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 ギレリスの執務室はコンドラシンの部屋の半分ぐらいの広さだった。今のロシアで個人の部屋が与えられるだけでも僥倖だろう。リュトヴィッツはそう思った。壁にサンクトペテルブルクの大きな地図が貼られ、市内22の地区に境界線が書かれていた。片隅にはファイルや書類を収めた大型の金庫が置かれ、レーニンの石膏像が上に載っている。洗面台とコート掛けのついた造り付けの戸棚がある。

 何台もの電話が並ぶ執務机にテープレコーダーを載せている。ギレリスとリュトヴィッツはKGBが盗聴したヴィシネフスキーの通話記録を聴いていた。その前に保安省に依頼してレストラン・トビリシに仕掛けた盗聴マイクの記録を聴いたが、大した成果は上がらなかった。グルジア・マフィアの大半が酔っ払っていて、何を話しているのか、さっぱり分からないという有様だった。

「ちょっと聴いてみてくれるか?事件の1週間前に録音されたものだ」

 ギレリスがスイッチを入れる。最初の声はテレビでおなじみのものだった。

《はい、ドミトリ・ヴィシネフスキー》

《トーリャだよ》

《おお、トーリャ。かかってくるのを待ってたよ》

《手紙、受け取ったか?》

《ああ、受け取った。とても興味深い内容だった。しかし、本当なのか?》

《全部、本当さ。証拠もある》

《だったら、これは大変なことだ。でかい記事が書ける》

《そりゃそうだろうよ》

《電話では、これ以上話さないほうがいい。どこで会える?》

《ペトロパブロフスカ要塞はどうかね?聖堂の中で。そうだな、3時に》

《わかった。行くよ》

 ギレリスがスイッチを切る。反応を待つように相手の顔を見た。

「トーリャはウクライナ人のようですね」リュトヴィッツは言った。「子音がちょっとこもり気味で」

「私もそう思った」

 ギレリスは手帳を見る。メモに書き留めておいた数字にカウンターが達するまで、テープを早送りする。

「次はこれだ。ヴィシネフスキーが盗難を届け出たその日の朝」

《もしもし》女性の声だった。教養が感じられる。ペテル近郊のなまり。

《やぁ、ドミトリ・ヴィシネフスキーだ》

《お久しぶり。お元気?》

《ああ、元気だよ》

《今は何を追いかけてらっしゃるの?》

《あなたにちょっと、頼みたいことがあってな。興味があればの話だけど》

《マスコミのお役に立つことなら、なんでも》

《よかった》

《どういったテーマ?》

《電話では、話したくない。そちらへ、迎えに寄ろう。昼前では、どうかな?》

《結構よ》

《じゃあ、そのとき》

「さて、何の話をしてたのやら」ギレリスが言った。

 テープをまた早送りする。

「最後はこれだ。われらがウクライナの友がヴィシネフスキーの殺されたその日、再びかけてきてる」

《はい、ドミトリ・ヴィシネフスキー》

《おれだよ、トーリャ》

《トーリャ、どこに行ってたんだ?何か起こったんじゃないかと、心配したぞ》

《夕べは酔っ払っちまったんだ》

《またか?そんなに飲んだら、だめじゃないか。体によくない》

《飲むぐらいしか、やることないだろ。それに、ほかのことも忘れられる》

《調子が悪そうだな》

《二日酔いさ。ところで、もう一度会えないかな?まだあんたに話したいことがあるんだ。大事なことだよ》

《いいとも。どこで会う?》

《またペトロパブロフスカで。あそこのレストラン、知ってるかね?》

《ポルタヴァか?ああ、知ってるよ》

《8時半に、テーブルを予約しといた。ベリヤって名前で》

《ベリヤ?》ヴィシネフスキーがくすくす笑う。《違う名前は思いつかなかったのか?》

 しばしの沈黙が訪れる。

《なんか都合が悪いのかね?》

《気にしないでくれ。それより、体は大丈夫か?トーリャ》

《ただの二日酔いだって。ほんとだよ。じゃあ、あとで会おう。来るだろ?》

《行くよ》

「さぁ、どうだ?」ギレリスが言った。

「トーリャが、なんだかびくついてるようですが」

「かなりな」

「ヴィシネフスキーはレストラン・ポルタヴァでトーリャを待ってたんですね」

「ベリヤがどういう人物なのか、トーリャは知らなかったようだ。ただ知らなかっただけなのか?口から出まかせに思いついただけの偽名なのか?それとも何かしら意味がある名前だったのか?ヴィシネフスキーに警戒しなくちゃいけなかった何かの兆候が・・・」

「われわれが見逃した何か」

「もしかすると、法医学検査所で見てきた死体はこいつだったのか?芳醇な香りでわれわれを楽しませてくれたあの肝臓がトーリャのものだったとしても、別に不思議はない」

「そうだとすれば、トーリャを痛めつけた連中は彼を使ってヴィシネフスキーを呼び寄せたかった。最後の電話をかける間、銃口が頭に突き付けられていたのかもしれない。トーリャは具合が悪かったというより、不安に脅えていた。脳天を吹き飛ばされるんじゃないかという不安。そして、まさにその不安は的中した」

 リュトヴィッツは息をついた。ギレリスが相槌を打ってくれるのを待つ。

「続けてくれ」

「連中はヴィシネフスキーをレストランで待たせて、出てきたところを捕まえた。夜の要塞はひっそりしてて、騒ぎが起こる心配もなかった。車に乗せるのに、大して苦労は要らなかった。その頃には、オレグ・サカシュヴィリも連中の手の内にあった。連中は二人をあの森まで連れていき、撃ち殺した」

 ギレリスがうなづいた。

「ああ、そういうことだろうな。サーシャ、クリコフに市内のバス会社と運輸会社にかたっぱしから電話させろ。この2週間ほど、欠勤してる運転手がいないかどうか確かめるんだ。対象者は名前か愛称がトーリャというウクライナ人だ」

 リュトヴィッツは怪訝な表情を顔に浮かべる。ギレリスはリュトヴィッツの表情に気づいて、首を左右に振る。

「とんでもない命令だということは分かってる。長期や無断の欠勤は最近じゃ、ちっとも珍しくないからな。トーリャの身元を突き止める必要がある。彼がどんな情報を持ってたのか。それが分かれば、ヴィシネフスキーが殺された理由も分かる。たぶん、オレグ・サカシュヴィリについても」

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