」

「特にそんな様子もなかったです。ただ、そこから何が言えるかは分かりません。ヴァレリーはだいぶ変わり種だったようで、一緒に生活することが出来なかった。オレグは度し難い程の愚か者だと憤ってました」

「ヴァレリーというのは、どんな奴だったんだ?」

「一種の神童。チェスにしろ、語学にしろ、IQが170あったとか」

「ほう」

 ギレリスは遠くを見つめる。チェスの神童が麻薬中毒者となってセンナヤ広場の安宿で殺されるまでの道程に思いをはせているようだった。

「ところで、何があったんです?」リュトヴィッツが言った。

「ああ、そうだ。君は早く服を着たまえ」

 ギレリスはタバコの吸殻を開けた窓から投げ捨てた。

「ドゥダロフが大屋敷に電話してきた。話をしたがってるらしい。容疑を晴らすためにな。ヴィシネフスキーの死と無関係だと証明してみせるということらしい」

「どうやって?」

「ヤツは外で会いたがってる」ギレリスは腕時計を見る。「グリボイェードフ運河に架かるバンク橋の上で、20分後だ」

 ギレリスは先に部屋を出て行った。リュトヴィッツはバスローブを脱ぎ、手早く身支度を整える。上着の内ポケットに身分証があることを確かめ、マカロフを収めた腋の下のホルスターを軽く叩いた。

 部屋を出てエレベーターを待っていたギレリスに追いついた。2人で箱に乗り込む。アルコールと吐瀉物のすえた臭いに、ギレリスが顔をしかめる。

「信用していいんですか?」

「こっちには、失うものがない。それに、逆探知する時間も無かったようだから、他にやり方はあるまい」

 エレベーターがガクンと揺れて1階に着いた。2人は夜の日差しの下に出た。ギレリスのジグリをリュトヴィッツが運転する。ネフスキー大通りを南に向かい、それから西に走る。その間、沿道に人影がほとんど見えなかった。

 グリボイェードフ運河の岸に到着する。小さな木造の吊り橋の少し手前で、ギレリスは停めるよう言った。ダッシュボードからタバコの箱を取り、ギレリスは車を降りた。

「君は車に残って、電話が鳴ったら出てくれ」

 ギレリスは道路を渡った。橋の真ん中に立ち、欄干に寄りかかる。しばらくして、腕時計に眼を落とす。ドゥダロフが指定してきた時刻のようだが、相手の姿は見えない。ギレリスは忍耐強く橋の上に立ち続ける。時おり灯るマッチの火だけが、緊張が途切れず続いていることを告げていた。

 日付が変割って1時を回った時、自動車電話が鳴った。ギレリスにもベルの音が聞こえたようだ。リュトヴィッツがすかさず受話器を取る。ギレリスはこわばった背筋を伸ばし、ゆっくりと車に歩いてきた。電話の相手はラザレフだった。

「ドゥダロフは来ませんよ」ラザレフが言った。

「何があったんだ?」

「撃たれました。ネフスキー大通りのチタン・シネマの前です。そこで会いましょう」

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