[37]

 ネイガウスと刑事たちは傾斜のある長い廊下を進んだ。

「問題の死体は私が解剖した。切り開いたまま、台の上に置いてあるよ。君たちがこの後、昼食を取るつもりでいると困るから、あらかじめ言っておくんだが」

「お心遣い、感謝します」ギレリスが言った。

「けさ早く、民警が発見した。場所はヴィシネフスキーが殺された森からそう遠くない。残念なことに、担当者は脳みそが足らん奴でな。2つの事件につながりがありそうだと分かる前に、死体をここに運んできた。ソーニャはカンカンに怒ってる」

「でしょうな」

「死体は1週間ばかり放置されてたようだ。季節柄、暖かい日が続いたし、小動物の餌にされたみたいでね。遺体は顔の片側が概ね食いちぎられてる。そんなわけで、警告しておくが、諸君、イコンを鑑賞するのと訳が違うぞ」

 刑事たちはいくつかのスウィングドアを通り抜ける。ホルムアルデヒドの強烈な臭いが鼻をついてくる。裸の死体を載せた担架の間を縫うようにして歩いた。ほとんどが老衰や事故で死んだロシア人たちは死体になってまで、順番待ちの列に並ばされる運命らしい。

 ネイガウスが「検査室5号」というプレートが付けられた鉄扉の前で足を止めた。その鉄扉を開ける。タルタコヴァが書類をかき集めて立ち上がった。瘴気の漂う廊下を一緒に歩く途中、ギレリスに聞いた。

「なぜ、こんなに時間がかかったのですか?」

「ドミトリ・ヴィシネフスキーの葬儀に出てたんだ」

「全員で?あの悶着屋さんのお弔いに?」

 ギレリスがうなづいた。タルタコヴァは首を横に振った。労働力の無駄遣いだと言いたいそうな表情を浮かべる。いさかいの火種を消すように、ネイガウスがすかさず口をはさむ。

「解剖室は真っ直ぐ行った先だよ」

 解剖室には解剖台が2つあった。一方では、若い美女がまさに切り開かれている。肉のついた骸骨が脂肪の黄色いコートを脱ごうとしているように見えた。ネイガウスの部下たちは声高に喋っている。時おり血だらけのゴム手袋の指でタバコを惰性的に口に運びながら、慣れた手つきでメスを振るい、内臓を仕分けしている。

 刑事たちはもう一方の解剖台を取り囲んだ。台上に40歳半ばの裸の男が横たわっている。上半身をまだ切開用ブロックに載せたまま、両腕を広げている。顔の損傷に関するネイガウスの警告は誇張ではなかった。片方の耳は無くなっている。頬と顎の下側に硬貨大の穴がいくつも開いている。

「身元はまだ分かってません」タルタコヴァが言った。「どのポケットも空で」

 タルタコヴァはファイルから1枚の写真を取り出してギレリスに渡す。

「この遺体がドゥダロフでないことは、皆さんに同意していただけると思います」

 ギレリスが無言でうなづいた。

「ですが、現場には例の衛生観念を持ち合わせた喫煙家がいた形跡がありました」

 思わせぶりな視線をリュトヴィッツに向けた後、タルタコヴァは底から開封されたウィンストンの空箱を入れたビニール袋を見せる。

「死体のそばに落ちてました」

「死因は?」ギレリスが言った。

「頭を1発、撃ち抜かれてる」ネイガウスが言った。「最初は動物が咬んだ跡かと思ったが、よくよく見ると、額の真ん中に弾痕がある。犯人は額に銃口を押し当てて撃ったようだ。発射の衝撃で、傷口周辺の骨に亀裂が入ってる。処刑人の一撃だ」

「同一の凶器によるものと断定するには早計ですが」タルタコヴァは言った。「もしそうだったとしても、意外ではありません」

「死後経過時間は?」

「約1週間」ネイガウスが答える。「もうちょっと長いかもしれん。それ以上、絞り込むのは難しい。なにせ、ずっと日光浴をしてたわけだからね」

「1週間か、それ以上・・・」ギレリスが反芻するように言った。「だとすると、ヴィシネフスキーより先に死んでた可能性が大きい」

「ああ、そうなるね」

「胸と腹にある三角形の傷は何です?」リュトヴィッツが言った。

「殺される前につけられた火傷の痕だ」

「電気アイロンによるものです」タルタコヴァが付け加える。

「マフィア式のステーキの下ごしらえか」スヴェトラーノフが小声で言った。

「そうだな。この男から、何を聞き出そうとしたのか・・・」

 ギレリスが死体の片手を持ち上げた。

「これはなんだ?この爪の中の汚れだ」

「ディーゼル油です」タルタコヴァが答える。「服にも、靴にも付着してました」

 部屋の隅から段ボール箱を引っ張ってくる。ギレリスは上体を屈めて箱から死んだ男の長靴の片方を取り出した。靴の中をのぞき込む。眉根を寄せて、製造業者の名前を読み取ろうとする。

「レンウェストだな」

「ということは、機械工でしょうか?」ラザレフが言った。

 ギレリスは黙ってうなづいた。長靴を丹念に調べる。

「あるいは、運転手だ。この靴底の減り具合を見てみろ。右の踵がずいぶん減ってる。アクセルを頻繁に踏んだせいかもしれん」

「バスの運転手?」

「バスか、トラックだろうな」

「油を分析してみれば、もっとはっきりとするでしょう」タルタコヴァが言った。

「そうだ、もう1つ」

 ネイガウスは解剖室にいた助手に声をかけた。

「あの肝臓、ここに出してくれないか」

 助手は解剖台の下からバケツを取り出した。バケツからねばねばした赤黒い塊を掴んで、台上の死人の足元に載せる。

「これは被害者の肝臓だ。たいへんに肥大してる」ネイガウスが言った。「だから、大酒飲みだったのだろうと考えた」

 ネイガウスは白衣のポケットからメスを取り出し、肝臓を切り裂く用意を整えた。

「みんなで匂いをかいでもらいたい」

 刑事たちは肝臓に上体を傾けた。

「よし、いくぞ」

 メスが一直線に走る。途端にすえたアルコールの強烈な匂いが立ち込める。リュトヴィッツはむせ返りそうになった。全員が後ずさり、咳をしたり、力なく笑ったりする。

「ふむ、この件に関しては疑問の余地が無くなったわけだ」

 ネイガウスはご満悦の体だった。

「ただ、不思議なのはこの男がベジタリアンだったらしいことでね」

「ほぅ、それは確かに妙だ」ギレリスが同意する。

「そうですか」ラザレフが言った。「最近の肉の値段、見たことがありますか?」

 スヴェトラーノフがうめき声を上げた。向かい側の台で若い女の死体を解剖していた職員の1人が電気ノコギリで頭蓋骨の上部を切り取り始めた。スヴェトラーノフは情けない声で呟いた。

「二度と肉なんて食えそうにないな」

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