[36]

 ヴィシネフスキーの葬儀はグルジア式の豪華な式典とは正反対に、終始つつましく営まれた。国から出された補助金だけでは、いちばん安い値段の棺も買えなかった。ギレリスが大屋敷じゅうからかき集めたカンパがなかったら、カテリーナ・ヴィシネフスカヤはレンタルの棺でとりあえず遺体を墓地まで運び、ビニール袋に移して埋葬するという策を取らざるを得なかっただろう。

 レルモントフスキ大通りのユダヤ教会堂で葬儀は執り行われた。わざわざ哀悼の意を表しに来た参列者の多くはヴィシネフスキーが書いた記事の読者だった。市長もじきじきに姿を見せた。ヴィシネフスキーはベリンスキーやツルゲーネフ、ブロークなどの国民的作家が眠る最古にして最も格式の高いこの墓地に葬られることになった。これも市長の計らいによるものだった。

 門の外に並ぶ車も市長のジルは別として、どれも人目を引くようなものはなかった。献花も大きな花輪なども無い。一輪ずつのカーネーションだけが棺に添えられた。そこには紛れもなく、この6月の暖かい午後に集まってきた人々の胸を打つ本当の悲嘆があった。

 埋葬が終わった後、参列者がゆるやかに散り始める。カテリーナは夫の墓のそばに立ち、墓掘り人たちが棺に土をかける様子を見守っていた。

 ギレリスがスヴェトラーノフとラザレフに顔を向ける。

「車で待ってろ。私は夫人と少し話をしてくる。この前、隠してたことがあるとすれば、今こそそれを吐き出させるときだ」

 車を出たギレリスの背を見ながら、スヴェトラーノフはタバコに火を付けた。

「どうして、あんなマネができるんだ?彼女にも、夫の葬式の時ぐらい、ささやかなプライバシーを要求する権利があるんじゃないか?」

「あなたの言う通りですよ」ラザレフが言った。「大佐は時々、鬼みたいになるんです」

 ギレリスは《詩人の小道》を独り歩いているカテリーナに追いついた。

「お話しして構いませんか?」

「ロシアは自由の国になったんでしょ」カテリーナはため息をついた。「みんな、そう言います」

 ギレリスは深く息を吸い込む。それから一気に吐き出すように言った。

「あなたは今までわれわれに完全に心を開いてなかったような気がするんですが、どうでしょう?」

 しばらくの間、カテリーナは黙っていた。ギレリスは質問をくり返した。

「正直なところを聞かせていただけますか?」

 カテリーナは青い空を見上げる。その眼に涙が光った。

「実は、ドミトリはボディガードを雇おうとしました。でも、それは誰かを特に恐れてのことじゃありません」

「よくのみ込めませんな」

「いくつか理由があったんです。ドミトリはある程度、リスクを伴うテーマにぶつかるまで、決して満足しない人でした。それがあの人の生き甲斐だったんです。どんなに脅かされたり、恨まれたりしても、自分の信念を曲げようとしませんでした。前に申し上げたように、その姿勢のツケが最近、まわってきたようでした。でも、ボディガードを雇うことで、そういう重圧から少しは逃れられるように思えました。そして、お酒の問題からも・・・というわけで、あなた方のお仲間の警察官を雇おうとしたんです。暴動を鎮圧する仕事をしてた人を」

「特別任務民警支隊(OMON)ですか?」

「ええ。ただ、その人の請求する報酬があまりに高すぎました。ボディガードなど雇う余裕はないと申し上げたのは、そのことがあったからです。わたし、民警に腹を立てたんでしょうね。もう少しお金があれば、ドミトリは死なずに済んだかもしれないと思って」

「そのOMONの男ですが、名前を覚えてらっしゃいますか?」

「ロマン・・・スヴェルコフ」

 ギレリスはその名を頭に書き留めた。カテリーナが深いため息をつき、片手を胸にやる。

「わがままを言うようですけれど、しばらく独りにしていただきませんか?」

 ギレリスが車に戻る。ラザレフが自動車電話で話していた。通話を終えたラザレフが要件を伝える。科学技術部の《鉄のソーニャ》から見に来てもらいたい死体があるという。スヴェトラーノフが大きな声でうめいた。

「遺体安置所だけは、遠慮したいな」

 ギレリスが新しいタバコを口にくわえる。ライターで火をつけ、くっくっと笑う。

「物事は明るいほうに考えるんだな。当分の間、食欲に悩まされずに済むぞ」

 サンクトペテルブルクで1日に発生する200人から300人の死者の内、大多数は北東にネヴァ河を越える。包囲戦の犠牲者が眠るピスカリョフ記念墓地を通り過ぎて、遺体はその隣に立つ法医学検査所に運ばれる。

 夕闇が迫る時刻、ギレリスのジグリはピスカリョフスキー大通りを外れて、メチニコフ病院の横を通るでこぼこ道を走った。車窓から要塞の形をした法医学検査所が見える。その建物は死の不気味さとはおよそかけ離れた外観を呈している。西日がピンクの煉瓦を温め、黄色味を帯びた窓を照らしている。まるでグリム童話に出てくるお菓子の城のようだな。スヴェトラーノフはそう思った。

 ギレリスは正面玄関の前に車を停める。リュトヴィッツが玄関の脇でタバコを吸って待っていた。車を降りたギレリスはその肩を小突いた。

「ずいぶん長いトイレだったな」

 リュトヴィッツが黙っている。スヴェトラーノフが耳に口を寄せた。

「何か収穫は?」

「何も」

 刑事たちは所長室に通された。法医学検査所長のネイガウスは電話中だった。受話器に向かって話しながら、刑事たちに椅子をすすめる。

「ああ、毒性はたいへん高い。殺鼠剤に使うぐらいだ。その女、化学の教授だと言ったね、中尉?手に入れるのは、そんなに難しくないはずだ。よし、わかった。構わんよ。うん、明日の朝までに報告書を用意しておこう。それじゃ」

 ネイガウスは受話器を置いた。革張りの立派な椅子から立ち上がって全員と握手を交わす。白髪頭にほんのり日焼けした肌。表情はいかにも気さくそうだった。

「どう思うかね?」ネイガウスは誰にともなく問いかける。「地位も教養もある女が共同住宅の同居人たちに毒を盛ってた。自分の部屋がもうひとつ欲しいばっかりに」

「何の毒です?」ギレリスは言った。

「タリウムだよ。タリウム203」

「それはなかなかいい手ですな。隣の家にピアノがありましてね。子どもがしょっちゅう練習するんですが、とんでもない調子外れで」

 ネイガウスは笑った。

「秘書に言って、君の分を注文させよう」

「それで、見てほしい遺体というのは?」

 ネイガウスは机の上からタバコの箱を取り、白衣のボタンをかけた。

「今から案内しよう。ついて来たまえ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る