[35]
リムジンの中は洞窟のように暗かった。オレグとヴァレリーの母であるアンティカは後部座席に小じんまりと坐っていた。衣服はくすんだ色だが生地は上等。レインコートの裏地に洒落れたデザインをしたロゴがあしらわれている。
「知らない男性とこの近さで一緒にいるのは4、5年ぶりです」
アンティカは口を開いた。波紋模様が浮いて見える黒いベールを顔の前に下ろしたままだった。
「この方が話しやすいので」
「どうぞご自由に」
リュトヴィッツは前後に向き合う座席の間で広い床にしゃがんだ姿勢で言った。「あなたは私と話したいそうですが」
「そうですの?」アンティカは眉の端をつり上げた。「あなたが私の車に強引に乗り込んできたんだと思いましたけど」
「ああ、これは自家用車ですか?間違えました。てっきり市営バスだと」
「この野郎、ふさげやがって」
恫喝とともにリュトヴィッツの後頭部に、冷たい物が押しつけられる。背後に眼を向ける。運転席の近くに後ろ向きに設置されている座席からボディガードがマカロフを突きつけている。アンティカが「止めなさい」と低い声を発する。ボディガードはしぶしぶ銃を下ろした。
「助かりました」リュトヴィッツは言った。
アンティカは柔らかな視線をリュトヴィッツに向けてきた。
「あなたのホテルまでお送りしますわ。ホテルを見てみたいし。それでよろしいですか、リュトヴィッツ大尉」
「それで結構です」リュトヴィッツは答えた。アンティカはボディガードに運転席との仕切りを開けさせて、運転手に行き先をセンナヤ広場と告げた。
「喉は渇いていらっしゃいませんか、刑事さん?」
「お気づかいはありがたいですが、喉は渇いてませんから」
アンティカの眼が大きく開き、細くなり、また大きくなった。リュトヴィッツを値踏みし、すでに知っていることや聞いていることと照らし合わせているようだ。視線は敏捷で無慈悲。優秀な刑事になれそうだ。「ウォッカはお嫌いなのね」
車はボリショイ大通りに出る。エカテリーナ教会を左に見ながら、レイチェントシュミット橋を渡って市街地に向かう。ホテル・プーシキンに着くまであと10分。アンティカの眼がリュトヴィッツを射すくめた。
「いえいえ、いただきます」リュトヴィッツは言った。
アンティカが目配せする。ボディガードが冷えた瓶入りのウォッカをよこした。リュトヴィッツはいったん酒瓶をこめかみに当てる。それからウォッカをひと口含む。
「さてと」アンティカが言った。息でベールが持ち上がる。「認めましょう。その通りです。私はあなたとお話ししたいと思いました」
「私もです」
「なぜです?私が2人の息子を殺したと思ってるんですか?」
「オレグについては何とも言えませんが、ヴァレリーは違う。あなたはヴァレリーを探していた。チェチェン・マフィアのチンピラ2人を使って」
「ヴァレリーは殺されたのですか?」
「ええ、そうです。聞かされてなかったんですか?」
「ヴァレリーが死んだことは、パルサダニヤンから聞きました。ただ、あの男はいつも私に嘘ばかり聞かせるのです」
アンティカは身を乗り出してきた。
「さあ、お願い。話してくださいな」
「ヴァレリーは射殺されました。やり方は・・・この際はっきり言いますが、彼は処刑されたんです。犯人は分かりません。ヴァレリーは死んだときにヘロインをやってたことが分かってます。だから、何も感じなかったろうと思います。つまり、苦痛はという意味ですが」
「何も、と言う方が正しいわね」アンティカは言った。「続けてください」
「我々は犯人が素人ではないと考えてます。ただ、捜査はあまり進展してません」
「なら、私とお話ししたいのはどういうわけ?」
リュトヴィッツはウォッカの冷たい瓶を額の上で転がした。
「あなたなら、犯人の目星がつくかと」
アンティカは1分ほど何も言わなかった。ヴァレリーのことは誰にも話さないというこれまでの習慣と闘っているように見えた。まして、初対面の刑事には話しにくいのだろう。あるいは、声に出して話しながら息子のことを思い出すにつれてわれ知らず湧き起ってくる喜びと闘っているかもしれなかった。
「ヴァレリーとは、15年以上会っていませんでした」アンティカは言った。「そして、もう二度と会えないのです」
「なぜです?」
「あの子は頭が良過ぎました。だから、チェスしか出来ませんでした。チェスで人と会話してたんです。私はチェスが出来ませんでした」
「彼のチェス相手で知ってる人はいませんか?」
「心当たりなら1人だけ。昔、ヴァレリーから電話で聞いたことがあります。もう10年ほど前です。ヴァレリーはその相手を《カイーサ》と呼んでいました」
「オレグの事件についてはどうです?」
「オレグは愚か者です。度し難い程に。自分の父を殺した男の許に行ったんですから」
「パルサダニヤンのことですか?」
「パルサダニヤンは狂信者です。オレグも愚かでしたが、物事の善悪の区別はちゃんとついてました。だから、殺されたのです」
「パルサダニヤンがヴィクトル・サカシュヴィリを?」
「そうに決まってます」
リムジンが減速して停止した。リュトヴィッツはスモークガラスごしに外を見る。ホテル・プーシキンの前だった。アンティカがボタンを押して自分の側の窓を下ろす。午後の灰色の光が車内に入りこんできた。
アンティカはベールを持ち上げてホテルの正面を見た。みすぼらしい恰好をした酔っ払いが2人、ホテルのロビーからよたよたと出てきた。互いによりかかった2人は風に飛ばされてきた1枚の新聞紙を相手にドタバタしたコントをした後、通りに消えて行った。
アンティカはまたベールを下ろして窓を閉めた。リュトヴィッツは相手が黒いベールの奥でこちらを非難していると思った。あなたはよくこんなボロ宿に住んでいられるものね。いったいどうして私の息子を守ってくれなかったの。
「私がここに住んでいると誰に聞いたんです?」
「セミョーノフから」
「地質学の教授が私のことを話したんですか」
「昨夜、電話をもらったの。あの人は言いました。もしあなたが訪ねてきた場合、あなたをちょっとでも信頼してみるのは間違いではないと。あなたが最初にヴァレリーの遺体に見たんですってね」
「ありがたいことを言ってくれる」
リュトヴィッツは心からの感想を口にする。アンティカがボタンを押してドアロックを解除した。リュトヴィッツは自分の傍にあるドアを開けてリムジンを降りた。
「ともかく」アンティカは付け加えた。「このおぞましいホテルを前もって見ていなくてよかった。見ていたら、絶対にあなたをそばへ来させなかったでしょうから」
「大したホテルではないが、私には我が家です」
「家などと言うものではありません」アンティカは言った。「でも、そう考えた方があなたには楽なのでしょうね」
リュトヴィッツは走り去るリムジンを見送った。ホテルの前で建物に寄りかかり、アンティカからもらったウォッカを煽る。熱が喉元を通り過ぎてため息が出る。しばらく経った頃、センナヤ広場からパトカーがやって来た。
「同志大尉、探してたんですよ」
運転席の窓からペトロフが顔を覗かせる。
「何か事件か?」
「科学技術部からのお電話で、遺体安置所まで来てほしいとの要請です」
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